私が愛した人
コーヒーカップをテーブルに置くと、カチャンという音が誰もいない部屋の中に響いた。
開いている窓から吹き込む風はあくまで柔らかで、優しくカーテンを揺らすだけにとどまりこちらの気分を害したりしない。
一口飲んだコーヒーは無糖のブラック。
苦味が口の中に広がり本来甘党である事を主張する舌は、これ以上苦い液体を認識することを拒否している。
「私はね、やっぱり大切な人が大切な人と幸せになってほしいのよ」
誰もいない空間に、そうぽつりとこぼされる言葉。
誰もいないからこそ、誰も聞いていないからこそ口にすることができた。
「ほら見てあの弾けんばかりの笑顔。ちゃんと幸せな証拠だわ」
白いレースのカーテン越しに外を見れば、青々と茂る芝生の上に寝転がり笑い声をあげる一組の男女。
どちらも取り立てて容姿がいいわけではなかったが、眩しいほどの笑顔はお互いがとても幸せであるということを第三者に伝えている。
見ているだけで幸せになれるような、まるでおとぎ話に出てくるワンシーンの様な穏やかさが窓で四角く切り取られたそこに広がっていた。
「あたしはあの人のことが好きだったわ。でもあの人が好きなのは、悲しいかな、親友の女の方なのよね。
別に好きな人を親友にとられたからって、そもそも付き合ってもいなかったっていうのにそんなちっちゃい事でぶつぶつ言ったりしないわ」
そう、ずっとずっと男のことが好きだった。
片思いをし続けてもう何年になるだろう。男以外にはわき目も振らず、ただ一途に思っていた。
でも、いつだったか。紹介した親友の女に男は一目ぼれをしてしまったのだ。
それを悪いとは言わない。
別に告白したわけでもないし、付き合っていたわけでもないのだ。そもそも男は好きだったという感情をこちらが持っていたという事すら知らなかったのだから。
男が親友を好きになったって、親友が男を好きになったってしょうがないのだ。
なにせこの恋心は親友にすら伝えていなかったのだから。
「だって私の親友と一緒にいるあの人は輝いているんだもの。現在不幸ならともかく、見てるこっちが恥ずかしいくらいラブラブじゃない」
男は親友を深く愛したし、親友もまた、男のことを深く愛していた。
まさに幸せの絶頂といった二人。
「私が我が身可愛さに割り込むなんて真似して二人の間に亀裂を入れたくないわ」
どちらも大好きな人だったのだ。
そこに妬む気持ちがないといえば嘘になる。
でもそれ以上に大切だったのだ。
「本当は私が幸せにしてあげたかったけど。本当は私と幸せになってほしかったけど」
コーヒーカップを手に取り、湯気の立ち上る黒い液体を見つめる。
黒くて、そこの見えないそれは香ばしい香りがした。
「目を閉じればあの人の幸せな顔が浮かぶもの」
「あの人の幸せに私はいないけれど、あの子の幸せにも私はいないけど」
「結局のところ私はあの人が大切だから、私以上に幸せにしてくれる人と一緒にいたら良いと思うわ」
一言一言かみしめるように口にすれば大気に溶けて窓の外の二人には届かない。
一口含んだそれは相変わらず舌に拒絶されるほど苦くて、胸の奥底のほうからせりあがってくるものに少しだけ似ている。
それを無理に飲み込んでしまえば、舌先に残る微かな風味に人知れず涙を流した。