ACT1:スペキュレイティブ・フェブレーション
【まえがき】
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かつては大陸と同じ《創造神イアネド》の名を冠するオアシスだった一帯も、今となっては広大な砂漠と化し、地図の表記さえゴア──大陸原生種シリカ人の言葉で汚れを意味する蔑視──と書き換えられているほどだった。
ゴアの南西はとくに腐土と呼ばれ、痩せた大地は草木を受け付けず、生きて動いているものといえば砂漠に順応した一部の生き物だけだった。それでも以前は遺跡を盗掘するシーフたちを見かけることもあったが、そうした人影もここ四半世紀ほどで激減し、もはや食い詰めたシーフさえ寄りつかない辺境となっていた。
そんな砂漠に点在する廃墟のひとつに、標的の隠れ家はあった。
廃墟はもと王族の宮殿跡で、風化の状態からみて少なくとも数世紀は放置されたものだ。国や王家の名はとうに忘れ去られ、その国を支えた民の血筋もまた、砂漠に没した国の運命とともに歴史の海に飲み込まれてしまっていた。
絵馬は足もと深くにうずもれた小国の輪郭を見渡したが、内部に潜む人影をとらえることはできなかった。もちろん敵も馬鹿ではない。対スキャナーのシステムくらいは用意しているはずで、想定内のことだ。
いちどだけ砂漠の地平線を見やり、絵馬は地上に取り残された高台の宮殿部分へと向かった。
内部へ侵入するなり、絵馬はさっそく敵の襲撃を受けた。
ご丁寧にも非正規シグナルを発してくれているおかげで、相手がBNPCであることは一目瞭然だった。つまりは“中身のない”操り人形であり、手加減無用の相手ということだ。
どこからともなく現れた四つの人影は倍に分裂し、絵馬の周囲を乱舞しながらさらに増殖して十六体になった。いずれも屈強な体を近接用の軽鎧で覆い、さしずめ百戦錬磨の傭兵タイプといったところだ。
ひとりが背中の大剣を抜いたのを合図に、他の傭兵たちも一斉に得物を構えて絵馬を取り囲んだ。多勢に無勢、まさに袋のねずみといった状況だ。
だが彼らがいかに戦闘の手だれであっても、所詮は自律式のプログラムだ。実戦を積んだ絵馬の五感にかなうはずもなく、戦いは一方的に絵馬の勝利で終った。
最初の犠牲者が断末魔をあげてから、最後のひとりが内臓と血へどをぶちまけるのに、ものの数分とかからなかった。
血の海と肉片と汚物で彩られた大理石の床に立ち、絵馬は斬撃用に短く切り詰めた特注ランスの血のりを払った。
槍の刃先をグリップに仕舞い、背中のラッチに収めると、肩をすくめて言った。
「思ったより手間取ったわ……まだ足元と頭上の視野がぼやけてる……」
絵馬の愚痴に西京が答えた。
〈贅沢言ってくれるよ。これでも努力してるんだぜ……。そもそもこんな独立型の中継設備じゃあ、お前の視野をトレースするだけで手いっぱいさ。そっちに返す同期データにまで責任は持てない。わかってるだろう?〉西京の声は絵馬の聴骨に直接響いた。
「反応が鈍いと気が滅入るのよ……次はもう少し改善してちょうだい」
〈はいはい、お姫様。……それよりそいつらは警報だぜ。どうする? 網を張るか?〉
「やるにしても手遅れよ。それに、ヤツなら逃げないと思うわ」
〈へえ。新しい知覚でも仕入れたのか? なぜそう思う〉
「私がここにいるからよ」
西京はとっさに俯瞰ビューのディスプレイに目をやった。
俯瞰ビューは絵馬の視野映像とは独立したモニタリング・システムで、絵馬の視覚がとらえた不可視光線から構成される擬似的なクォータービュー画像だ。これにより、西京は神の視点で絵馬の姿をモニターすることが可能だった。
血の海にたたずむ絵馬の肢体を目にして、西京はつい思考を奪われた。見慣れたはずの絵馬のボディ・ラインに、射すくめられたように固まってしまったのだ。
絵馬が身につけているのはメジャー・プレートと呼ばれる軽騎兵用の標準装備だ。カテゴリーでは板金装甲鎧に分類されているのだが、保護しているのは胸と下腹の一部だけという水着のような造りで、ほぼ裸といっても差し支えない。
もちろんこれは、物理的な機能面よりもユーザーへの──とりわけ男性ユーザーに対する配慮からデザインされた結果だ。
絵馬は必要がない限り仮想形態捜査を好まず、今回もオリジナルのボディを俯瞰ビューの中に再現していた。
一八〇を越す長身と、モデル並みに均整のとれたプロポーションだけでも人の関心を引くには充分だが、腰までまっすぐに伸びた黒髪が暗示する通り、そのボディに植わっている顔が純血の日本人種であり、なおかつ金目銀目とくれば、嫌でも見る者の感傷をかきたてる。
仕事上、一緒にいる時間が長い西京にとってみれば、そうした感慨に加えて異性に対する感情が生じるのも不自然なことではなかった。むろんそれを表に出すことがいかに危険であるかについては、西京自身わきまえていることだったが。
「いつまで見てるのよ。それとも脱いであげましょうか?」
〈馬鹿! なにも俺は──〉西京は口ごもった。
絵馬はクスッと笑った。
この数世紀のあいだ、性に対する社会意識や規範はそれなりに大きな変革を経てきたが、だからといって人々の精神が高次へと進化したわけではなかった。人類が古い形の儀式に頼った生殖を持ち続けようとする限り、人の根源的な欲求がまったくべつのなにかに置き換えられてしまうことはないのだ。
性にまつわる多くのビジネスが法に許容され、過去の歴史のなかで普遍とされてきた背徳がどれほど市民権を得ようとも、多くの母親は我が子に与えるカタログに対して真っ先に規制をかけるし、露出狂の正装が世の中の常識となった試しはいちどもない。人は今でも相も変わらず古き良き倒錯の世界に魅了され、女性の胸やお尻は生物学的セックスの頂にあり続けている。
だが絵馬たち警察機関の人間というのは、職務中に限っていえばその手の欲望を自制することに長け──あるいは麻痺しているといってもいい人種だ。自身や仲間の命はもとより、常に一般市民の命をあずかる彼らのような業種では、職務中に互いの肉体に性欲を覚えている暇などなく、警察という組織構造そのものが性の介在を許さなかった。多くの警察施設ではシャワーも着替えも男女混在で、それこそ同僚の裸など見飽きているのが普通だ。
だが稀に、西京のようなわかりやすい反応を示す人間も存在する。
絵馬はそんな人間臭い相棒が好きだった。
「冗談よ。それよりヤツの気配が見えるの。どうやらカモフラージュを解いたみたいね……じっとして動かないわ」
〈抜け殻かもしれんな。もっと時間があれば探査プローブを準備できたんだが〉
「どうかしらね……。私が来るのを待っていたのだとすれば、なにか仕掛けがあるのかもしれない」
〈待て──〉西京は会話を中断し、しばらくして絵馬とのラインをつないだ。〈たったいま正式な令状が降りた。応援を要請するか?〉
「二〇七条?」
〈いや……二〇八条──生死を問わずだ〉
「オーケイ。ならわかってるでしょう」
そう言うと絵馬は歩き出した。
絵馬の聴骨に西京のため息がこだました。
〈だと思ったよ……〉
絵馬が立ち去ったあと、床に転がる死骸の群れがほんのりと光り始めた。
光は肉片と骨と臓器を貪り、引き裂かれた衣類や武具に飛び火し、エサがなくなると床や壁の血液にも手を伸ばした。
散らばったものを残さず平らげた光は粒状に変化し、流砂となって移動しながら霧散したのち、蛍の群れのように宙を漂った。
やがて元死骸の粒子は明滅しながらいくつもの蚊柱を作り、最後にはその場から消滅してきれいさっぱりと存在を否定した。
それがこの世界における人の最後だった。
本物の死ではない。あくまで虚構世界──V.F.S.によってゲーム内世界に構築されたプレイヤーの死だ。
絵馬が仕留めた相手はプログラムで動くBNPC──俗にブランクNPCやシャドウNPC、あるいは単に“シャドウ”と呼ばれるAI動作のNPC──だが、死亡時の挙動自体はプレイヤー・キャラクターも同様だ。これはゲーム内のあらゆる死に適用され、強制的に実行される。
通常、死ぬことでアクセスを切断されたプレイヤーには覚醒シグナルが送信され、現実世界に横たわるプレイヤーの肉体が強制的に目覚める仕組みになっている。もちろん公的プログラムとして運用されている以上、ゲーム内の擬似死が現実世界のプレイヤーに及ぼす精神的、かつ肉体的な不具合は解消済みだ。
また、死亡してから一定時間は再ログインができないよう安全措置が施され、一般の定期医療検診には、これらゲームプレイに関する検査項目も法律で義務付けられている。ヴァーチャル技術の創成期はともかく、今日のV.F.S.における事故の発生確率は、野外活動中のボーイスカウトが落雷の直撃を受ける不運よりも遥かに低い。
だが絵馬たちが追っている連中は普通のプレイヤーではない。V.F.S.に不正介入する、いわゆるハッカーだ。
彼らのような不正アクセス者がゲーム内で死亡した場合、その影響は最悪の形で現実世界に還元される可能性が高い。ゲーム内の経験差分データを一括して処理する通常ログアウトとは異なり、強制ログアウトのロジックが可逆的で常時リアルタイムに処理されるためだ。
もちろん彼らハッカーたちにも打つ手がないわけではない。その手段のひとつが、強制ログアウト用の相互チェックモジュールに自らの不法意識データを登録する“アンカー”と呼ばれるツールを組み上げ、それをログアウト・プロセスに紐付けることで非常用の保険とする策だ。だが保険とは名ばかりで、その処理が確実に担保される保障はどこにもない。強制ログアウトに失敗したハッカーが行き着く先は、現実世界の死だけだ。
最も安全なハッキングはゲーム・サーバーの中枢をジャックすることだが、桁外れの処理能力を持つ都市管理システムと同等以上のサーバーを乗っ取ることは、ハードウェアの物理的な制約から不可能とされている。
だがどれほどのリスクがあろうと、ハッカーたちはこぞって仮想環境に侵入した。技術それ自体への探求が彼らの存在意義であるいう理由のほかに、仮想データは確実にお金になるからだ。
V.F.S.技術が生まれてからおよそ三世紀──時代とともに法律や技術がいくら進歩したところで、人類としてのヒトの本質が変わらない限り、複雑な事情と曖昧な解釈に根ざした犯罪が常にいたちごっこであるという構図は、昔も今もなにひとつ変わっていなかった。
今回の捜査で絵馬が追っている相手も、そうした浅はかな人間のひとりだった。
絵馬は廃墟の深部へと進み、最後の扉を開いた。
その場所は玉座の間だった。
石造りの広間の中央には黒水晶の椅子がしつらえてあり、そこにお目当ての人物が座っていた。
男はゲーム内の世界観でいうところの王族に類する、金銀細工が施されたきらびやかな衣装に身を包んでいた。
男はただ押し黙り、まるでこの世界を牛耳ったかのように勝ち誇った笑みを浮かべ、一歩ずつ歩みを進める絵馬を見つめた。
だが互いの距離が二、三メートルほどに縮まったところで、男の衣装が迷彩服へと変わった。
次いで男の膝の上には自動式のショットガンが出現した。螺旋マガジンに詰まった一二〇発をわずか三十秒で空にする軍用モデルだ。もちろん民間人の所持は禁止されているモデルで、そもそも中世をモチーフとしたゲーム内には存在するはずのない、不正な武器データだ。
「ずいぶんと大きな玩具ね。私ひとりには大げさ過ぎない?」
絵馬の言葉に、男はニヤリと笑った。
火薬を用いる銃器デザインが一様に安定したのは五百年も昔のことだが、当時からほぼ完成された構造は現代でもあまり変化がみられない。宇宙空間で使用される武器の主流はレーザー兵器だが、重力のある場所では今でも火薬式の銃器を用いる場合が少なくない。もっとも今日の技術でパーツの材質は変更され、火薬の改良によって殺傷力は飛躍的に向上していた。
現に男の膝にあるショットガンの弾薬は、ちょっとした小型ミサイルに匹敵する制圧力を秘めている。三インチのケース内に詰まった六十粒ほどのセラミックスチール散弾は、粒それぞれの内部に炸薬が封入されており、実用有効射程の一〇〇メートルで二十五センチ厚のケルト・ゴールド装甲を貫通する威力があった。人間に対して使えば、肉片すら残さず粉みじんにすることができる。
「まさかこうも早くに見つかるとは思わなかったぜ……あんた優秀なんだな」
椅子の男は口元をゆるませた。
絵馬は背中のランスをラッチから引き抜くと、頭上で回転させた。
ランスの回転が止まり、構えると同時にグリップの両端から鋭い刃先が出現した。
「おいおい、なんだよその得物は」
男は半ば飽きれたような口調で言った。絵馬のランスが非合法オプションで強化されていたからだ。通常ではあり得ない刃先の輝きがそれを物語っていた。
「お互い様でしょう」絵馬は落ちついた口調で告げた。「あなたには容疑者としての権利すらないから……そのつもりでね」
王座にふんぞり返っている男はせせら笑った。
「無理するなよ。ポリ公なんてみんな同じさ。結局は俺らと同じ人間なんだからな」
絵馬は男の台詞を無視して続けた。「あなたにはふたつの道があるわ。おとなしく投降するか──それともここで死ぬかよ」
男は白い歯を剥いていやらしく笑った。
「あんたこそ猫を被るのはやめたらどうだ。ここまで来たんだ。俺のことは隅々まで調べがついているんだろ? 俺には金がある。半分までならくれてやってもいいぜ……。あんたらが一生働いても稼げない額だ。わかるだろう? 市民からは人殺しと罵られ、いつでも命を狙われ、雀の涙ほどの安月給でロクでもない上司にコキ使われる……そんな生活から抜け出すチャンスだ。それを放り投げるつもりか? まともなやつなら、どっちが得かわかるはずだと思うがな。いいから言えよ……いくら欲しい?」
そう言って男が王座から立ち上がった瞬間──。
絵馬のランスが音もなく男の首をはねた。
自分が死んだことにも気づかない男の生首は宙を舞い、ニヤついた表情を浮かべたまま床を転がり、血のりで不思議な模様を描いてとまった。
絵馬は生首に歩み寄ると、「残念だったわね。私がまともな人間でなくて」足元に向かって言い、踏みつけた。
それからゆっくりと、首無しの体が王座に倒れ込んだ。
絵馬はランスを仕舞うと西京に言った。
「終ったわ。接続を切ってちょうだい」
とたんに絵馬の周囲が陽炎のように揺れ、暗転ののち今風にアレンジされた部屋の景色へと置き換わった。
絵馬の衣装も裸同然の鎧から、普段着のスーツに戻った。
*
そこは中央区の中でも最も高価な土地に建てられた高層マンションの一室だった。
「ご苦労さん。ゲームは楽しかったかい?」
部屋で彼女を出迎えたのは相棒の西京──ひょろ長い体をしていて、およそ危険な現場の捜査には向かない男だ。それだけが理由ではないが、西京はもっぱら技術的なサポートを担当していた。
一方の絵馬はといえば相棒とは正反対で、デスクワークよりももっぱら現場主義の捜査官だ。その経歴も異色で、彼女は人種保護法に指定された日本人種──すなわち《失われた系譜》であるばかりか、原種の血筋をもっていた。
本来なら彼女は第一級の保護対象であり、行政の──それも絶えず生命の危険にさらされる公僕になど就けない決まりになっている。だが絵馬はその法を逆手にとり、自分の体に宿る学術的な価値を人質に、惑星評議委員会の首を縦に振らせたのだった。
彼女が警官こだわる理由はとくになかった。最初は人類の遺産という名のもとに記号化され、蔑ろにされた人格のあだを討つ代替行為だったのかもしれないし、危険な職ならなんだって良かったのかもしれない。
今となっては己の能力を活かせる捜査活動を天職だと思っているし、彼女の全能眼が認識できる仮想空間の彼方には、彼女が求めるなんらかの答えがあるような気がしてならなかった。
大きく深呼吸をすると、絵馬は腰まであるストレートの黒髪を独特のしぐさではらい、額の電極を引き抜いて西京に投げてよこした。
それから部屋の片隅に据えつけられている《フリー・ボール》と呼ばれる半球状のゲーム用筐体に歩み寄った。
普通、V.F.S.の世界にダイブするにはこうした専用筐体が必要になる。それはヴァーチャル空間に不正アクセスする犯罪者たちも同じだ。
絵馬のように筐体を必要としない《スリープ・レス・ダイビング》は政府が独占する極秘技術だが、安全性に関しては度外視されているのが実情だ。そのうえ致命的なバグの存在が否定できず、ハッカーたちでさえ手を出そうとはしなかった。
絵馬は無意識に腰の銃に手を添えながら、筐体のエジェクト・ボタンに触れた。
内圧が漏れる空気の音とともにハッチが開くと、特殊塩水に浮かぶ内骨格には男の死体が横たわっていた。ゲーム内で絵馬が首を落とした男の本体だ。覚醒シグナルをシンクロさせることができずに脳死したのだ。それが不正アクセスの代償だった。
「馬鹿なやつだ。……生きてりゃ楽しいことだってあるのに」
絵馬の背後から男の死体を覗き込み、西京がつぶやいた。
「本当にそう思う?」
絵馬の言葉に西京の思考は停止した。
絵馬は相棒の戸惑いには反応せず、「じゃあ、報告書はお願いね」そう言うと死体に背を向けた。
一拍置いて我に返り、「また俺に押し付ける気か?」西京は両手をあげてゼスチュアした。
「ごめん。デートの約束があるの」振り向きもせず言いながら、絵馬は部屋を出て行った。
しばらくその場で放心していた西京は、舌打ちしてフリー・ボールに寄りかかった。
「言っとくが俺だって妻子持ちなんだぜ……。なあ、ひどいと思わないか?」
そう死体に語りかけた。
*
《ブック・オブ・ライフ》というゲームはV.F.S.の出発点とも言えるネット・ゲームのタイトルのひとつで、その原型は三世紀以上も前の二次元プログラムだった。
タイトルの“ブック・オブ・ライフ”は、太古の人々が信じていた神の記憶──宇宙創生から今日にいたる森羅万象を記録した《アカシックレコード》のことで、同時に生命の書とも言える遺伝情報を指す言葉でもあり、また聖書としての意味合いも含まれている。プレイヤーは中世風の世界で様々な職業に扮し、冒険を通して最終的にはこの《アカシックレコード》を手にすることでゲームとしてのエンディングを迎える、といった具合だ。
だがV.F.S.技術によってリメイクされた今日の《ブック・オブ・ライフ》には事実上の終わりが存在しない。これはほかの多くのゲーム・タイトルにも言えることだが、かつては画面に表示される自分のキャラクターをただ操作し、見つめているだけだったゲームから、プレイヤー自身がその世界にダイブし、虚構世界内の現実を五感のすべてで体感できるまでに変貌を遂げたのだ。
こうなるとゲーム内のあらゆる行為が主観的な意味での現実へと取って代わり、必ずしもゲーム上に設定された条件だけがゴールとは言えなくなってきた。まさに演じることそれ自体が目的であり、人々は無限に広がる虚構世界に自らの意識を投げ入れ、主人公としての主観を体現し、終わりのない第二の人生を楽しむといった文化が定着した。
その中でも《ブック・オブ・ライフ》は幅広い客層を集めるタイトルのひとつで、一般には聖書をもじって《VFSバイブル》、または《バイブル》と呼ばれていた。
絵馬たちは現在、この《バイブル》の専従捜査にあたっていた。
他のゲームと比較しても突出してハッカーたちの標的となっているためだ。とはいえ《バイブル》の脆弱性が特別というわけでもなかった。むしろセキュリティに関しては水準を上回っている。おそらくはガードが甘いという以外の部分で、同タイトルにはハッカーを惹きつける何かがあるということだ。
可能性はいくつも考えられる。ゲーム内に存在するデータを見るだけでもとりとめのない項目だ。それこそ取るに足らないアイテムからプレイヤー個々の経験情報にいたるまで、データと名のつくものすべてが商品としての価値を持っているのだから。
どだい、遥か昔の産業革命以降、ヒトの心と法律はあらゆるテクノロジーに乗り遅れ、技術にともなう犯罪に対して人類の歴史は常に後手に回ってきた。
だが多くの人々は、そうした過去の教科書には一切目もくれず、安易な利益に飛びついてきた。その見返りに雑多な文化や新たな思索、そしていくばくかの延命技術を手に入れはしたが、知性の成熟を待たずして記憶の外部化を容認し、AI人格法を可決した瞬間から、人類は後戻りのできない道を歩み始めたのだ。
人の記憶が商品としての価値を持ち、肉体は単なる“ボディ”として認識され、もはやイミテーションとオリジナルの境界は曖昧だ。
道徳と良心にとらわれた人々がいくら声高に忠告したところで、日常生活のあらゆる場面に浸透してしまったV.F.S.を規制することは容易ではない。もちろん問題のあるタイトルを個別に廃止する技術は用意されているが、V.F.S.空間は日々増殖しており、結局はいたちごっこでしかない。しかも大規模なゲームは惑星管理システムとも深くリンクされていて、ひとつのゲームを廃止するためには多くの法的手続きをクリアし、複雑なリプログラム作業が必要だった。その費用の合計たるや、小惑星がまるごと買えるほどの額だ。
行政局としては、結果が同じであるなら手間と予算を天秤にかけ、最もコストのかからない選択をするよりほかなかったのだ。
こうして今から一七六年前──グレゴリオ暦二二一六年に組織されたのが、絵馬や西京が所属する特捜班──V.F.P.の前身だった。
*
絵馬は小高い丘に立ち、都市のイルミネーションを見下ろしていた。
海湾都市の夜景は、惑星プラネット・ブルーの中でも五本の指に入る美しさを誇る。
たが星を散りばめたような都市の輝きも、絵馬にとっては何の価値もなかった。
彼女が生まれながらに背負った金目銀目──その全能眼と呼ばれる複合視野が認識できるのは、あらゆる波長の光と分厚い化学スモッグの海、そして展開図形化された世界なのだから。
彼女の視覚は可視、不可視光の制約を受けずに物体をとらえ、あらゆる角度からものを見る。建物も人も絵馬の目には透視図化され、それぞれに構成される物質に分解され、折り紙を広げた展開図のように映る。つまり彼女には理論的な死角がないのだ。
彼女は二七年という人生を、そうしたピカソとダリの合作のように不可思議で、抽象化された図形と色の世界で生きてきた。
訓練によって特定の光と図形を無視することを覚えたが、たとえば今、彼女は都市に降り注ぐニュートリノの雨を視覚化することができたし、政府の秘匿通信を図形や色として取り出し、傍受することも可能だった。
都市の上空を飛び交う信号から現在時刻を読み取った直後、絵馬の頭蓋無線がコール・シグナルに反応し、自動的にラインがつながった。
〈絵馬様──お仕事中ですか?〉
聴骨に響いたのはアルフレッドの声だった。
「もう終ったわ。どうしたの?」
〈はい。それが……お坊ちゃまの様態がかんばしくありません〉
絵馬の顔が曇った。
「悪いの?」
〈いえ、ご心配には及びません。通常の発作です。ただ……そのような訳でして、今夜の外出は無理かと存じます〉
「そう……残念だけど、仕方ないわね」
〈申し訳ごぜいません〉
「いいのよ。大切なのは彼の体だもの。彼を──ネロをお願いね、アルフレッド」
〈それはもう……。では失礼いたします〉
ラインが切れると、絵馬は落胆した。
ネロは今夜のデートの相手だった。彼は九つになる男の子で、アルフレッドはその家の執事だ。
ネロとは三年前に知り合い、以来弟のように可愛がっている。
絵馬は少し考え、それからチャンネルを西京に合わせた。
ラインはすぐにつながった。
〈どうした。問題でも?〉と西京。
「ううん。デートがキャンセルになったの。今なにをしてるの?」
ラインの向こうからブーイングが聞こえた。
〈よく言うぜ。まだ報告書と格闘中だよ〉
絵馬は笑った。
「わかったわよ。それじゃあ夜食をおごってあげる。なにがいい?」
話しながら、絵馬はフライング・マシンに乗り込むと、イグニッションをオンにした。
絵馬を乗せたマシンが都市の図形に飲み込まれると、丘の上はひっそりと沈黙した。
【あとがき】
閲覧ありがとうございます。
更新はマイペースになりますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。