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精霊に愛された娘  作者: 宵月氷雨
第一章
49/57

 ******

フローレア視点です。



「洗、脳……?」


 色を失ったその声が自分のものだと気付いたのは、隣で同じく目を瞠っていた変わり者の令嬢がこちらを見たからだった。

 知らない。そんな手段は知らない。


「正確には心操術と呼ばれています。定期的に服用させることで脳の働きを鈍くさせ、刷り込みの要領で操るのです。

 私の把握している限りリジェクト子爵家の領地は必要以上に閉じています。気付かれていないだけでおそらく、民たちは自我が希薄だと思われます」


 もっとも禁止された技術ですがと口ずさみ、黒髪の侍女は茶器を片付け始めた。

 口許に手を当てて考え込んでしまったティリエル・スカーレットを横目に、フローレアはじっと黒髪の侍女を注視していた。

 リジェクト子爵がもし本当にそんなことをしているのだとしたら、それは許せることではない。ニコラ云々の前に潰すべきだ。


(だけど……)


 瞬きを忘れた瑠璃の瞳に波紋が広がる。

 禁止された技術、と侍女は言った。

 では何故侍女はその技術を知っているのだろう?

 何故ティリエルは侍女のもたらした情報に平然としているのだろう?

 薄ら寒い思いで身を震わせたフローレアの視線に気付いたのか、あっという間に茶器を片付け終えた侍女は静かに笑った。

 それは決然とした微笑だった。



『フローレア様、いいですかー?』



 ふと蘇るのは、もう随分聞いていない気がする、声。


『私はフローレア様にお仕えする身です。自分の意志で、貴女を主と決めました』


 何が原因だったかはもう忘れてしまったが。

 何かすごく嫌なことをさせてしまって、ごめんなさいと謝った時のことだ。


『それはすなわち、自らの全てを貴女のために使うということです。だから主のためになるならば、私は何も怖くないんですよー』


 少し間延びした、あたたかな口調。


『だから貴女は謝る必要なんてないんです。もし間違っていたなら私は黙って命令を聞いたりしません』


 うなだれるフローレアを、三つ年上の彼女の侍女はこつんと小突いて。


『ありがとうと笑ってくだされば、それで充分です。フローレア様、臣下や召使いが何よりも辛いと感じるのは』


 信じてもらえないことです――――。

 一瞬聞き間違えかと思った。そのくらい、いつものふわふわした響きとは違う、深い色の声音だった。

 けれどそれはただその一言だけで。


『けれど信じてくれる主がいるなら、私たちは全てをかけてその主に仕えます』


 そう言った彼女が浮かべたのは、今目の前にいる黒髪の侍女のものとよく似た微笑。

 その舵を取るのは主の仕事ですよと付け足すのも忘れなかった。適度に力を抜かせてくださいね、と。


「アンジュ……」


 思わず口をついた彼女の名前は、しっかり侍女に届いていたようで。


「アンジュ様は素敵な侍女のようですね」


 どうぞと扉を開けてくれた侍女は、すれ違い様フローレアの耳元にそう囁いた。

 つんと澄まして顎を上げ、足を止めずに扉をくぐる。当たり前よ、とは胸の内だけの呟きだ。

 それでも明るい気分になったフローレアの後ろから部屋を出たティリエルが、丁寧に扉を閉める侍女を振り返る。

 考え事は終わったのか、迷いのない瞳をしていた。


「フィー、兄様に連絡。至急リジェクト子爵家についての情報をあるだけ寄越すように言ってちょうだい」

「情報ならばリリアナ様の方がよろしいのでは?」

「フィーから兄様に連絡がいくなら話は別よ。持ちうる全ての手段を使って最大限の情報を集めてくれるわ。多分姉様にも話はいくでしょう。二度手間よ」

「シュウラン様が?」


 本気で不思議そうな侍女に、ティリエルは深々と溜息をついた。それはもう深ぁい溜息だった。


「そりゃあ苦労すればいいとは何度も思ったけど、ここまでくるとさすがに憐れよね……」

「憐れ、ですか? こんな面白いこと、むしろ率先してやってくれるのでは?」

「憐れなのは気付いてもらえなくて毎回空回ってるからよ!」

「努力にですか? シュウラン様がとても努力なさっているのは存じておりますが……それに毎回きちんと結果も出していらっしゃいます」

「ある意味努力とも言えるけどだからそうじゃなくて、あーもう私にも責任の一端があるのかしらこれ!?」


 頭を抱えながらもティリエルは侍女にひとの有無を確認するよう指示し、即座に応じた侍女が先へ歩いて行ったのを確認して、絶句していたフローレアは漸う息を吐き出した。

 そっと歩み寄って黄昏れるティリエルの肩に手を置く。


「つまり、あなたのお兄様はあの侍女のことが好き、ということでいいのかしら」

「―――っこの短時間でフローレア様にもバレるのにどうして気付かないのフィー!?」


 大分わかりやすかった……というより、ほとんど答えを言ったようなものに聞こえたのだが。


(お兄様……シュウラン様だったかしら? 彼も大変ね……)


 見ず知らずのひとについ心の中で同情する。

 生暖かい笑顔になってしまったのは許してほしい。

 不思議だった。今までひどく暗い気持ちだったのに、ティリエルと話した今は浮上している。

 後宮に来てからろくに他人と話していなかったのだと気付いた。

 個人で茶会を開く訳でもないから交流もなく、ある意味当然とも言えたが。ニコラとも話さなかったから。


「その……全部片付いたら、手伝うわ」

「ほんとですか!?」


 だから当たり前のように返ってくる、他意のない反応が妙に嬉しかった。


「ほんとよ。……だけどその喋り方やめてくれないかしら」

「敬語のことですか?」

「そう。確かあなたの方が年上よね、ティリエル」


 ティリエルはぽかんと口を開けて、次いでふわりと笑う。

 その穏やかに笑み崩れた顔は、ニコラとももっと話してみれば何かが違ったかもしれないなと思わせた。

 もう、手遅れだが。


「じゃあ、」


 言いさして、ティリエルはふと目を瞬かせた。

 彼女の視線の先を追って振り向くと、二歩先に侍女が立っていた。


(……気配、しなかったわよね)


 決して気配に聡い訳ではないが、すぐそこにいるのに気付けないほど鈍くもないはずだ。

 思わず引き攣りかけた頬を、公爵令嬢の誇りにかけて緩める。相手に不快感を与えるなど以っての外。

 物心ついてからこのかたアンジュ以外に見抜かれたことのない、いかにも淑女然とした微笑を張り付けるまでに一秒とかからない。


 ティリエルのことは好ましいと思う。気配りができるし、頭も良い。貴族に見られる持って回った喋り方をしない。何より必要以上にフローレアに対して遜らない。今日こういう風に話せて、友達にもなれたことはとても嬉しい。

 けれどこの侍女は、正直よくわからないと思う。それこそ得体が知れないというのか。

 ティリエルに心から忠誠を誓っているのはわかる。侍女としてとてつもなく有能なのも。

 それでも、危険だ、と思った。

 フローレアは身分柄、色んな人間を見てきたからわかる。

 このひとは、暗い。そして重い。たまに眩しいものを見る目をしている。

 おそらくフローレアやティリエルの知らない世界を知っているひとだ。

 でも、


(そんなこと言えない……)


 人の気配はなかったと報告する侍女と、それを受けるティリエルを見詰める。

 それに気付いたのか、はたまた偶然か、こちらを振り向いたティリエルは自然でくつろいだ顔をしていた。


「フローレア、行きましょう」

「――えぇ」


 やっぱり、言えない。

 言えないなら、自分が気をつけていればいい。

 歩き出したティリエルを追いながら、フローレアはふと笑った。

 たった数分話しただけなのに、


(随分好きになってるのね……)


 ティリエル・スカーレットというあの令嬢を。

 つくづく不思議なひとだ。

 ティリエルにはついて行かず、律儀にフローレアを待っていた侍女の前を通り過ぎる。

 ちらりと視線を投げれば、その一瞬に何を読み取ったのか、侍女はにっこりと微笑んだ。


「主をどうかよろしくお願い致します、フローレア様」


 フローレアは答えずに駆け足でティリエルに追い付いた。

 相変わらず得体の知れないようにも感じられる完璧な笑顔が、どうしてか安堵の滲んだあたたかいものに見えたので。


 しかしそれを深く考える暇もなく、曲がり角を曲がってすぐ、目の前でティリエルが立ち止まる。

 ぶつかりそうになってギリギリで立ち止まり、緊迫とまではいかないまでも少し緊張した気配に、どうしたのと尋ねようとした口をつぐんだ。

 恐る恐る背中から顔を出し、一つの人影を認めてあっと息を呑む。

 広間から出てきたとおぼしき彼は、真っ直ぐにどこかへ向かって歩いていく。

 フローレアは目が良い。ずっと先の十字路を横切ったのを見ただけだが、確かに彼は。


「フィー、急いで追跡。何かわかったら連絡をちょうだい。怪しいわ(・・・・)

「根拠は」


 ただ舞踏会から逃げ出してきたという可能性もございますと侍女は言う。その自分の言を欠片も信じていないような声で。

 対してティリエルは自信たっぷりに言い切った。


「勘よ」


 フローレアは賢明にも沈黙を守った。

 ふるふると震える彼女に気付くことなく、ティリエルは平然とさっさと行けと言わんばかりに手を振る。


「ほら、見失うわよ」

「ですがそれでは」

「大丈夫よ。あんまり遠くへ行くようなら諦めて戻ってきて。――何があっても駆け付けてくれるでしょ?」


 疑いを知らぬ絶対の信頼。それこそが真実であり、当然であるかのような口調。

 侍女は暫しの逡巡の後、恭しく一礼してすっといなくなった。

 ティリエルは何度目かわからない驚きに絶句するフローレアを振り向き、片目をつむって見せる。


「そういえばフローレアも、今みたいに護衛付けずに歩いたりしちゃ駄目よ」


 ――あぁ叶わないなと思った。




次の投稿もしあさっての7時です。

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