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主人公出てきません。
フローレアは侍女も付けておらず、正真正銘一人だった。
彼女はティリエルを誘った。ちょっとお話しませんか、と。
ティリエルも彼女とは話したいことがあったので、一も二もなく頷いた。
そんなこんなで今に至る訳だが。
ここは広間の近くにある一室。ご自由にお使いくださいというあの部屋だ。
都合がいいのでお借りして、ついでに結界も張っておこうと思ったらフローレアが先にやっておいてくれた。
彼女もかなりの力を持つ【霊才者】らしい。
ほんの少しの警戒感を交えつつも互いに笑顔で腰を下ろす。
傍らではサフィリアが粛々とお茶の準備をしていた。
見つめ合うこと数瞬。
口火を切ったのはフローレアだった。
「私、紛らわしい言い回しは嫌いなんです。ですから単刀直入に訊きます」
彼女に一番似合う愛らしい笑顔を浮かべ、ふわふわした金の髪さえ魅力的に揺らし。
美しい公爵令嬢は尋ねる。
「殿下と団長に私の名前を告げなかったのは何故でしょう」
ティリエルは笑った。
それこそまさに、ティリエルがフローレアに訊きたかったことだった。
◆ ◆ ◆
「美しいお嬢さん、私と一曲踊りませんか」
柔らかな声音のその誘いに、マリエははっと顔を上げた。
振り仰いだ先にいたのは、金の髪に空の瞳の青年。
一瞬言葉を失ったマリエに対し、青年はおかしそうに微笑んだ。
「アルフレッドだと思いましたか? 私は彼の異母兄ですよ。ハーヴェイといいます」
「ハー……ハーヴェイ様! もちろん存じております! 非礼をお許しくださいませ」
長子でありながら第二王子の肩書きを持つ、正真正銘の王子様だ。
マリエは背筋をしゃんと伸ばして頭を下げた。
突然だったとは言え王族の方に先に名乗らせてしまった。
「あぁ、気にしないでください。驚かせようと思ったのは私ですから。それよりレディ、貴女の名前を教えてもらえますか?」
「あ、あの……マリエと申します。マリエ・アスター」
「アスター侯爵家のご息女ですか」
手を掬われて、指先に口づけられる。
真っ赤になったマリエに優しく微笑んで、ハーヴェイは彼女をちょうど始まったワルツに誘った。
「あぁ、本当にお美しい。貴女を放っておく義弟の気が知れません」
「まぁハーヴェイ様ったら」
謙遜の言葉とは裏腹に、マリエの声は喜色に満ちている。甘い笑顔で囁かれて、悪い気がする訳がなかった。
マリエは頬を染めながらも上目遣いにハーヴェイを見た。
アルフレッドほど鮮やかではないものの綺麗な金の髪、甘さと妖艶さをたたえた空色の瞳、茶目っ気たっぷりな笑顔。
文句の付けようがない容姿にプラスして、紳士的な物腰に身分は王子ときた。とんでもない優良物件だ。
そっとアルフレッドの方を窺う。
彼の周りは、シエラレオネとその取り巻き、フローレアとその取り巻きで占められていた。いくら筆頭候補とは言え、公爵令嬢たる二人の中に侯爵令嬢たるマリエが入る隙間はないに等しい。
それはどこかの伯爵令嬢という邪魔者が消えても、相も変わらずアルフレッドの視界に入らないということ。
蝶よ花よと育てられたマリエにとって、その状況は屈辱的だった。
(何故私を見てくださらないの……)
口には出さない思い。出せない思い。
けれど王太子への想いだけでここまでやってきた。
一週間にも満たない、たかが数日のことだろうと言われようが、マリエにとっては頑張った方なのだ。
それもこれも王太子への思慕の念があったから。
――そう、「王太子」への。
「やはり義弟のことが気になりますか?」
マリエははっと我に返った。
ダンスの最中だというのにぼんやりするなんて最低だ。
恥じ入って俯くマリエの上に、甘く優しい声が降る。それはさながら、とろとろした蜂蜜のように。
絡み、酔わせ、捕らえて放さない。
「どうやったら貴女の心にいる義弟を私に変えられるでしょうか」
その声はするりと忍び込んで、マリエの心に波紋を生んだ。
「アルフレッドではなく、ハーヴェイ……?」
「そうです。第一王子ではなく、第二王子」
艶めいた蜜のような声がマリエを誘う。
マリエは少しぼんやりとしながら、目の前の空色の瞳を見詰めた。
謎めいた瞳が瞬きもせずに見詰め返してくる。
「貴女ではなく、一介の伯爵令嬢に目を留めた義弟が許せないでしょう?」
そんなことはない。
だってあれには理由があった。声が掛けやすかっただけだと言っていた。
「踊る順番が三人の中で一番最後なのも納得がいかないでしょう?」
そんなことは、ない。
だってそれにも理由があった。三人の中で王太子に近いひとから踊ったのだ。
「貴女以外の二人に囲まれている義弟が気に入らないでしょう?」
そんなことは……ない。
理由は、そう、だって自分以外の二人は公爵令嬢だから。
「ねぇマリエ、貴女を見てくれないアルフレッドが憎いでしょう?」
「そんなこと……っ」
「憎くて憎くてたまらないでしょう?」
ハーヴェイが囁く。甘い甘い蜜のような声で。
その頬に浮かぶのは、優しくて茶目っ気たっぷりな――そして罠にかかった獲物を前にした狩人のような残忍な笑み。
「私の手を取りなさい、マリエ・アスター。私はアルフレッドを排して王に、貴女はその傍らに在れば良い」
ぞっとするほどの妖艶さを振り撒いて、空の瞳がゆっくりと細められる。
もはやマリエの思考回路は正常な機能を失っていた。
「あなたの、傍に……?」
「時期国王の傍に」
貴女の望んでいることでしょう? とでも言わんばかりに、ハーヴェイの手が頬を撫でていく。
雪に触れるかのような繊細な仕種なのに、何故か巧妙に搦め捕られてしまったように感じられた。四肢をがんじがらめに拘束されてしまったかのような、そんな感覚。
けれどそれに対する不安よりも、ハーヴェイによってもたらされた言葉の方がマリエの意識を支配していた。
これまでマリエが頑張ったのは、偏に王太子への想いのため。
その王太子が変わると言うのなら。
自分を見ないアルフレッドにつく必要はない。
ゆるりと、ハーヴェイの口端が持ち上げられた。
暗い色を帯びたマリエの深緑色の瞳が、何事かを呟く彼の唇を見詰める。
『オ チ タ』
その意味は、マリエにはわからなかった。
マリエにわかったのは、ハーヴェイが心底愉しそうな表情を浮かべたこと、彼の空の瞳が思いの外暗い色をしていること。
アルフレッドが春の晴れた日の空の色なら、ハーヴェイの瞳は台風が近付いた晩秋の空だ。何かが起こりそうで、だけどどこか淋しい、そんな色。
ハーヴェイが王位を捕るというのがつまりどういうことなのかは、思考に上らなかった。
その時アルフレッドの命はないであろうことも、下手をしたら反逆罪に問われることも。
アルフレッドを王太子と定めたのは、外ならぬ国王なのだから。
「ハーヴェイ様……」
ダンスの手前繋いだ手に力を込めると、ハーヴェイは微笑んだ。
とろとろした黄金色の、甘い甘い蜂蜜のように。
◆ ◆ ◆
ハーヴェイはマリエと予定より一曲多い三曲を踊り終えると、名残惜しげなマリエに断って広間を出た。
(そういえばフローレア・ローダンセがいなかったな……。シエラレオネ・アザレアも途中姿が見えなかったし)
どこへ行ったのか気にならないことはなかったが、今は関係ないと頭から追い出す。
彼の足取りを阻む者が在るはずもなく、すぐにハーヴェイは目的の部屋に辿り着いた。
周囲の気配を確認し、中に滑り込む。
中にいたのは一人だけ。
そのひとは振り返ってハーヴェイの姿を認めると、にやりと口許を歪めた。
「……遅かったじゃねーか、ハーヴェイ」
「お姫様の我が儘に付き合っていたんですよ」
明らかに年下の男の口調に眉をひそめるでもなく、ハーヴェイはそう答えた。
成果は、と問われ、彼はふと口許だけに笑みを刷く。それはさながら優美な獣のように。
「この私が失敗するはずがないでしょう? 予想通りあっさり堕ちましたよ」
「さすがだな。何て言って口説いたんだよ?」
「貴女はただ王となった私の隣に在れば良い、と」
言い終えた瞬間、男は盛大に吹き出した。
腹を抱え涙すら滲ませ、声だけは何とかこらえて爆笑している。
ハーヴェイはそれを放置して、テーブルに置いてあったワインの詮を抜いた。当然のようにワイングラスを一つだけ出し、とくとくと注いでいく。
「ま……マジで傍に置くつもりかよ? 俺はごめんだぞ、あんな馬鹿そうな女」
「もちろん私だって願い下げです。適当に言いくるめて誰か宛がえば良いでしょう。最悪の場合は」
消してしまえば良い、と事もなげに言い放つ。
男はふと笑うのをやめて、にぃっと唇を左右に引いた。
「――いいねぇ、俺あなたのそういうとこ大好き」
「男に告白されても嬉しくない。ましてや弟、それもお前ときたら気色悪いだけです」
「だってハーヴェイってば浮いた話がまったくないんだもん」
不満そうに唇を尖らす義弟の頭を気色悪いと割と本気で叩き、ハーヴェイは手の中のワイングラスを弄んだ。
ゆらゆらと揺れる液体が、古い記憶に重なる。
『――大丈夫?』
もっとも、あの時揺れていたのは炎だったが。
もう顔も声も思い出せない、ハーヴェイの顔を覗き込み屈託なく笑った少女。
ちょうど義弟がいる限り、どう足掻いても王位はないと理解して荒んでいた頃だった。母の厳しい躾も、気の遠くなるような量の勉強も、ただ義弟という存在のために無に返った。
悔しかったし、憎かった。滅多に兄弟たちにも会わず、ただ守られているだけだというのも、彼の苛立ちを誘った。
自分でもあの頃の態度は酷かったと思う。同時にあの頃の記憶は灰色だ。
その中で、ただ少女だけが鮮やかに色付いている。
会ったのはただ一度、名前も知らない、その少女を。
「私は、探しているのでしょうかね……」
「何か言ったか?」
怪訝そうに顔を上げた義弟に首を振って、ハーヴェイはワインを煽った。
広間を出て一室に入った第二王子。
その様子を、たまたま連れ立って戻ってきた二人の令嬢が見ていたことを、彼は知らない。




