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精霊に愛された娘  作者: 宵月氷雨
第一章
44/57

 ******

あれ……?

こんな重要人物になる予定はなかったんだけどなぁ……



「なんであんな女が……」


 暗い部屋に落ちる声。

 それは広がることなくその場に燻り、篭る空気を濁らせる。


「あの女さえいなければよかったのよ……っ」


 彼女の声を聞く者はない。

 侍女は隔離され、危険だからと着けられた腕輪のせいで精霊に呼び掛けることもできない。

 通常なら与えられるはずもない暗く狭い部屋で、消えぬ怨嗟は積もりに積もり、肥大化して渦を巻く。

 部屋の隅に座り込む女の瞳が、狂気を孕んで見開かれた。


「私だけなんて、許さない」


 あの身の程を弁えない憎らしい小娘。

 王太子に会ったことがある? 声がかけやすかった?

 許さない。マリエ様を差し置いて、あの特に目立つところもない小娘が注目を集めるなど。

 私はただ、マリエ様のためを思っただけだ。私が眼中にないことなんて全然構わない。

 憐れむように囁いた、あの女の声が頭を離れない。私の意志を否定なんてさせない。マリエ様でもフローレア様でもシエラレオネ様でもない、あんな伯爵令嬢に負けるなんて許さない。

 私はもう駄目だと言うのなら―――せめてあの女を道連れに。


「そうよ。私だけなんて許さないわ。……絶対に許さない」

「ならば手伝おうか、娘よ」

「!」


 生暖かい風が、枯れ草の匂いを運ぶ。

 爛々と輝く目で足の先を睨みつけていた女は、ばっと顔を上げた。

 まず扉に目をやり、次いで窓に。

 桔梗色の瞳が不機嫌そうに眇められる。


「――誰?」

「通りすがりの旅人さ。だがお前が望むのなら、私の力を貸してやろう」


 くつくつと喉の奥でくぐもった笑い声を立て、ぼろぼろの衣を纏った男はひらりと室内に降り立った。

 一体どうやって上ってきたのだろう。ここは三階、木などの足掛かりになりそうなものも見当たらない。

 ただいつの間にか窓枠に佇んでいた男。


「悪い話ではないだろう? お前はここから出られない。誰かを使うしかない」

「一方的に得をする話には乗らないようにしてるの」

「良い心掛けだ。だが案じることはない。利害が一致したからこそ手を貸すと申し出たのだからな」


 男は再びくつくつと陰気に笑った。

 月を背にしているせいで、顔は見えない。頭にも布きれが巻いてあり、髪の色すら判別不可能だった。

 風が頬を撫で、流れては、じわりじわりと何かを蝕んでいく。枯れ草の香りの、闇色の風。

 女は鬱陶しそうに頭を振り、ひたと男を見据えた。

 男はうっそりと笑った。


「……ほぉ、説明しろと言うか」

「当たり前よ。全てとは言わないけど」

「そうだな……私の計画には彼女が邪魔だという、それだけの話さ。光は闇の天敵だろう?」

「あの女が光だと?」

「そうだ」


 女は少しだけ眉をひそめた。

 光と闇、というのは、ただの額面通りの意味ではないような気がした。


「……私はあの女を殺したい訳じゃないのよ」

「わかっているさ。私とて無用な殺生は望まないからな」


 安堵したかのように頷き、


「そう……。なら手を組みましょう?」


 それが嘘だったかのように、女は狂気の滲む笑みを刷く。

 両手を広げ一歩下がり、恭しく頭を下げた男の横顔が、光に照らされて束の間浮かび上がった。

 壮年の男性。割と整っている顔立ちで頬には大きな傷痕が残り、精悍さを増している。

 けれど何より女を驚かせたのは、彼がその身に宿す色だった。

 ところどころ覗く肌の色も、わずかに零れた髪の色も、楽しそうに向けられていた瞳の色も。


「驚いたか」


 ゆったりと微笑む男は、まるで悪戯が成功した子供のよう。


「世界に忌まれし唯一の色。けれど誰一人としてその理由を覚えていない。……くくく、私にこれほど相応しい色もなかろう」


 浅黒い肌、ボサボサの髪と身なりに似合わぬ強い瞳は共に漆黒。

 揺らめく闇色の風を纏った、闇を体言したかのような男がそこにいた。


「何だ、娘? 化け物でも見たような顔だな」


 無造作に歩み寄ってきた男に、女は身をすくませた。

 自分はとんでもない男と手を組んだのではないか。そんな思いが頭を掠める。

 けれど彼女の心に、ひいてはこの部屋に巣くった怨嗟の前では、それはあまりにも小さな思いだった。

 一時の怯えも消え失せ、そして女は同じ色を宿す人間の存在を思い出す。


「くくく。良い目だ」


 もしこの時彼女の話をしていたら、また事態は違っていたかもしれなかった。

 しかし女が口を開くより先に男の骨張った指が伸びる。


「では約束通り私の力を貸そう。……呪われた(いにしえ)の力と言われる力だがな」


 額に触れる直前で止まったその指先で、闇色の光が弾けた。

 その冷たく悲しい光が薄いヴェールとなって女を包み――ふいに女の意識が暗転する。

 最後に見えたのは、にたりと歪められた男の口許だった。






   ◆   ◆   ◆






 無造作に女を担いだ男は、窓の桟に立ってどこかを見晴らしていた。

 ぼろぼろの衣を撫でるように、生温い風が吹く。枯れ草の香りの、闇色の風。

 くつくつとくぐもった笑声が、ひそやかに流れる。


「すまないが娘、お前には我が駒となってもらおう。……力に耐えられたのなら、手伝ってもらってもよかったのだがな」


 誰も、何者も聞くことのない呟きは、夜闇に溶けて漂う。


「娘、確かに私は殺生は望まないと言ったが」


 まるで恐れるかのように月が隠れた。影が深まる。


「王都にいられないくらいの怪我は、負ってもらわねばな……」


 いつの間にか、男の姿は消えていた。

 窓の外、地に足跡すら残さず、ただ緩く渦巻く生暖かい風だけを残して。




「隠」は、隠蔽されたという意味合いです。

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