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精霊に愛された娘  作者: 宵月氷雨
第一章
41/57

 ******

とうとうあの人のお出ましですよ!(笑)



「フィア!」


 足音に振り向いたその青年の周りには、何故か人っ子一人見当たらなかった。

 場所は中庭。会場から外れているとは言え、よく休憩に使われる場所だ。

 だから他にもひとがいてもおかしくないのに、青年一人しかいない。

 その理由を、現在進行形で身を持って理解しているティリエルは、黙って侍女の背中を押した。

 そうして小さく身体を震わせる。……寒い。

 他所と比べて明らかに低すぎる気温、その原因たる青年は人畜無害な笑顔でサフィリアを呼ぶ。


「フィア」


 兄しか使わないその愛称。

 大抵の者がティリエルと同じように「フィー」と呼ぶ中で、兄だけはサフィリアを「フィア」と呼ぶ。理由は単純明快、自分だけの特別な呼び名がほしいかららしい。

 サフィリアの方はというと、正直あまり気にしていない感じだ。

 ただ一度、最初に兄がフィアと呼んだ時だけ、驚いたように目を瞠った。長らく忘れていたものを思い出した、そんな顔で。


「……シュウ」


 サフィリアは黙って中庭を見回し、一つ溜息をつくと、ひょいと肩をすくめて音もなく青年に近寄った。彼女もまた一目で誰の仕業か悟ったらしい。


「そんなに怒らないでよ。仕方ないでしょう? ティルに危険が及ぶかもって言われたんだから」

「俺のフィアとの時間を奪った(ヤツ)が悪い」


 ふん、とそっぽを向く青年――兄シュウランは、まるで子供のようだ。

 兄がこんな反応をするのはサフィリアに対してだけなので、ティリエルはこの二人を見ているのが好きだった。

 ……が、この寒さはいただけない。

 ティリエルは小声で火精を喚ぶと、付近の空気を暖めてくれるよう頼んだ。

 精霊によって崩されたバランスは、その度合いに見合った時間か精霊にしか戻せない。

 大笑いしながら引き受けてくれた火精のことなど露知らず、兄と侍女は実に朗らかに会話を交わしている。

 寒くないのか、君たちは。


「そんなこと言われてもなぁ。……というかぼくは詰めが甘い王太子がいけないと思うんだけど」

「それに気付いていながら諌めなかったのは王だ。あとシーグ」

「……うんまぁ、最悪なんとかしてくれるだろ、的な空気を感じないこともなかったけど」

「――シーグ後でシメる」


 兄がぽつりと漏らしたのは、それはそれは物騒な声だった。本気でシーグレイの身の危険を感じる。

 けれどサフィリアも心得たもので、にっこり笑うと首を傾げ、シュウランの顔を覗き込んだ。


「今回は許してあげてよ。ぼくもあの子からかえて面白かったし。やっぱり愚か者にはそれ相応の報いが必要だよね」

「……フィアがそう言うなら、やめとくよ。

 ティリエル、ちゃんと仕返ししてきたんだよね? 君を見下し、あまつさえフィアを嘲笑ったその令嬢」


 効果は絶大だった。が。

 ……兄よ、妹が見下されたことへの憤りの比重が軽くないか?

 なんて抗議を知るはずもなく、また知っていたとしても一顧だにするはずもなく。

 ようやくこちらを向いた兄は、いつも通りの綺麗な笑顔を浮かべていた。

 けれどその笑顔がしっかり毒を内包していることを、ティリエルは知っている。ティリエルへの毒ではないことも、また半ば八つ当たりなことも。

 けれど兄のそういう笑顔は恐ろしい。今も背筋がひんやりしている。

 サフィリアの性格も相俟って、二人でいると真っ黒な話しかしていなそうなことだけは、心配しているのだった。

 ティリエルはどっと疲労感を覚えて額に手を当て、溜息と共に兄に答える。


「してきたわよ……それなりに頭に来てたし。おかげで色んなひとに引かれた気がするわ。まぁ言葉で叩きのめせる相手は、そうするに越したことはないから、いいけど」


 力に物言わすのは最後よね、と言うと、サフィリアがこれまた綺麗な笑顔で頷いた。


「折角ティルが止めてくれてるのになお罪を増やすようなお子様だったけどね」

「なんだ、やっぱり愚者なんじゃないか」

「だからそう言ったでしょう? ティルが直々に叩きのめす価値もなかったよ。【霊才者】としての力はそこそこ強かったみたいだけど、所詮そこそこだね。ティルを相手取るには力不足。先を読んで相手を騙すことにかけては言わずもがな」

「えーっと、フィー、それ褒めてくれてるんだよね?」


 サフィリアは軽やかにティリエルの前まで来ると、ぽんぽんと頭を叩いた。

 ティリエルもこうされるのは嫌いじゃないので甘受していると、ぼそりと「……邪魔だな」という声が聞こえてきた。


(心、せまっ!?)


 妹相手に嫉妬してどうする!

 ……本当に、どうしてサフィリアが気付かないのか不思議なくらいだった。これだけだだ漏れなのに。

 兄の呪詛に気付いているのかいないのか、サフィリアはにこにこしながらティリエルの頭を撫でている。

 嫌がらせだろうか。


「もちろん、褒めてるんだよ。……ところでティル、王太子に会ったことがあるってあれ、本当?」

「え? あぁ、ほんとよ。さっき思い出したわ」

「その時何か言われた? 旦那様か、奥様に」

「……確か父様に『大きくなったら彼を輔けるんだよ』って言われたわ」


 それがどうかした? と尋ねると、サフィリアは何でもないという風に首を振った。


「そう……。シュウ」

「わかってる。調べておくよ」


 そのくせシュウランと明らかに何かあるやり取りをして頷き合う。面白くない。

 二人をジト目で睨んでみるが、毛ほども動じず流される。

 こういう時の二人は、何を訊いても教えてくれないこっを知っているので、ティリエルは早々に諦めた。


「そういえば――」


 だからといって、やられっぱなしというのもまた、面白くない。


「さっきそこでイアン様を見たわよ、フィー。一度話したいとおっしゃっていたわ」

「イアン様が? 何だろう、一昨日のことかな」


 解せないのか首を捻るサフィリアに、疑う様子はない。面倒臭そうな様子もない。

 ちなみにこの誘いは本当だ。一昨日の件について双方の意向を統一しておきたい、彼女(サフィリア)が適任だろう、と持ち掛けられた。

 確かに自分では駄目だろうと思ったので了承したのだが、これがこんなところで役に立つとは。

 何しろイアンというのは男の名前だ(・・・・・)


「どうする? 嫌?」


 例えここで嫌だと言われても、既に了承の返事をしてあるので断るのは無理なのだが。

 ティリエルにはこの侍女が断らないという妙な確信があった。


「いや、会うよ。イアン様なら有意義な時間になりそうだし」


 果たして了承したサフィリアの頭の中では、既に聞き出すべき情報やら何やらが渦巻いているのだろう。彼女の言う有意義とはそういう意味だ。

 しかし兄は違う意味に取るだろう。

 ちょっとした意趣返しだったのだが、反応はどうだろう、と兄を窺い――次の瞬間ティリエルは猛烈に後悔した。


「――イアン? 誰、そいつ」

「イアン様は――ってシュウ!?」


 いつでもどこでも真っ直ぐに立つサフィリアの身体がふいに傾ぐ。

 手を引いて体勢を崩させた張本人は、サフィリアを腕の中に閉じ込めると天使のごとき微笑を浮かべた。


「あぁごめん、フィアに訊いたんじゃないんだ」

「……それはわかったけど、この体勢は一体何?」

「俺がこうしたいから」

「……そんなことやってるから結婚できないんだよ。聞いたよ? また縁談蹴ったんだって」


 サフィリアがこれみよがしに溜息をつく。


(うわぁ……)


 ティリエルは思わず一歩後退った。

 鈍い鈍いとは思ってたけど、これはもうそういう次元を越えている気がする。


「……………心配しなくても心に決めた人はいるから大丈夫だよ」

「なおさらこんなことしてる場合じゃないでしょう。誤解されたらどうするの」

「……今現在予想とは斜め上方向に誤解してるよ」

「え? 何か言った?」

「それが相手は全く気付いてくれなくてね、って言ったんだよ」


 哀愁漂うその台詞は、百パーセント本音だった。

 サフィリアは何かを感じたのか、それ以上何も言うことはなかった。何とかとどめは刺されずに済んだようだ。

 これだけ何も伝わってないのに、それでも仄かな微笑みを浮かべている兄はもう相当な重症だろう。一日でも早く報われることを祈るばかりである。


「兄様、私そろそろ」

「――それで、ティリエル。イアンって誰?」

「ちっ、覚えてたか」

「もちろん。で、誰?」


 くそ、忘れろとは言わないが思いがけず良い思いをしてるんだから見逃してくれてもいいじゃないか。

 底知れぬ凄みを感じさせつつにっこりと笑う兄を前にそんなことを言えるはずもなく。

 姉様を連れて来ればよかった、とティリエルは思った。兄が唯一頭の上がらない相手。

 ティリエルは最後の意地でもってにっこり微笑み返し、


「イアン様には何の咎もありません」


 開口一番そう申し上げた。気分は土下座だ。せめてと仮面を張り付けたティリエルを見て、兄はたいそうおかしそうにお笑いになる。

 ……あれ? 敬語合ってる?


「言い訳を聞こうか、妹よ」

「ちょっとした出来心だったんです。お許しください。イアン様はカイの友人の騎士です」

「ほう、それで?」

「一昨日の出来事について双方の見解に誤りがないか確認するために会いたいだけだと思います」

「一昨日?」


「……リュート・シフォニールという名前のひとに会ったの」


 さすがの兄もそれ以上は追及しなかった。相変わらずサフィリアを抱きしめたまま思案に耽っている。

 しかしどこからどう見てもべたべたしているくせに、全くいちゃついているようには見えないのは一種の才能なのだろうか。

 ティリエルたちが話している間は身じろぎ一つしなかったサフィリアは、唐突に黙り込んだ二人を交互に見遣り、ぽつりと「いい加減離してくれないかなぁ」と言った。

 シュウランは気付かないのか無視しているのか動く様子すらない。

 サフィリアはわずかに瞼を伏せ、細く長く息を吐く。

 その身体がふいにぶれたと思ったその一瞬の間に、シュウランの腕は解かれていた。ティリエルには何が起きたのかわからなかったが、兄はわかったらしい。

 兄は強い、ティリエルはもちろんのこと、サフィリアよりも遥かに。

 サフィリアは名残惜しげに伸ばされる腕をバックステップで躱し、純粋な跳躍力だけで木の枝に飛び乗る。

 着地の衝撃はほとんどなかったのか、葉が二枚散っただけだった。

 何かを探すように辺りを見回したサフィリアは、やがてティリエルとシュウランの間にひらりと着地すると、首を傾げてこう尋ねた。


「ルナは?」




という訳で、ティリエルのお兄さん登場しました。

いやはや危険なひとですねぇ……。

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