第19話【改】 伯爵令嬢、動揺する
1月22日、改稿しました。
視点がころころ変わります。
りゅーと。
その名前だけが頭の中を埋め尽くす。
身体の末端から血の気が引いていくのが朧げながらもわかった。
心臓がどくどくとうるさいくらいに音を立てる。
目の前でカインツが何か言っていたけれど、何を言っているのかはわからなかった。
まるで一人ガラスの箱の中に閉じ込められたかのように世界が遠い。
肩を掴むカインツの手の温もりに思い出すのは、両の掌を濡らした赤いモノで。
(やめて)
混乱故に制御が利かなくなった力が精霊に伝わり、怯えを感じ取った彼らがざわめきだす。
そのままいけば、辺り一帯は火の海と化していたかもしれない。
それを止めたのは、やはり彼女で。
もう一つの世界に冷たい波動が広がって、ざわめく精霊を押さえ込む。
「――失礼します」
耳元の囁きと同時に、首筋に軽い衝撃。
視界が傾く。
「お休みなさいませ」
優しい声と、狼狽したカインツの顔を見たのを最後に、ティリエルの意識は唐突に途切れた。
◆ ◆ ◆
「ティル!」
突然くずおれたティリエルを受け止めて、カインツは必死にその名を呼んだ。
ティリエルの傷はまだ癒えておらず、見ないフリをしているだけだと、カインツはちゃんと知っていたのだ。
だからこそ怖かった。もうあの時のようなティリエルは見たくない。
「ティル、しっかりしろ!」
「心配はありません、カインツ様。気絶しているだけにございます」
冷静な声が響いた。
カインツの頭が少し冷える。
「わたくしの判断で落とさせていただきました。心配をおかけしたこと、お詫び申し上げます」
黒髪の侍女は平然とそう言って頭を下げた。
「落とした……って」
「物理的な被害が出そうでしたので、落ち着かれるのを待つ訳にもいかず」
「もしかしてさっきの精霊って」
口を挟んだのはイアンだ。
「精霊?」
「カインツ、もしかして気付かなかったの?」
全く訳がわからないカインツに、むしろそのことが理解できないとでも言いたげな顔でイアンは大仰に肩をすくめた。
間髪入れずにイアンに拳骨をお見舞いしたリュートが、「その他人の神経を逆なでするような喋り方はやめろと常々……」とお説教モードに入ったのを手を振って止め、リュートにも確認を取る。
「あぁ、確かに精霊が力を行使しかけて押さえ付けられていたが」
「ごく初期で収まっちゃったからどのくらいの規模だったかはわからないけどね」
補足説明を受けてなお思い当たる節がなくて、カインツは眉をひそめた。
「俺は全くわからなかった」
「お姫様の件で動揺してたからじゃないの?」
「周囲の警戒を怠るほどじゃない」
「――恐れながら」
さっきより少し遠くから聞こえてきた声に顔を上げると、件の侍女は何か起きたのかと集まってきた騎士を穏便に追い返していたらしい。
お手本みたいな笑顔を浮かべて戻ってきた侍女は、小さく断ってティリエルを引き受けていった。
「先程カインツ様は渦の中心にいらっしゃいましたから、お気付きにならなかったのでしょう」
無理した風もなく軽々と抱き上げて、侍女は慈しむように目を細める。
後ろでイアンが息を呑む音と、そのイアンをリュートが小突く音がしたがこの際無視だ。
「渦?」
「力の渦、とでも申しましょうか」
カインツより自然にお姫様抱っこをしているのに思うところがないでもないが、それもこの際無視だ。
「じゃあティルが」
「ティリエル様は無意識のうちにカインツ様を守ろうとしたのでしょう」
触れている温もりがすべてでしたから、と。
自分が見ていない現場を、多分この侍女は知っているのだと、カインツはふいに思った。
会ったのは初めてだし、そういった話を聞いたこともないけれど、なんとなく。
「騎士様方、お騒がせ致しまして大変申し訳ありませんでした。主を休ませたいのでわたくしはこれで失礼させていただきます」
話は終わりとばかりにイアンとリュートに向き直り、侍女は丁寧に一礼した。
「あ、……うん。大丈夫?」
「主のことでしたら大丈夫です。目が覚めたら落ち着いているでしょう」
「それもそうなんだけど、運ぶのは大丈夫? 上司には上手く言っておくからカインツ使っても」
「お気遣いありがとうございます。ですが皆様のお手を煩わせる訳には参りません」
イアンの申し出をやんわりと断って、侍女は再びカインツに意識を向けた。
直接目を見ることはないので、彼女が何を思っているのか計り知ることはできない。
「カインツ様、ティリエル様が目覚め次第シルフを飛ばします。受け取ることは可能でしょうか」
「あぁ……問題ない」
「――どうかティリエル様をよろしくお願いいたします」
微笑んで、侍女は踵を返した。
しっかりとした足取りで去っていく侍女の背中を見送るカインツの横にリュートが並ぶ。
「原因は……俺の名前、だな」
「俺が何も考えずに呼んだからだよね、ごめん」
リュートと反対の隣に並んだイアンが、らしくもなく縮こまって謝罪する。
カインツは首を振って、二人が気になっているだろうことを口にした。
「あの子には幼い頃に亡くなった弟がいて――」
事件に巻き込まれて、目の前で失ったというその弟の名前が。
「リュート、といったんだ」
それは遠い記憶。
消えることのない、痛みの記憶。
◆ ◆ ◆
黄金の光が舞っていた。
暗闇の中をまるで雪のように、ひらりひらりと。
くっつけた両掌を前に伸ばすと、意志を持っているかのように一片の光が落ちてきた。
あたたかくて、気高い。そんな光。
どうしてか泣きたいくらい懐かしくて、彷徨うように歩き出す。
誘うように舞う光を追って、早足は駆け足になって。
一際美しい光が見えた。
『貴女はまだ幼すぎる。全てを知るのはまだ早い』
優しい、優しい声がする。
忘れてしまった声。忘れさせられてしまった声。
『いずれわかる時がきます。わたしが何なのか、そして――貴女が誰なのかということが』
もうすぐ、光に手が届く。
あぁでも、私は誰なんだろう。
それに、あなたは。
『小さき子よ、わたしの名は――……』
あなたの、名前は。
視界いっぱいに、神々しい黄金の光が広がって。
――そしてすべてが、嘘のように掻き消えた。
白い、天井が見えた。
ぱちぱちと瞼を瞬かせる。
ここは、家じゃない。そう、後宮だ。
次第に意識を失う前の記憶が戻ってくる。
目を動かして周囲を探ると、翡翠の瞳とぶつかった。
「お目覚めになられましたか」
「フィー……」
「ご気分はいかがですか」
「気分……あぁ、夢をね…見たの」
「夢、ですか?」
静かな声は、覚醒したばかりの脳に心地好い。
問い掛けに頷いて、ティリエルは毛布から出した手を天井に向けて伸ばした。
「そう、不思議な夢……。あたたかくて、優しくて、切なくて、――だけど夢の内容は全然覚えていないの」
ただ、黄金の光だけが脳裏に焼き付いている。
幼子のような物言いに、黒髪の侍女はそっと目許を和ませた。
「良い夢でしたか?」
「えぇ……とても」
とても綺麗な、夢だった。
話しているうちに落ち着いてきて、ティリエルは改めて記憶を辿った。
(お茶会に行って、カインツに会って、えぇとそれから……)
リュート、という名前を聞いて。
それからの記憶が途切れている。
ひどく混乱したのは確かだが、何がどうなったのだろう。
――確か、首筋に、衝撃が。
「フィーが……私を気絶させたのね」
「勝手なことをして申し訳ありません。カインツ様のご友人がいらっしゃいましたので、下手に騒ぎにするよりはいいかと判断致しました」
「ううん、ありがとう。あのままだったら何してたかわからないし」
何をしようか明確に決まっていなくとも、勝手に精霊が反応した可能性もある。
その前に多分サフィリアが止めてくれただろうが。
「それで、ここは」
「後宮の与えられた部屋です」
「私はどのくらい眠ってた? 今はいつ?」
「三時間ほどです。今は七時前」
「その間に何か変わったことは?」
「特にはございません」
「そう」
ティリエルは身体を起こして傍らに座る侍女を見た。
サフィリアがこの喋り方をしているということは、近くに誰かがいるということだ。
目が合うとサフィリアは頷いて、仕切りになっている棚の向こうに目をやった。
「――ミモザ、いるんでしょう?」
答えの代わりに、怖ず怖ずと顔が覗く。
苦笑したサフィリアが「私は用事があるので少し外します」と囁いて立ち上がり、入れ代わりにミモザを引っ張り込んで行った。
落ち着かなげなミモザにさっきまでサフィリアが使っていた椅子を勧める。
やはり怖ず怖ずと腰掛けたミモザは、すっと息を吸うといつも通りにぱ、と笑った。
「大丈夫ですかー? サフィリアさんがいきなり気を失ったティリエル様を連れて出てきたときはびっくりしましたよー」
「大丈夫よ。心配かけてごめんね」
「えー、サフィリアさんにはお礼言うのに私には謝るんですか」
それってなんか不公平です、とミモザは頬を膨らませる。
「ごめんごめん、じゃなかったありがとう」
「いいえー」
ミモザの笑顔は好きだ。優しい気持ちになれる。
カインツの笑顔も好き、侍女の時のサフィリアの笑顔はあんまり好きじゃなくて、シーグレイや兄の笑顔は怖いから嫌い。
……そう昔兄に言ったら『どうして俺とシーグが同列なのかな?』とそれはもう綺麗な笑顔で、はい。
「ティリエル様ー? 遠い目してますけどどうかしましたかー?」
「ふふふふふ、何でもないわ」
「えー……」
「それより、訊かないのねミモザ?」
何があったのか、何が原因なのか、ちっとも。
「ティリエル様が訊いてほしかったら、訊きますよー。でも今は訊いてほしくないでしょう?」
今はまだ。
ぎくっと顔を引き攣らせたティリエルを、ミモザは真っ直ぐな目で見詰める。
あぁそういえばミモザは年上だったなと、ティリエルは今さらながらに思った。どんなに普段は子供みたいだと思っても彼女はれっきとした大人で、ティリエルより多分ずっとわかっているのだ。
「それじゃあ私はサフィリアさんが戻ってきたら騎士舎に戻りますねー」
「ええ、こんな時間まで拘束してごめんなさい」
「気にしないでくださいー。サフィリアさんには帰っていいって言われてましたし。私が勝手にいただけです」
ミモザはぱたぱたと両手を振る。
さすがにサフィリアはその辺抜かりないらしい。
ティリエルは、遅いですねーとドアの辺りを見遣るミモザを、そっと呼んだ。
「ミモザ?」
「何ですかー?」
「――ありがとう」
二度瞬きをして、それからミモザはにっこり笑った。
後宮の外れの窓があるところまで来て、立ち止まった黒髪の侍女は掌を上向けた。
「シルフ」
声に応えてふわりと白い光が二つ、掌の上に乗る。
「伝言を頼んでもいいかな?」
《任せて》
「一人はちょっと遠いんだけど」
《大変だけど》
《サフィリアならいいよ》
掌の上で誇らしげに胸を張る、少年とも少女ともつかない姿の風精。
侍女は礼を言うと、片方には簡単な伝言を頼んで黄竜隊の騎士舎へ、もう片方には少し長く言付けて窓から外へ放した。
くるりと一回転した風精は、真っ直ぐに王都の外へと飛んでいく。
それを見送って、侍女は踵を返した。
騎士舎に飛んだ風精が向かったのは、言わずもがなカインツのところ。
もう片方が向かったのは東方、――王都からは遠く離れたどこか。
伝言の内容を知るのは、風精と黒髪の侍女だけだった。




