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精霊に愛された娘  作者: 宵月氷雨
第一章
28/57

第昔話【改】 とある少年への追憶 6

12月30日、改稿しました



 少年は、コルミールを揺らした力に、心臓を氷の指で握り潰されたような心地がした。


「シルフ! まさか――」

《そのまさか。この感じ……あの子》


 答えた風精(シルフ)に少年は顔を歪めて、さらに速度を上げた。


(でも誤算だった……)


 朝から駆け通しだった騎士や武官たちの半数が、休憩のために詰め所へ戻っていたこと。

 残った半数のうちの大半が、突然もたらされたいくつもの目撃談の確認のために街を離れていたこと。

 デマだろうと思っても、確かめない訳にはいかない。

 だから今街には武官がほとんど残っていなかった。

 妹を守れる者が少なかった、それが最大の誤算。

 少年は大通りと反対側から路地に入っていた。

今は収まっているが、先程受けた感じからすると、近い。

 少年は見えてきた角を何も考えずに右に折れた。


《……どうもあの子、サラマンダーを呼んだみたい》

「よりによって火か……接触したってことかな」


 風精(シルフ)なら何らかの連絡、水精(ウンディーネ)もぎりぎりで理由を付けることはできる。

 ただ、炎という攻撃手段を持つ火精(サラマンダー)を呼んだのだとしたら、かなり危険な状況にあると見ていい。

 少年は酷使のしすぎでふらつく身体に必死に力を入れた。

 直後。


「っ!」

《また!?》


 視覚でも聴覚でも触覚でも感じられない揺れが、少年を揺さぶる。

 発生源は――この曲がり角の先。

 少年は滅多に外れない嫌な予感とともに、飛ぶように角を左に曲がった。

 視界を埋めつくしたのは、夕焼けの空に似た鮮やかな橙の炎の壁。

 次いで振り返った男の持つ、血濡れた刃が目に入る。

 少年の頭の中が真っ白になった。


「貴様、何をした!」

「もう一人、騎士(ナイト)がご登場か?」


 見せ付けるように剣を構えて、男が首をすくめる。

 ぽたり、と血が柄を滴り、地面に水溜まりを作った。


「何をしたか? 簡単なことだ」


 ゆらりと影が揺れる。

 ふ、と力を失いぱっと散った炎の壁を背に、男はにぃっと笑った。


「――邪魔した小さな騎士を切り捨てたまで」

「な……に?」


 考えるよりも先に身体が動く。

 カラン、と鞘が転がった。

 衝動のままに切り掛かった少年は、地を踏み締めて腕に力を込める。

 受け止められた抜き身の刃が擦れて、硬質な音を立てた。


「甘いな」


 体格の差、体重の差、力の差、経験の差。

 視界の隅で、何かがしなる。

 十三歳の少年は、重い剣を受けることばかりに意識がいったがために、その男の蹴りを避けられなかった。

 衝撃を和らげるために咄嗟に自らも背後に跳んだが、激昂していたために目測を誤って壁に叩きつけられる。

 手から放れてしまった剣に前屈みになって手を伸ばした時には、男は消えた壁を越えて妹の傍に立っていた。

 ようやく妹の姿を視認できた少年は、たちまち色を失った。

 夕日のせいではなく赤く染まった少女と、その腕に抱かれた「何か」。

 けれど少年がそれを理解するより先に、男の剣が妹の足首に狙いを定める。


(腱を――!)


 切ってしまうつもりだ。

 妹は腕の中のものに縋り付くようにうずくまったまま、気付かない。

 少年はまろぶように剣を拾い上げ、男に迫る。

 間に合うかどうか、ぎりぎり――



「退け」



 少年の前で、正確に腱を切ろうとしていた剣が跳ね上げられた。

 駆け込んできた小さな影が、次いで遠慮容赦なく短剣を鞘ごと叩き込む。

 成人男性の急所をえぐるには、影の低い背丈はちょうどだった。


「――――っ!」

「退け」


 片手の指で足りるほどしか聞いたことのない声が、殺気に転じかけの怒気を纏う。

 股間を押さえて一歩退いた男を許さず、影は開いた距離を詰めた。

 軽い身体から生み出される瞬発力を乗せた打撃が、男の鳩尾にめり込む。

 さらに高く跳び上がると、影は短剣を手放し、両手を組んで側頭部を思い切り殴りつけた。

 男が思わずという風に二、三歩後退り、剣を取り落とす。

 その頃には少年も、崩した姿勢を立て直して男の後ろまで駆け寄っていた。


 けれど男は簡単にはやられてくれなかった。

 ふらついたまま振り向き様に少年の剣を弾き飛ばし、返す刃で侍女を狙う。

 後ろに下がって避けようとした侍女は、姉弟の存在に気付き咄嗟に拾い上げた短剣で剣を受け止めた。


「早かったな。相方(あいつ)はどうした?」

「沈めた。お前の方が強いことはすぐわかったから、急いだ」

「そうか。あいつじゃお前には役不足だったか」


 男がさも当然という顔でうそぶく。

 短剣では受け止めきれずに逸れた剣先が侍女の肩口をえぐる。

 衝撃に身体が開いて隙ができる。


「ノーム! 男の足止めを!」


 弾かれた剣を諦めた少年は、躊躇なく剣を閃かせた男の手に飛び付いた。

 動かすには力が足りないと悟るや、捻る要領で自分の身体を持ち上げ、首に手をかける。

 男が気付いて振り返ろうとし、態勢を崩す。

 土が盛り上がって男の足を捕らえているのだ。


「ガキが……」


 男の右手が上がる。

 刃を返した剣が少年の首に迫る。

 しかしある予想がついていた少年は、一顧だにせず全力で首を締め上げた。

 のけ反った男の手首を、少年の予想通り短剣が下から打ち付け、跳ね上がって剣を叩き落とす。

 落ちてきた剣が少年の背中を掠め、危機感を覚えた男が無茶苦茶に上体を振り回す。

 引きはがそうと後ろに回った腕を、侍女が跳び上がって無理矢理抱え込み、撃退する。

 放り投げられる侍女同様、少年はあちこちにぶつけられながらも、歯を食いしばって男の首にしがみつく。


 時間にして数秒。体感時間は数分。

 正確に頸動脈を絞められた男は、侍女が何度目かの受け身を取って着地するのと同時にくずおれた。

 侍女はよろめきながらも立ち上がって、寸前で背中を蹴飛ばして逃れた少年の着地点に回り込む。

 受け身すら取れなかった少年を侍女が全身で受け止め、二人は倒れ込んだ。

 文字通り満身創痍の二人だったが、悠長に寝転んでいたりはしなかった。

 すぐに跳ね起きて男が気を失っているのを確認し、少年が保持していた縄できっちり縛り上げる。

 その間に侍女が落ちていた剣を遠くへ蹴飛ばし、さらに隠し持っていたナイフを探し出して没収する。

 使えなかった隠し武器など憐れなだけだが、念のためだ。

 少年は幾度か引っ張って解けないことを確認し、立ち上がった。


 黙したまま侍女が斜め後ろに立つ。

 怪我は大丈夫? と確認すると、彼女は微かに頷いた。

 ついと問うように目が動いたのに首を振って少年は目を細める。

 見詰める先は、これだけの乱闘があったのに何の動きも見せない妹だ。

 今は少年も、妹が抱いているのが「誰」なのかわかっていた。

 すぐに駆け寄ることが躊躇われて、少年は目を伏せた。


「何が起きたのか、わかる?」


 無表情のまま答えない侍女を辛抱強く待つ。

 漸う口を開いた侍女は、ぽつりぽつりと説明した後、頭を下げた。


「……申し訳ありません。ぼくの失態です」


 大通りで弟が長いこと迷っていたこと。

 帽子を外した妹が運悪く見付かったこと。

 妹の意向に沿って路地に飛び込んだこと。

 足音から挟み撃ちにされたと思ったこと。

 実は娘を人質にとられた男の足音だったこと。

 気絶させたもう一人は放置してきたこと。

 コルミールの揺れのおかげで辿り着けたこと。

 その間に何があったのかはわからないこと。

 ――――間に合わなかったこと。


 少年の胸に絶望が去来する。多過ぎる感情が渦巻いて、少年の思考を埋めつくす。

 拾われてから今までほとんど喋らなかった侍女の淡々とした説明に、最後に少年は顔をくしゃくしゃに歪めた。

 だって、悪くない。侍女は悪くない。

 間に合わなかったというのなら、自分もだ。

 精一杯のことをしてくれたと思う。

 ただ、(あいて)が一枚上手だっただけだ。

 それでも少年が自分の無力さを嘆くように、侍女もまた間違えたと悔やむのだろう。

 少年は侍女を責められなかった。

 胸に渦巻くぐちゃぐちゃな想いを、怒りとしてぶつけるのは簡単だけど、それはただの八つ当たりだ。

 何よりも無口な侍女の心が慟哭しているのがわかったから。自分と同じくらいぐちゃぐちゃだとわかったから。

 少年は何も言わなかった。慰めの言葉も労りの台詞も口にしなかった。

 ただ、下げたまま上がらない侍女の頭をぽんと叩く。

 侍女はぴくりと身を硬くしたが、それだけだった。


「……責め、ないのですか」

「俺が責めたら君も俺を責めてくれるの?」

「……………」


 ようやく顔を上げた侍女が顔を歪める。

 きっと自分も同じ顔をしているのだろうと思わせるような顔だった。

 どうにもならない想いを抱えたまま、少年は妹のもとへと歩を進める。

 侍女は一歩分の距離を開けて、黙ってついてきた。

 少年の影が妹に被さる。

 少年はすとんと座り込んで、まず妹の腕を解こうと手を伸ばした。


「ティリエル……」


 少年の手が触れた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように崩れ落ちる妹。

 血に塗れた弟と重なり合うように倒れ込む。

 すぅっと冷えていく指先を伸ばして妹に触れると、温かかった。

 少しだけ安堵して、安堵した自分に戦慄する。

 安堵したのは、妹までも失うのではないかという恐怖が払拭されたから。

 戦慄したのは、目の前に失ってしまった弟がいるのに、妹の無事にほっとしてしまったから。

 少年は両手で妹を抱き上げると、そっと弟の上から退かした。

 壁に背を預けるように座らせ、弟のもとに戻る。

 少年は疑いようもなく事切れている弟を、そっと抱き起こした。

 心のどこかに穴が空いたみたいで、少年はそうすれば穴が埋まるのだとでもいうように、強く弟を抱きしめる。

 まだわずかに熱の残る弟の身体。


『にいさま!』


 いつもいつも、少年の後ろをついて回っていた弟。


『ぼくもにいさまみたいにつよくなります』


 みんなを守るんです、と幼いながらに決意のこもった瞳で笑っていた。


「ごめん……。ごめん、リュート」


 零れる謝罪が何に対するものか、少年にもわからない。


「ごめん、本当に……」


 視界が滲む。嗚咽が漏れる。

 少年は泣いた。天にも届くような声を上げて。

 その間中ずっと侍女は妹の傍に佇んでいて、何も言わない彼女の気配は、少しだけ少年を慰めた。












 しばらくして父たちが駆け付けたのは、少年たちが弟を綺麗にした後だった。

 真っ赤な服を着て、白い顔で目を閉じる弟を見て、父の表情が消えたのを覚えている。

 弟を父に預けて、少年は妹の前に膝をついた。

 ぼんやりとだが目を開けていた妹が、ゆるりと首を巡らせる。

 時間をかけて少年に焦点を合わせ、妹は首を傾げた。


「にいさ…ま?」

「そうだよ。帰ろう」


 できるだけ優しい声でそう語りかけ、背中を向ける。

 夢うつつの妹の代わりに意図を汲み取って、侍女がそっと妹を負ぶさらせた。

 少年の背に体重を預けた妹は、すぐに眠ってしまったようだ。

 立ち上がって歩き出した少年は、もう日が落ちていることにようやく気が付いた。

 空を見上げた少年の首筋に、何か温かいものが落ちる。

 落ちたのは、雫。

 首を捻って妹の顔を覗き見る。

 疲れきったように眠る妹の頬に、新たな涙の跡が光っていた。




過去編はこれで終了です。

先に投稿してあった蝋人形は、都合につき入れません。

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