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精霊に愛された娘  作者: 宵月氷雨
第一章
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第昔話【改】 とある少年への追憶 5

12月30日、改稿しました




「きゃっ!」


 無心に路地を走っていた少女は、侍女と別れてから七つ目の角を曲がったところで、何かにぶつかってたたらを踏んだ。

 頭を振る少女の手を、弟が強く引っ張る。


「? どうしたの?」

「ねえさま、にげ――」

「逃がす訳がないだろう」


 弟の切羽詰まった声を遮って、頭上から降ってきたのは、低い男の声。

 瞬時に顔を凍り付かせた少女は、そろりと後退りつつ視線を持ち上げる。


「あなた……っ!」

「その様子だとちゃんと引っ掛かってくれたみたいだな」

「どうして! 後ろから来てたんじゃないの!?」


 今一番会ってはいけない男。

 灰色の髪を持つ賊の片割れが、にぃっと笑った。

 その笑みにか、通り抜けた風の季節外れの冷たさにか、少女の皮膚が粟立つ。

 弟を背に両手を広げ、少女は男を睨みつけた。

 戦う力を持たない少女には、それが精一杯。

 それをそよ風の如く受け流し、男は一歩、少女たちの方へ歩を進めた。


「後ろにいたのは偽物だ。お前たちは騙されたんだよ、俺たちにな」


 少女はそれに合わせて一歩下がる。


「わたしをどうするつもり?」

「捕らえて、国に連れ帰るようにとの命令だ。理由は聞くなよ? 俺たちのように金で雇われる人間は、仕事内容は知ってても、その理由までは知らないんだから」

「もとよりそんなことは聞いてない。……やっぱりあなたたちはこの国の人間じゃないの?」

「答える義理はないんだがな……そうだ。何故『やっぱり』なのか知りたいものだが」


 男がまた一歩踏み出し、


「簡単なことよ。あなたたちのユーネリア語にはおかしな訛りがあるもの」


 少女が弟と一緒に一歩下がる。

 男はますます笑みを深めて、すらりと剣を抜いた。


「! 捕らえるんじゃなかったの?」

「無傷で、とは言われていないからな」


 腕や脚の一本は覚悟しろよ、と面白そうに付け加える。

 標的に傷は付けられないと踏んで、自分の無条件降伏と引き換えに、弟だけは逃がしてもらおうと思っていたのに。

 ぎり、と奥歯を噛み締め、それでも弟を逃がそうと後ろを振り向く。

 次の瞬間、少女は体中の血という血が全て引いていく感覚を味わった。


「ねえさまになにをする!」

「リュート? ――駄目! 戻りなさい!」


 慌てて腕を掴んで引っ張る。

 が、弟はそれを振り払って少女の前に立った。


「ほお……? 面白いじゃないか、小さな騎士(ぼうや)。ちなみに任務遂行に邪魔であれば殺して構わないとの命令を受けている」


 全身で男を警戒しながら弟を引き戻す機会を探っていた少女は、その言葉に少しだけ、意識が街のひとに向いた。


「とりあえず、死ね」


 ほんの一刹那、少女の気が逸れた瞬間を狙って、男の剣が弟に迫る。


「リュ――」

「だ……だいじょうぶ!」


 すんでのところで奇跡的に避け得た弟が、態勢を崩して地面に転がった。

 その頬に血が伝っているのを見て、少女の中で何かが弾けた。


「――サラマンダー!」


 半ば無意識に叫ぶ。

 いつも少女と一緒にいてくれる精霊たちは、すぐに応えてくれた。

 ぼっと音を立てて、赤い赤い炎が燃え上がる。

 それはまるで、少女の怒りを具現化したかのような、炎。

 少女の意図した通りに、それは男と弟の間に壁を作る。


「サラマンダー? まさかあの十にも満たないような小娘が……?」

「リュート!」


 壁の向こうの男の呟きは、少女の耳をすり抜ける。


「ねえさま」


 少女は弟に駆け寄って、手を取って立ち上がらせた。

 どうしてか、息が切れて動悸が激しくなる。冷や汗が吹き出す。

 それにも構わず弟の右頬に手を伸ばし、顔を歪めた。


「無茶しちゃ駄目でしょう!」

「ねえさまのことはぼくがまもると、にいさまとやくそくしました」


 誇らしげに胸を張る弟に、少女は絶句した。

 眩暈がする。


「このくらいだいじょうぶです。それより、いまのうちに……ねえさま!?」

《――まずい…っ!》


 弟の驚いたような声と、火精(サラマンダー)の焦ったような声。

 それさえも掻き消すほどの割れるような頭の痛みと倦怠感に、少女は膝をついてうずくまった。

 同時に炎の壁が消失する。


「ねえさま、ねえさま! だいじょうぶですか、ねえさま!?」


 かろうじて頷きながら、少女は胸元の衣を握り締めて喘いだ。


(ど……して…)

《お前の身体が俺たちの力に耐え切れなかったんだ》


 早口の説明。


(酔った……の?)

《いや、ちょっと違う》

(なら、も、い……かい)

《無理だ。早く逃げろ》


 焦った声で急かす火精(サラマンダー)

 少女は重い身体を引きずり、霞む視界に男の姿を探す。


「しっかりしてください、ねえさま!」

「は……逃げ………っ」

「ねえさま?」

「――随分、無防備だな?」


 ようやく見付けた男の位置に、少女は戦慄した。

 弟は気付いていない。少女を心配して、それだけで頭がいっぱいになっているからだ。

 無造作に振り上げられた刃に夕日が反射して、鮮やかな紅に目が眩む。

 少女は動かない腕を叱咤して、必死の思いで弟に手を伸ばす。

 逃げて。早く。後ろに。


「―――っ!」

「死ね」


 弟が、ゆっくりと目を瞠った。


「……え…?」


 音が消える。時の流れがゆっくりになる。

 あとわずかのところで触れていない少女の指の先で、弟の背から嘘みたいに血が吹き出す。

 あたかも、深紅の翼が生えたかのように。


「あ…れ? ねえさ、ま……」


 ゆっくりと傾いでいく、弟の身体。

 弾かれたように、世界に音が戻った。


「リュート!!」


 くずおれる弟を、渾身の力を振り絞って抱き留める。

 ぐちゃり、という嫌な音と共に、少女の白い頬に生暖かいものが飛び散った。


(あ……れ?)


 何。これは、このあかいものは、なに。

 無意識の少女の願いに反応して、再び炎が壁を作る。

 鮮やかな炎に、しかし少女は気付かなかった。


「リュート、ねぇ、返事して……?」


 どうしてぐったりしているの。どうしてこんなに身体が重いの。

 どうして、どうして、お前の身体は冷たいの。

 頭は最悪の結果を弾き出し、心は目の前の現実を認識することを拒絶する。

 既に虫の息の弟の喉がひゅっと鳴った。

 ねえさま、と呼ばれたような気がした。


「リュート、大丈夫だよ。ちょっと怪我しただけだから、家に帰ってお医者様に見てもらおう?」


 傷口を手で押さえて、大丈夫だよと繰り返す。

 弟が、ごぼっと重い咳をした。赤い霧が広がって、口許を汚す。

 少女は流れ出る赤い血を止めようと躍起になった。


(軽い……軽い怪我なんだから。すぐ止まるはず)


 ワンピースの裾を引きちぎって押し当てる。

 血は、水だ。なら。


「ウンディーネ!」

《……無理よ。貴女の身体がもたないわ。ただでさえサラマンダーが、》

「わたしは大丈夫だから、早く……!」


 少女の額から脂汗が滴り落ちた。ちかちかする視界に何度も瞬きをする。

 それは火精(サラマンダー)を使役しているせいで、重すぎる負荷が少女の身体を苛んでいるのだ。

 大丈夫。少女はそう心で唱えた。大丈夫。

 自分にだったのか、それとも弟にだったのか。

 自分でも定かではないけれど、それだけが正しいことなのだという風に。何度も、何度も。

 けれどひゅうひゅうと苦しげに息をする弟からは、絶えることなく「何か」が流れ出していく。

 それは赤い色をした血に溶け込んだ、彼の生命(いのち)


《もう――…》


 水精(ウンディーネ)が迷ったようにそれだけ言い、止める。

 それでも言いたいことはわかった。

 もう手遅れだと。

 頭は冷酷に、止められた台詞の続きと同じ判断を下す。

 だけど心はそれを認められない。認めたくない。早くしろと水精(ウンディーネ)を急かす。

 少女はふいに、溢れてくる液体が勢いを失ったことに気付いた。

 ぐったりとした弟の呼吸が浅く、ゆっくりになる。

 少女は思わずがくがくと弟を揺さぶった。


「リュート? リュート!!」

「……さ…」


 薄く開いた弟の瞳に、少女の顔が歓喜に染まる。

 微かに、弟の唇が動く。

 少女は耳を近付けた。


「…――……」


 音にならない弟の言葉を、全神経を駆使して読み取る。

 少女は顔をくしゃくしゃにして笑った。

 応えるように、弟の顔がわずかに綻ぶ。

 うっすらと開いていた目が、落ちた瞼の下に沈む。


「うん。うん……! 一緒に帰ろう、リュート」


 大丈夫。だって喋れたでしょう?

 まだ連れていってあげてないところがたくさんあるよ。

 今度一緒にお勉強するって約束したよね。

 ああほら、昨日の本の続きも読まなくちゃ。気になるって言ってたでしょう?

 ねえ、だから。


「一緒に帰ろうよ、リュート――……」


 けれど現実は逃避を許してくれなくて。

 見ないフリをした事実は、なかったことにはならなくて。

 ずん、と腕にかかる重みが増す。

 少女の手を、服を、地面を汚す赤が、ゆるやかに広がるのをやめる。


「ねぇ、リュートってば……」


 目を開けて。返事をして。笑って。

 いかないで。

 まだ五つの弟の身体が、こんなにも重い。

 ああ――。

 どんなに違うと叫んでも、何かの間違いだと拒絶しても、認めるしかない現実はそこにあって。

 少女と男を隔てていた炎の壁が、静かに燃えるのをやめる。

 ぴくりとも動かなくなった弟を抱きしめて、少女はただむせび泣いた。




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