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精霊に愛された娘  作者: 宵月氷雨
第一章
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第昔話【改】 とある少年への追憶 3

12月30日、改稿しました



「ふぅん? 君も琥珀色の目をしてるんだ」


 音が、消える。

 少女は一瞬止まった手を一息に伸ばして、弟を引き寄せた。

 目深に被った帽子の下から、きっとその人を睨みつける。

 さあっと人の波が引いていくのを視界の端で確認する。それでいい、と少女は思った。無理に止めようとして怪我をされるのは嫌だ。最悪の場合も考えられる。

 男との距離は目測で十歩ほど。少女の足だと十五歩といったところか。

 ぱっと見は人好きのする笑みの、しかしその実目が笑っていない茶髪の男は、ふらりと緊張感なく一歩踏み出した。

 微妙に斜めにずれたために、後ろにいたらしいもう一人の男の姿も確認できた。こちらの髪は灰色をしている。

 訛りがあるのか、妙に耳慣れないユーネリア語で、茶髪の男は続けた。


「オレ、琥珀色の目のコ探してるんだよね。ちょうどいいから一緒に来てくれない?」

「……嫌だと言ったら?」

「悪いが拒否権はない。抵抗するなら力ずくでも来てもらう」

「おい、嬢ちゃん……」


 灰色の髪の方の物騒な答えに、小物売りのおじさんが上擦った声を上げる。

 少女は片手を大丈夫という風に上げると、もう片方の手で震える弟を抱きしめた。

 その間にも茶髪の男は距離を詰める。もうあと六歩ほどだ。

 少女は恐怖を捩じ伏せて、全力で頭を回転させた。弟がいる今、姉である自分が取り乱す訳にはいかない。

 八歳の身には大きすぎるこの事件を、それでも少女がなんとかしなければならないのだ。


(どうする……?)


 こいつらに捕まってはいけないと、それだけは明確にわかっている。

 ここは父が治める地。狙われているのは琥珀の瞳を持つ自分。街のひとを不用意に巻き込む訳にはいかない。


(なら――突破)


 幸い、逃げ道に最適な道がある。

 撒いてしまえ。

 ちらりと視線を走らせて姿勢を低くした少女を嘲笑うかのように、あまりにも適当な足取りで迫ってくる男。その後ろを確かな足取りでついてくる男。二人ともに、腰には剣を佩いている。

 少女はくっと奥歯を噛み締めた。

 兄は剣ができる。しかし自分はできない。足は速い方だとは思っているが、こいつらを抜くだけの技量がない。

 地の利はこちらにある。ここを抜くことさえできれば、何とかなるかもしれない。

 でも最初の一歩が、踏み出せない。

 どうすればいい。まともに立ち向かったら返り討ちにあうのがオチだ。どうすれば――



「……走って」



 ――隣を何かが、疾風のごとく駆け抜けた。

 視界の隅で艶やかな黒が風になびく。

 とん、と軽やかに地を蹴った小さな影が、ちょうど男の目の高さで、右手を水平に払う。

 刹那、爽やかな柑橘類の香りが辺りに広がった。


「うあっ!」


 茶髪の男が目を押さえてよろよろと後退する。

 身体を捻って着地した侍女は、その勢いを殺さずに灰色の髪の男の方へ突っ込む。

 予想外であろう反撃に、男の方は対応しきれていない。

 再び宙を舞った侍女が、右手を振りかぶった。

 放たれた歪な形の黄金色が、寸分違わず男の左目に命中する。

 さらにおまけで膝裏に蹴りをお見舞いした侍女は、音もなく駆け戻ってくると、強い力で少女の手を引いて走り出した。


「――っのやろ」

「待て!」


 後ろから追いかけてくる声を振り切るように、角を折れる。

 少女が使おうと目論んでいたその路地に、侍女は迷うことなく飛び込んだ。

 必死についてくる弟が、ぎゅっと手を握ってくる。

 束の間呆然としていた少女は、我に返ると侍女の手を握り返して、足に力を込めた。







   ◆   ◆   ◆







 灰髪の男は右目で子供たちの逃げた先を確認すると、眉をしかめて舌打ちした。今の片目が見えない状態では追いかけても仕方ない。すぐ回復するだろうから、それを待つ方が得策だろう。

 だが子供たちは一つ思い違いをしている、と男は薄い笑みを刷いた。


路地(そこ)にはとうに苦労させられた後なんだがな」


 多少離されても追い付けるという確信がある。目が治ってからでいい。

 男は左目を何度も瞬かせながら、足元に落ちた黄金色の何かを拾い上げ、観察した。握り潰されたのか、歪んだ小さな果実。


「アコか……?」

「おい、奴らどうなった? 目が見えねぇ」


 相方が苛立たしげに地面を蹴りつけた。

 言葉通り、目は閉じられたままだ。

 どうやら自分も相方も、アコの果汁なんぞで一時的に目潰しをされたようだった。


「大通りから逸れて路地に入られた。さっさと目を回復させろ、追うぞ」

「一分待て」


 ぴたりと止まった相方の様子を横目に見遣る。

 それから、侮っていた子供たちがいた辺りに歩み寄った。


「ひっ……」

「黙れ」


 近くの店の怯えた店主に手の中のアコを投げつけ、男は身を屈めた。

 拾い上げたのは、反撃してきた生意気な子供が置いていった帽子だった。

 油断していたせいでまともに攻撃をくらってしまったが、姿は確認している。


「黒髪風情が……」


 険呑に呟き、放り投げる。

 風に流れてやや後ろに飛んだその帽子を、男は一瞥もせずに無造作に、抜き放った剣で切り裂いた。

 無言で剣を収める男の左目は、完全に開いている。


「行くぞ」

「ったく、まだ半分しか経ってないっつーの……。了解」


 こちらも両目を開いて凶悪な笑みを浮かべた茶髪の相方が、切り裂かれた帽子を踏み付けて男の隣に立った。


「ああ……そこの店主」

「っ!?」

「領主サマに知らせるなんて馬鹿な真似をするなよ?」


 かしゃん、と鍔を鳴らす。

 ちゃちな小物を並べた店の店主が、投げつけられたアコを手に震えながら頷いた。

 いつの間にか男たちの周りからは、人がいなくなっていた。離れた位置で無関心を装い、ちらちらとこちらを見ている。

 周囲の店にも同じように口止めをし、さらにその「観客」たちも適度に脅して満足した男たちは、思い付いて一つ仕掛けを施すと、子供を追って駆け出した。

 彼らにとってその口止めは、ついでだった。どうせ存在はばれているのだから、時間稼ぎになればいいや、くらいである。

 だから、いつの間にか果物屋の嫗がその場からいなくなっていたことに、彼らが気付くことはなかった。







   ◆   ◆   ◆







 随分長いこと走った気がしていた。

 壁に背をつけて座り込んだ少女は、走って来た方を眺め見た。

 あの後、少女を連れて入り組んだ路地に飛び込んだ侍女は、二つ三つの角を曲がると、少女に前に出るよう促した。

 少女は記憶を兄と街中を駆け回った記憶を掘り起こしながら、弟の手を侍女に預けた。

 実はこの道の正解(?)は一つしかない。あとはどの道を通ってもさっきの大通りに戻るか、民家やら行き止まりやらにぶつかるだけだ。

 ただ一つの道が繋がっている先は、中央から派遣された玄武隊の騎士や地方武官の詰める兵舎だったはずだ。


 少女は唇を引き結び、次々と曲がり角を曲がっていった。

 しばらく無言で走り続け、五分ほど経った頃だっただろうか。

 弟がぽつりと、「疲れた」と呟いた。

 ただ走ることだけに集中していた少女は、はたと足を止めた。

 耳を澄ましても、足音は聞こえなかった。

 三人はそこで少し休憩することにしたのだった。


「リュート、すぐにまた走るわ。大丈夫?」

「だいじょうぶです」


 ちょっと苦しそうに息を吐いていた弟は、顔を上げて笑ってみせた。

 少女も笑い返すと、侍女の方に目を向ける。

 侍女は警戒するように二人から少し離れた所に立ったまま、目だけを少女の方に寄越した。


「あなたも」

「……………」

「大丈夫みたいね。助けてくれてありがとう」


 侍女は黙って頷いた。

 少女は微笑みつつ、大通りでの出来事を思い返す。

 侍女が、横を走り抜けた時――。


「……そういえばリュート、わたしに『走って』って言った?」

「さっきのことですか?」

「ええ」

「いいえ、ぼくはなにも……なにがおこったのかも、よくわかっていませんし」

「じゃあ聞いた? わたしの空耳じゃない?」

「はい、きこえました。たしかに」

「それじゃあ、もしかして……」


 あの場にいたのは、男二人と、自分と弟と、それから侍女だ。

 弟でも、もちろん自分でもないというなら、可能性があるのはあと一人。


「さっきのは、あなた?」


 恐る恐る、そう尋ねた少女に、答えはなかった。

 だが代わりに、「声」が返ってきた。

 あまりにも鮮烈な――。

 それは、少女に走ってと言ったのと、同じ声。


「――何か来た」


 ひらりと駆け戻ってきた侍女が、少女と弟の手を掴んで立ち上がらせ、そのまま道の奥へ押しやる。


「え? どうしたの」

「早く逃げて」

「……まさか、もう!?」


 そんな馬鹿な。この道は街に住んでいるひとですら迷うことがあるというのに?

 混乱しながらも弟の手を引いて走り出した少女の耳に、微かな足音が届く。

 少女は蒼白になって、全速力で駆け出した。







   ◆   ◆   ◆







 銀灰色の髪が風になびく。

 畑とひとと、しゃれた建物に紅く染まりかけの、雲一つない空。

 のどかとしか言いようのない風景の中、少年は街へ続く最後の道を駆け抜けていた。

 馬は少し前で下りた。ここからは走った方が速いからだ。

 それにしても、少年の速さは異常だった。それこそ風のように。

 事実彼は風精の力を借りている。激しい消耗と引き替えにしてでも、少年は常以上の速さを求めた。

 それほどまでに彼の心は逸っていた。


 隣国から賊が流れ込んだという情報が入ったのは、今日の午前中のことだ。

 父について向かった州役所でそれを聞き、領主である父は騎士や地方武官、官吏とも話し合った上で、領地の一斉捜索を始めた。

 もちろん少年も手伝った。

 十一時から始め、間に休憩を挟みつつ三時間。

 持ち寄った成果を確認したところ、捕らえた賊の数は十八だった。

 残りは二人。

 長くなりそうだったので、父と少年は一度家に帰ることにした。

 注意と、帰宅が遅くなることを伝えるためだ。

 少年の妹は琥珀色の瞳を持っているので、注意は必須だった。

 そうして辿り着いた我が家で、彼らは自分たちが遅かったことを知ったのだ。

 門をくぐり抜けた少年は、立ち止まって辺りを見回した。


(どこへ行けばいい……?)


 妹たちがどこにいるのか、全く手がかりがない。

 とりあえず、人が多いから行けば何かわかるだろうと、少年は大通りへ向かうことを決めた。

 再び走り出した少年は、しかしすぐに立ち止まることとなった。

 ものすごい勢いでこちらに向かってくる嫗を発見したからだ。

 嫗は少年を見つけると、天の助けとばかりに駆け寄った。


「シュウラン様! どうか、どうかお助けを」


 少年は父と一緒にしょっちゅう街を歩いている。

 街のひとたちにはよく知られていた。


「聞いてください、どうか……!」

「落ち着いてください。どうかしたんですか?」


 内心それどころではなかったが、その尋常ではない様子を見たら、邪険にすることはできなかった。

 少年が努めて静かにそう尋ねると、嫗は大きく深呼吸して、一気に語り始めた。


「さっき、あたしの店の隣の店に女の子が、多分二人と弟らしき男の子が一人、来てたんだよ……来てたんです」

「言葉遣いは気にしなくていいです。続きは?」

「ありがとうございます。遠慮なく……最初は帽子被ってたからわからなかったんだけど、一人の女の子が琥珀色の目をしててね、隣の店主が早く帰そうとしてたところに、変な二人組が現れたんだ」

「……、それで?」

「その琥珀の目じゃない方の子が、アコの果汁で目潰しして、三人で路地に飛び込んだんだ。助けてやってくれ、お願いだ」


 切羽詰まった様子で、嫗が頭を下げる。

 少年は多すぎる符合に戦慄した。

 今この時に、少女二人と少年一人の三人組。一人は琥珀の瞳の少女。少年は弟らしい。

 胸の奥がざわりと音を立てる。

 ほぼ確信に近い嫌な予感を否定したくて、少年は喘ぐように息を吸った。


「その……目潰しをした少女は、どんな容姿をしていましたか」

「どんなって言われても、ずっと黙ってたからね」

「その子の、髪の色は」


 少年は震えそうになる声を、喉に力を入れて無理矢理押し出した。

 彼女の髪の色は珍しい。これではっきりするはずだ。

 違ってほしいと願いながらも、少年の心のどこかは、答えを知っていた。

 この手の予感を、少年はあまり外さない。

 それが嫌な予感であれば、なおさら。

 嫗は怪訝そうに、けれどきっぱりと即答した。


「――黒。黒だったよ」


 少年の顔から、一切の表情が掻き消える。


「……わかり、ました。心当たりもあります。必ず助けます」

「――本当かい!?」

「はい。すぐに父が参ると思いますので、同じ説明をしていただけますか?」

「もちろんだよ。あんたは?」

「私は行きます。助けに」


 冷えていく指先を握り込み、少年は身を翻して駆け出した。向かう先は兵舎だ。

 確信に変わった予感が少年を焦らせていた。

 あの路地に入れば、大概の賊は撒けるだろう。常時であれば妹――としか考えられない――の判断は正しい。

 けれど今回は駄目だ。

 その二人組は。


「昼にそこで追いかけっこしたばっかりなんだ……っ!」


 鬼は少年たち地方武官や騎士。逃げたのは賊。

 大半が迷って自滅する中で、捕まえられなかった二人だけは、あの路地を抜けたのだ。

 問題なのは路地に入ったことではない。路地に入ったことで地の利があると思い込むことだ。

 地の利は、ないのだ。

 一度しか通ったことのない賊に比べれば、妹たちの方が幾分有利だが、それは、賊があの路地を通ったことがあることを知らない、というただ一点によって覆される。


(戦力は……)


 あの黒髪の無口な侍女は、かなり強いだろう。身のこなしを見ていればわかる。

 だが妹も弟も武術には手を出していない。

 他人を守りながら戦うのがいかに難しいか、少年はよく知っていた。

 それでも後ろから追いかけてくるだけなら、やりようがあるだろう。


(最悪の場合は挟み撃ちだ)


 体中に冷たい汗が吹き出す。拳に力がこもる。

 爪が皮膚を破る寸前で、少年は力を緩めた。

 剣を持てなくなる訳にはいかない。


「間に、合え……っ!」


 目に入る汗を拭い、少年は歯を食いしばった。




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