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精霊に愛された娘  作者: 宵月氷雨
第一章
23/57

第昔話【改】 とある少年への追憶 1

12月30日、改稿しました


 少女は幾つか年下に見える少年と、幾つか年上に見える侍女らしき少女と一緒に、細い道で息を切らしていた。

 少年は疲れきったように座り込み、胸元をぎゅっと握り締めている。その少年を抱きしめる少女を更に守るように、少年とも少女ともつかない小柄な人影が片手を水平に掲げて油断なく視線を走らせていた。

 空は燃え立つような紅に染まり、暗い夜になる前のひと時をあたたかく見守っている。

 けれど常と違うその鮮やかな紅が、ひどく恐ろしく思えて――。

 少女はくしゃりと、その泣きそうな顔を歪めた。







   ◆   ◆   ◆







「ねぇ母様、リュートを街へ連れて行ってもいい?」

「どうしたの、突然」


 庭で花を見ていたのところに飛びついてきたのは、まだ八つになったばかりの娘だ。

 穏やかに微笑んで受け止めた女性――ニイナは、娘を追ってやってきた侍女の姿を認めた。普段は濃紺のシャツとズボンに身を包んでいるが、今日はシャツの色が白かった。

 侍女はニイナと娘の姿に、一度だけ、その翡翠の瞳を瞬かせる。

 それから無表情ながらも丁寧にお辞儀をしてきた。

 あまりに遠い場所にいたので、ニイナはちょいちょいと手招きした。

 無表情に応じた侍女は、しかしきっかり三歩の距離で立ち止まる。

 それ以上は無理かな、と判断したニイナは潔く諦め、腕の中に視線を戻した。

 きらきらした琥珀の瞳が見上げてくる。

 ニイナは娘の頭を撫でつつ、もう一度尋ねた。


「どうしてリュートを街に連れていきたいの?」

「あのね、リュートが行きたいって言ったの。わたしお姉ちゃんだから、叶えてあげたくて! それにね、今街に植えられてるアコの木がちょうど花を咲かせてるの。きれいなんだよ!」

「そうだったの。お姉ちゃんだもんね」

「そう、お姉ちゃんなの!」


 誇らしげな娘の笑顔は愛おしい。

 娘が弟の願いを叶えたいのなら、ニイナはその娘の願いを叶えたかった。

 ただ二人で行かせるのは危ないだろうことも、ちゃんと考えていた。

 わずかな表情の変化から、それを朧げながらも読み取ったのか、娘はえへんと胸を張った。


「あの子も来てくれるから大丈夫だよ」


 指差した先にいるのは、侍女だ。

 彼女にはまだ名前がなかった。数ヶ月前に路上に倒れているのを発見して連れ帰ったのだが、何を聞いてもほとんど喋らなかったのだ。

 どうも名前はあるらしいことはわかったが、名前そのものは聞き出せていない。名前があるなら新しく付ける訳にもいかず、故に現在彼女には呼び名がないのだった。

 使用人たちは「お嬢ちゃん」、ニイナたち家族はその場その場で適当に呼んでいる。

 喋らない彼女だが、不思議と娘は彼女を信頼していた。侍女にしたのも、娘がどうしてもと懇願したからだ。

 そして彼女の方も、娘を大切に思っているらしかった。それは、彼女の行動を見ればわかる。


「あの子、とっても強いんだよ。この間もね、街で男の子が喧嘩してたの、あっという間に止めちゃったの」

「知らなかったわ。すごいのね、あなた」


 前半は娘に、後半は侍女に向けて言うと、娘はまるで我が事のように嬉しそうに笑い、侍女はやっぱり無表情に頭を下げた。


「あ、照れてる」


 頭を上げた侍女の少女が、再びぱちりと瞳を瞬かせる。

 ニイナは驚いて娘を見た。

 指摘が、娘のものだったからだ。

 妙に自信たっぶりに、娘は言う。


「最近、わたしあなたの表情がわかるようになってきたの。無表情でもちょっとずつ違うんだよね。今のは照れてる顔だよ」


 侍女は肯定も否定もしなかったが、娘はにこにこと微笑んでいた。

 ニイナには無表情にしか見えなかったのが、ちょっと淋しい。

 でも、いいことだと思った。そうやって少しずつ、変えていければいい。


「母様、いいでしょう?」

「きっともうすぐ、お父さんとお兄ちゃんが戻ってくるわ。それからじゃ駄目?」

「きっとじゃ駄目だよ。遅くなっちゃうかもしれないでしょ? 明日は天気が悪そうだって精霊たちが言ってるから、絶対に今日行きたいの。すぐ帰ってくるから、お願い!」


 夫が治めるこの領地は、他の地より遥かに治安が良いと、ニイナは自負していた。もっともこの場合、誇るのはニイナ自身ではなく夫のことだが。

 現在も夫自ら、息子を連れて領地の巡回に行っている。まだ日も高い。それほどの危険はないように思えた。

 だから逡巡の末、あまり我が儘を言わない娘の頼みを、受け入れた。

 腕を解いて視線を合わせ、頭を撫でる。


「絶対にすぐに帰ってくるのよ?」

「――ありがとう、母様!!」


 ぱあっと、明るくなる娘の顔。

 両手を上げて跳びはねた娘は、くるりと身を翻すと、足取り軽く屋敷の方へ駆けていく。

 遠ざかる弟の名を呼ぶ声に微笑みつつ、ニイナは侍女のもとに歩み寄った。


「大変だと思うけど、娘をよろしくね」

「……………」

「私は夫の留守を守らないといけないし、末の娘はまだ二つ。ついていく訳にはいかないの。だから、あなたに頼むわ」


 侍女は無言で、ニイナを見上げた。

 もの問いたげな目を、している気がした。

 けれどそう見えたのも一瞬で、驚いたニイナが瞬きした時には、やっぱり感情の浮かばない翡翠の瞳があるだけだった。


(気のせいだったのかな……)


 考えても、答えは出ないだろう。

 ニイナがその瞳を見詰め返すと、しばらくして侍女はふいと目を逸らした。


「ごめんね。娘が無理に頼んだんじゃないかしら」


 左右に振られる頭。

 この侍女の声を聞いたことは、片手の指で足りるくらいしかない。

 話し掛けられなければ意思表示をすることも稀だった。


「娘はあなたと行けることも楽しみにしているようだから、一緒に行ってあげてね」


 少しの空白の後、侍女は小さく頷いた。

 ニイナは微笑んで侍女に手を伸ばした。

 ――変化は劇的だった。


「っ、!」


 鋭い呼気とともにニイナの手を払い、大きく跳び退(すさ)って姿勢を低くする。

 それでもそれなのに、侍女の顔に表情はなかった。

 しまったと、ニイナは臍を噬んだ。失敗した。

 確かに、侍女の頭を撫でようとしたのは初めてだった。だからそれが彼女の「境界線」だと知らなかった。

 今の侍女はまるで、警戒心剥き出しの猫のよう。触れるな、近寄るなと全身で威嚇する、小さな獣。

 ニイナは息を呑んだ。

 声を出すことができない。まるで何かが、喉に張り付いてしまったのかのように。




「……申し訳、ありませんでした」




 ぽつりと、謝罪がその場に落ちた。

 抑揚のない、娘に比べて少し低い、その声。

 ああ、四回目だなと、ぼんやり思った。

 拾ったニイナたちに水を求めた時。

 屋敷に連れ帰っていくつか質問をした時。

 娘の侍女になってほしいと頼んだ時。

 それから、今。

 彼女の声を聞いたのは、これで四回目だ。

 低頭する侍女の顔は見えない。

 ようやく、目の前の事態に思考が追いついた。

 侍女は何かを恐れたのだ。だから反射的に自分を守った。侍女が悪いのではない。

 拾った時から訳ありだとわかっていたから、気をつけていたのに。

 何か言わなくてはと思うのに、ニイナの唇は動かない。

 何を言えばいいのか、わからないのだ。

 音にならない呼気を漏らすニイナに、瞬きよりも少しだけ長く目を閉じた侍女は、


「……申し訳ありませんでした」


 もう一度そう言うと音もなく背を向けた。

 ひどく静かなその歩みに。


(……消えて、しまう)


 どうしてかそんな気がして。

 ニイナは、衝動に駆られて、声を上げた。待って。お願い。


「待って、……っ」


 ――名前が。

 呼び掛けるべき名前がない。

 愕然とした。

 侍女は止まらない。

 このまま行かせてはいけないとわかっているのに、ニイナの足は一歩たりとも動かなかった。

 去っていくその背中が泣いているように見えて。痛々しいほどに小さく見えて。

 ニイナは引き止めることができなかったのだ。

 どうしたらいいかわからなくて焦るニイナの視線の先で、ふいに侍女が立ち止まった。


「あ、いた! 遅いよ! 早く行こう」


 澄んだ高い声。

 ありふれた感情がいっぱいに溢れた声。

 当たり前のように向けられる笑顔。


「? どうかした?」


 その一言で、その笑顔一つで、侍女の背中からさっきまでの痛々しさが、溶けるように消えていく。


「あ、そうだ、これ」


 ふわりと、侍女の頭に何かが乗った。

 なかなか来ない侍女を探して戻ってきたのだろうか。

 自らも鍔の大きな帽子を被った娘が、自分よりも少し大きな侍女に手を伸ばして、よく似たものを被せていた。

 侍女の髪は、珍しい色をしている。拾った時には、男の子のようにざっくりと短く切られていた。服装と相俟って本当に少年のようだったくらいだ。

 ニイナが見かねて切り揃えたのだが、少し伸びたかなと思うといつの間にか短くなっている。その、少しいびつな切り口を、ニイナはやはり切り揃えてやるのだった。最近では上手になって、綺麗に切られている。ニイナが手を加えるまでもなくなった。

 しかめっ面であれこれと角度を直していた娘は、納得がいったのか何度も頷いた。

 確かに遠目から見ても、侍女の艶やかな黒髪は見えない。

 とん、と一歩下がって、娘は手を差し出した。


「ほら、行こう? リュートはもう待ってるよ」


 ニイナはひやりとしたけれど、侍女はそっとその手を取った。

 娘がにっこり笑う。

 何の根拠もないけれど、何となく、もう大丈夫だろうと、思えた。

 閉じかけていた扉が、隙間を残して止まった音が、聞こえる気がする。

 それは娘のおかげだった。


「じゃあ母様、行って参ります!」


 ニイナにはどうしようもなかったことをあっさりやってのけた娘が、大きく手を振ってくる。その隣で、侍女が振り向いて深々と一礼する。

 ニイナは胸中の安堵とともに、心からの笑顔で二人に手を振り返した。


「――行ってらっしゃい」












 夫と息子が帰ってきたのは、娘たちが出て行った一時間ほど後。そろそろ空も紅く染まり始めるか、という頃だった。

 とっておきのお茶を淹れて二人に勧めつつ、やっぱり待たせればよかったかなと思ったが、もう行かせてしまったから仕方ない。

 危険と言っても命に関わるようなものがあるはずもないから、行かせたのだ。

 だから、変わったことはなかったかと問い掛けてきた夫に、軽い気持ちで娘の話をした。

 弟に街を見せてあげたいって、弟と侍女と三人で街に行ったよ、と。

 ここから街までは往復で四十分ほどだ。


「もうすぐ帰ってくるんじゃないかしら。

 あの子もすっかりお姉ちゃんになっちゃって……。ねぇ、あなた? ――あなた?」


 ひどく嫌な、予感がした。

 すぅっと、夫の顔から笑顔が消える。

 息子が蒼白になってティーカップを取り落とす。

 カシャンと、陶器が割れる耳障りな音がした。


「何か、あったの……?」


 どくどくと脈打つ心臓の音がうるさい。

 ニイナの震える声に、夫と息子は顔を見合わせた。

 すぐに息子が身を翻し、飛び出していく。

 ――傍らに立てかけてあった剣を手に。

 さあっとニイナの顔から血の気が引いた。


「あなた、何があったの!? ねぇ――」

「……【聖巫女(ファルナ)】だ」

「え?」

「【聖巫女(ファルナ)】を狙った賊が隣国から入り込んだ。捕らえられた奴が吐いたところによると、人数は二十。うち私たちが捕らえたのは十八人」


 がらがらと、何かが崩れていく音がした。

 膝から力が抜けてくずおれたニイナを、寸前で夫が受け止める。

 そのまま二人で床に座り込み、ニイナは縋り付くように夫の腕を掴んだ。


「嘘……嘘よ。ファルナのことは第一級機密事項なのよ? 隣国が知ってるなんて、そんなはずは――」

「私もそう思っていたし、今でもそう思っている。だが実際に隣国は知っていた」


 夫は宥めるように抱きしめ、ニイナの背を叩いた。

 一定のリズムで繰り返されるそれに少しだけ落ち着いてくる。


「どこまで……どこまで知っていたの?」

「ファルナという存在がいる、歴代のファルナは琥珀色の瞳を持つ者である、ということだけだ。ここに来たのは、単に国境から近いかららしい」

「そう……」


 それだけなら、まだ大丈夫。

 ニイナは一つ息をついた。

 そうして、気付く。


「琥珀色の瞳!?」

「あぁ。それを知っていたから、息子(あいつ)に行かせたんだ。賊が狙っているのは『琥珀色の瞳を持つ者』。――(あの子)たちが危ない。シルフで知らせるのは、賊が霊才者だった場合の危険を考えると実行できない。みすみす場所を教えるようなものだ」

「……………っ!」

「今、この地にいる玄武隊の騎士の指揮下で地方武官たちが街を走り回っている。すぐに残りの二人も捕縛されるはずだ。私ももう一度行く。――大丈夫」


 夫の瞳に、絶望に染まった自分の顔が見える。

 囁くような声がこぼれた。


「私が、駄目って言っていれば、あなたたちを待たせてたら、」

「大丈夫。大丈夫だ」


 かたかたと震えるニイナをきつく抱きしめて、夫はそう繰り返す。


「必ず三人とも連れて帰る。――待っていろ」


 力強い声で耳元にそう囁き、夫は立ち上がった。

 手を取ってニイナも立ち上がらせ、手早く剣を佩く。


「行ってくる。あとは頼んだ。――大丈夫だ」


 夫の言葉を聞いていると、全然大丈夫じゃないのに大丈夫な気がしてくるから、不思議だ。

 ニイナはお腹に力を入れてしゃんと背筋を伸ばし、笑ってみせた。


「頼まれたわ。行ってらっしゃい、あなた」

「あぁ」


 最後にニイナの額に口づけを落とし、夫は足早に屋敷を出て行った。

 それを見送ったニイナは屈んで、無惨にもバラバラになったティーカップの残骸に手を伸ばす。

 一つ一つ集めていると、指先に痛みが走った。


「痛っ……」


 反射的に手を引くと、人差し指に赤い線が入っている。

 ニイナはそれを見ていたくなくて、行儀が悪いのを承知で口に含んだ。


(どうか、無事で)


 嫌な予感を頭から追い出すために、ひたすらにそう祈る。

 そんなニイナを嘲笑うかのように、口の中に鉄の味が苦く広がった。




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