第16話【改】 令嬢、お茶会 4
12月29日、改稿しました。
固く閉ざされていた上座の扉が開いていく。
優雅にカップを傾けたまま目だけを動かしたその女性は、姿を見せた人物が誰かを確認すると、興味を失ったかのように視線を戻した。
「シエラレオネ様、お代わりはいかがでしょう」
「いただこうか」
タイミングの良い、長い付き合いの侍女に、あるかなきかの微笑を浮かべる。
それを見て、彼女の「試験官」だった黄竜隊の騎士は、大袈裟に身体をのけ反らせた。それほど彼女の笑顔は稀少なものだ。
だからといって、そんな反応をされて嬉しいひとがいるはずもない。
ぴくりと柳眉をしかめ、公爵令嬢シエラレオネ・アザレアは静かにティーカップをソーサーに戻した。
「私は嫌いなものが多い性だと自覚している」
研ぎ澄ました氷のような、怜悧な声音。
騎士の背を冷たい何かが駆け登る。
「例えば『無駄なもの』。無駄に着飾る令嬢、無駄に格好つける男、無駄に話が長いひと、――無駄に動作が大袈裟なひと」
ちらりとも視線をくれずに、彼女は独白のように囁く。
騎士はだらだらと冷や汗を流しながら、そろりと姿勢を正した。
「中でも無駄な時間は、一番嫌いです」
シエラレオネの氷の視線が、たった今用意された席の前に立ったばかりの王太子をとらえる。
彼女の席は、王太子に程近い右手側。細長いテーブルの四分の一くらいの位置。
もしかしたら、王太子もその好意的とは言い難い視線に気付いているかもしれなかった。
シエラレオネはそれきり口をつぐんだ。何てことはない、王太子が何か言うだろうと思ったからだ。
楽しみにするでも、ましてや緊張している訳でもない。
ただ、何を言うのかと観察するだけの、冷たい目をして王太子を見遣る。
何かを言いかけた騎士は、シエラレオネが纏う雰囲気に触れて断念した。
いつの頃からか広まった、彼女の二つ名を思い出す。涼やかな縹色の瞳は「氷姫」の名の通り、凍てついた冬の氷のように冷たく、鋭い。
「遅れてすまない」
がやがやと騒がしかったサロンは、たいして大きくもない王太子の一声でぴたりと静まり返った。
試験はここまで、ということだろうか。
これが試験だと気付いた者も、気付かなかった者も、一人残らず王太子に注目する。
ぐるりと場を見回して、王太子アルフレッドは芝居がかった仕種で両手を広げた。
「まずは遅れたことに再度謝罪を。そしてもう一つ、手違いがあったことについてだ」
夜会の時とは別人のようだ、とシエラレオネは思った。
令嬢に囲まれて戦々恐々としていたことも、三つ巴の戦いに逃げ出したがっていたことも、シエラレオネにはお見通しだった。
だが今日の王太子は合格点には程遠いものの堂々としている。
その程度でシエラレオネの視線が和らぐことも、もたらされた情報に動揺することもない。
しかしながら彼の言葉は、確かな波紋を呼んだようだった。
「手違い……?」
「何のことかしら」
そこかしこで令嬢たちがざわめく。
茶葉がツェインドのものだったことは手違いのうちに入らない。気付けなかったのならそれは恥ずべきであり、また味が違うのだから本人も把握しているはず。
ならば手違いとは、ネルの果汁のことだろう。
シエラレオネはざっとそれらを確認した。
自身も把握して対処した者が二割。
侍女が対処してしまったために気付かなかった、あるいは気付けなかった者が三割。
「手違い」が何を意味するのか悟り、尚且つそれに引っ掛かったと知って蒼白になる者が一割。
意味がわからないという風に、ざわめく者が残り四割。
(残るのは半分か……少ない。この国の貴族は大丈夫なのか?)
精霊が絡むからある程度は仕方ないとは言え、目を覆いたくなるような惨状である。
これに、とアルフレッドはティーカップを取り上げた。
「ネルの果汁が混ざってしまったみたいでな。ウンディーネを喚んでいるかとは思ったのだが、誤って酔ってしまった者もいるかもしれない」
不思議とよく通るアルフレッドの声は、おどけたような響きでサロンを揺らす。
手違い、というのが嘘であると、さすがに全員が悟った。
美しいステンドグラスを背に、アルフレッドが朗らかに告げる。
「今回のお茶会は様子見の意味も含んでいる。余がいない間のそなたたちの様子やネルの果汁への対応も判断の材料となること、心得ておいてくれ」
サロンに動揺が走る。
ややおいて。
悲鳴にも似た錯乱した叫びが、シエラレオネの耳を突き抜けた。
端整な顔立ちに険が宿る。
「王太子殿下も思ってたより悪いヤツだねぇ。侍女、時間、教養、精霊はともかくとして、まさかあまり知られてない自分への不審感も利用するとは思わなかったよ。嫌いじゃないね」
今の流れは明らかに教養と精霊についてなのに、感心するのはそこらしい。
口笛でも吹き出しそうな騎士を「黙れ」の意を込めて一瞥すると、彼は肩をすくめて口を閉じた。
と思ったら、一分も保たずに懲りない騎士は再び話しかけてくる。
「うるさいねぇ。あ、一応言っとくとキミは何一つ問題なかったよ。完璧」
「わかっている。――それよりもう話しかけないでくれないか」
「えー何でさ。これでもオレ、結構キミのこと気に入ってるんだけど」
「迷惑だ」
「うわひっど! 掛け値なしの好意なのに」
「間に合っている」
傷付くなぁと首をすくめた騎士に、シエラレオネは半眼になった。
全く傷付いているようには見えない。というかさっきから彼の言葉のどこまでが本気なのか、いまいちよくわからない。
(ここまで読めないひとは珍しい)
相手の思考を完全に読むとまではいかないまでも、何となく悟れるくらいでないと社交界ではやっていけない。結局のところ腹の探り合いだ。
シエラレオネはそういったことが比較的得意だという自覚があった。
それなのにこの騎士はよくわからない。彼女の目を真っ直ぐ見返してくること自体が珍しいが、目を見ているのに何を考えているのかも、何を意図しているのかも読めないのだ。
そこまで考えて、「この男のために使う思考時間は最大の無駄だ」と結論付けたシエラレオネは、再びサロンの観察に戻った。
ようやく事態が飲み込めたらしい半数の令嬢たちの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
あくまでも彼女たち自身の失態であるだけに、打つ手が見当たらないようだ。
嘆かわしい、と二十三歳のシエラレオネは本気で思った。
(これも前国王の弊害か……?)
女と権力に溺れた、ユーネリア屈指の愚王。
在位した期間は短かったが、むしろ幸いだと言えよう。
病死、と言われているが死因は定かではない。
毒を盛られたとも痴情の縺れだとも自殺したとも取れる死に方だったそうだ。
その跡を継いだのが現国王ラウディオである。
彼が王位に就いた時は既に国は荒れていたと、いつだったか父は言った。
今のユーネリアがあるのは、偏にラウディオ陛下とヴィンセント閣下のおかげだよ、と。
「殿下は私たちを試されたのですか!?」
ふいに栗色の髪をなびかせて、一人の令嬢が立ち上がる。
うわぁ、という間の抜けた騎士の声を聞き流し、シエラレオネはつと目を細めた。見覚えのある令嬢だ。
「試した、か。そうとも言うな」
「納得できません! お茶に何かを仕込むなんて!!」
二度瞬きをして、それが誰であるかに思い当たったシエラレオネは小さく嘆息した。
(……救いようのない馬鹿だな)
「救いようのないお馬鹿さんだねぇ」
心中で吐き捨てた言葉と寸分違わない台詞が横から聞こえてくる。
見れば、騎士は笑顔のまま栗色の髪の令嬢を見据えていた。
笑顔でも軽蔑って伝わるんだな、と思ったシエラレオネである。
「何が納得できないのだ?」
相対するアルフレッドには余裕があった。
「申してみよ」
「……っ、ご自身が主催されるお茶会でお茶に仕込むなんて、道理に反しています!」
「安心して飲んでもらうのがお茶会ではないのですか!」
栗色の髪の、確かジャスミンと呼ばれていた令嬢に追従するように、失敗した自覚のある令嬢たちが次々と立ち上がり、まとまっていく。
「そうは言っても、最も大事な素質を確認しただけなのだが。常に身を狙われる危険があると知る用心深さ、自らの立場を自覚する賢明さ。これがなくては王城では生きてはいけぬ」
そしてそなたらにはそれがなかったというだけだろう、とうそぶく王太子。
わざと煽っているかのような態度に案の定、騒ぎはますます大きくなっていく。
「騙したのですか!」
「やり方が卑劣です!」
「『試験』など礼儀に反しています!」
「………――――…!」
そこからはもはや狂乱だ。誰が何を言っているのか聞き取れない。
シエラレオネは腕を組み目を伏せて再び嘆息した。
頭が痛い。本当に、
「礼儀がなってないのはどっちだろうね?」
つまらなそうな声。
既視感に駆られたシエラレオネに向き直って、騎士はにこりと笑う。
「って思ったでしょ」
「…………あそこにいらっしゃるのは誰だと思っている、と思いましたが」
下手したら不敬罪だ。
「ほんとかな?」
「本当であるか嘘であるかがあなたに関係あるのか?」
「関係はないけど知りたいじゃん」
「もう教えた」
「えー……まぁ似たようなことだし、いいけど」
どうするんだろうねぇこの騒ぎ、と騎士は肩をすくめる。
お茶に何かを入れることは、相手を害する意志があると取られてもおかしくないことは確かだ。
適当に収めて厳重注意が妥当だろう、と他人事のように(実際他人事だが)思ったシエラレオネは、視界の端で右手を掲げる王太子に気付く。
同時に、パチン、と乾いた音。
その音を合図に、サロンに冷たい雨が降った。器用にも、騒いでいた令嬢たちの上だけに。
いきり立っていた令嬢たちに突然降ってきた水を避ける術はなく、濡れ鼠となるより他なかった。
「あまりやりたくなかったんだがな……頭を冷やせ」
響いた音は、指を鳴らした音。
室内にも関わらず降り注いだ雨は、水精の力。
それを成した張本人である王太子は、一瞬ひどく感情の薄い顔をしていたように、シエラレオネには見えた。
まさしく「水を打った」かのように静まり返るサロンを見回し、王太子は告げる。
「文句があるなら、帰ってくれて構わない。余は必要だと判断し、この方法を取った。……ここは城で、後宮。試されることくらい織り込み済みだと思っていたがな」
薄い笑みを刷いて朗々と声を響かせる様は、さすが王太子と思わせる片鱗があったが、シエラレオネは見ても聞いてもいなかった。
ただ、胡乱げにすがめられた縹色の瞳に、謎めいた色を浮かべてアルフレッドを見つめる。
掲げられた手と、鳴らされた指と、降り注いだ雨。
今日はこれでお開きとする、という言葉をかろうじて頭の片隅で聞きながら、シエラレオネはぽつりと呟いた。
「――精霊………」




