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第0話 忘れられた記憶

はじめまして、氷雨と申します。

拙い文章ですが、よろしくお願いします。

 青い空と、青々と茂った葉。

 小さな森の中でそれらと同じくらい真っ青になった少女は、これ以上ない程に後悔していた。


(まよっちゃった……)


 右を向いても左を向いても木、木、木。後ろを振り向いても道はないし、前を見てみたところで先は見えない。

 ふわふわした髪を肩の辺りで二つに結わえた少女は、途方に暮れて傍らの木にもたれ掛かった。

 常日頃から母に森に入ってはいけませんよと言われていたのに、興味半分でそれを破ったのは自分だ。口数が少ない父だって、森は危ないと言っていたのに。

 葉の間からわずかに見える空には太陽が高く昇っていて、もうお昼の時間だということを否応なく思い出させた。一時間近く歩き通しだった脚は痛みを訴え、空腹感はそれを助長させる。


(どうしよう……。はやくかえらないとおとうさまとおかあさまにしかられてしまうわ)


 そう思いながらも、少女はくたくただった。終わりの見えない冒険は気力を失わせ、疲労は足を重くする。

 座り込んだ少女は、静かな森の中でふいに泣きたいような気持ちになった。人の声や動く音がしない静寂は、一人ぼっちだという事実を浮き彫りにする。

 歩いている間は感じなかったもう二度と帰れないのではないかという恐れが膨れ上がって、溢れてこようとした。

 泣くもんかと、最後の意地で何度も目を瞬かせる。

 迷ったのは自分のせい。泣いて助けが来るのを待っているのは、プライドが許さなかった。

 幹に手を付いて立ち上がって、辺りを見回す。どこを見ても同じようにしか見えない。


(んと……こっち!)


 適当に当たりを付けて歩き出した少女の目に、ふいに澄んだ青が飛び込んできた。

 ――湖。

 いつまでも眺めていられるような美しい水と、その上を舞う無数の光。

 少女はその光を知っていた。


(せいれい……だ)


 あまりにも美しいその光景に我を忘れて見入っていた少女の傍らに、一際強い光が生まれた。その光は神々しいまでの黄金色を放って、やがて収束する。

 そこにいたのは、黄金の光をまとった美女だった。


《ここに人がやってくるのは久しぶりですね……。小さき子よ、貴女の名は?》


 優しい声がそう尋ねた。

 少女は夢を見ているような心地でそれに答える。


「――っていうの。あなたはだぁれ?」


 黄金の美女は、少し考えたようだった。あたたかな、無条件に人を安心させる微笑を浮かべて、彼女は少女の前に膝をついた。目の高さを合わせて、ゆっくりと話す。


《わたしは人ならざる者なのです。長い時をここで眠って過ごしていました。そう、貴女が来るまで》

「よく……わからないよ」

《今はまだ、わからなくて良いのです、小さき子。いずれわかる時がきます。わたしが何なのか、そして――》


 優しい瞳に一滴の苦渋を滲ませて、美女は言う。


《貴女が誰なのかということが》


 少女は小さく首を傾げた。


「わたしは、わたしだよ?」

《ええ。貴女は貴女。貴女が悪いのでは決してないのです。ただ貴女は、選ばれてしまった。見初められてしまった。わたしに。わたしの愛する全ての子供たちに。そして、この場所に》


 彼女の言うことは、少女には難しかった。それでも、何か大切なことを言っているのだという、そのことだけは理解できた。

 だから少女は真剣にそれを聞いていた。理解できなくても、覚えていられるように。


《小さき子よ。貴女の運命はたった今この時から、平凡とは程遠いものとなってしまった。それが貴女にとって吉となるのか凶となるのか、まだわたしにもわからない》


 美女はそっと少女を抱き締めた。


《数多の苦難が貴女を襲うことでしょう。数多の痛みを抱えることでしょう。それでも決して、立ち止まらないで。前に進むことを、諦めてしまわないで。貴女は一人ではありません》


 腕の中は、あたたかかった。少女はだんだんと落ちてくる瞼と格闘しながら、必死に耳を澄ませる。


《貴女は(まこと)を見ることができる。貴女は(まこと)を聞くことができる。貴女は(まこと)を抱き、与えることができる》


 美女の手が、少女の頭を撫でた。あやすように、慰めるように、いとおしむように。


《小さき子よ、貴女はまだ幼すぎる。全てを知るのはまだ早い。いつか、貴女が大きくなってわたしのことを思い出したその時に、わたしは全てを話しましょう》


 眠りなさい、と囁かれる。


《貴女の道行きに祝福を。貴女に幸運を、わたしは祈りましょう》


 とろとろと、思考が溶けていく。少女は必死にそれらをかき集めて、最後の問いを発した。


「あなたの…なまえは?」

《わたしの名は――……》


 ふわりと、甘い香りを含んだ風が吹き抜ける。

どこか不思議な響きのその単語と、黄金の美女のどこまでも優しい微笑を最後に、少女の思惟は闇に溶けた。








 次に目を覚ました少女の視界に飛び込んできたのは、心配そうに覗き込む家族の顔だった。聞くところによると、いつの間にか行方がわからなくなっていた少女は二日の間見つからなかったらしい。三日目、つまり今日の朝、森の入口に倒れていたということだった。

 何があったのかと問われて、少女ははっとした。とてもすごいことがあったのだ。


「おとうさま、おかあさま、きいて。もりでね、わたし……」


 勢い込んで話し始めた少女は、あれっと首を捻った。

 確かに何かがあったはずなのに、少女はそれを思い出せないのだ。

 なんだっけとしきりに首を捻る少女に、家族は困ったように笑う。

 きっと夢を見たんだよと言われて、そうなのかなと少女は納得した。夢ならば、忘れてしまっていてもおかしくない。

 安心したのか、もうしばらくおやすみ、と部屋を出て行った家族を見送り、少女は言われた通りもう少し寝ようと目を閉じた。

 眠りにつく直前、あたたかな黄金の光が瞼の裏で弾けた。




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