第11話【改】 王太子、逃げ込む
11/09 改稿しました。
お手数ですが読み直していただけると幸いです。
季節は初夏。トルティージャ大陸の北部にあるユーネリアとはいえ、気温はそこそこ高い。青々と葉も茂り始めて、日の光を一身に浴びている。
加えて今日は快晴、外に出れば汗をかくのが普通である。
故に現在、王宮内の気温は水精によって人が過ごしやすい程度まで下げられていた。
要所要所の空気を冷やしてもらい、その空気を王宮の構造による風の循環に乗せることで、精霊の力をわずかに抑えているのだ。
大量の精霊を使役し続けるというのは、力を貸す精霊たちはもちろんのこと、貸してもらう人間の方も多大な力が必要になる。
精霊は無償で人間に恩恵を与えてくれる訳ではない。そんな風に工夫をしていかないと、疲労であっという間に倒れてしまうのがオチだ。
そんな初夏にしては少々ひんやりした王宮の回廊を、若い男が汗だくになりながら疾走していた。
というか、この国の次期国王様である。昨夜の夜会以降、彼の顔は少なくとも王宮内には広まっていた。
何度も後ろを振り返っているところを見ると、何者かに追われているのだろうか。
すれ違う官吏たちが、見てはいけないものを見たかのように不自然に目を逸らす。
それも仕方ない。ようやく表に出てきたどんな人物かもわからない王太子が回廊を全力疾走しているところなど、誰が見たいだろうか。
そんな周囲の思いは露知らず、げっそりしながら目的の扉まで辿り着いた彼は、半ば体当たりのようにして扉を押し開け、中に転がり込んだ。扉の脇にいた騎士がぎょっとしたような顔をしていたが、知ったことではない。
荒く息を吐く彼を見て、部屋の主とその従者は目を丸くした。
「……どうしたんですか、アルフレッド。随分と疲れていますね。今日は会議もないしあなたが疲れる理由に心当たりがないのですが」
星の光とよく似た銀髪が肩からこぼれる。今日は結っていないようだ。
アルフレッドは後ろ手に閉めた扉をさらに施錠して、ようやく息をついた。
ずるずると座り込んだのを見て慌てた従者が、水の入ったコップを片手に飛んでくる。
ありがたく受け取って飲み干し、アルフレッドはようやく先の質問に答えた。
「重臣のじいさんたちが、誰にするんだと朝から行列を作って……」
「逃げてきたと。まだ決めてないとかなんとか言って散らせばよかったじゃないですか」
「言ったが、信じてもらえなかったのだ……」
「あぁ、……最初に彼女と踊るからですよ。私だって理由を聞きたいくらいです」
自業自得だと言わんばかりに溜息をつき、彼は穏やかな笑顔のまま首を傾げた。
「それで、まさか何も言わずに逃げてきたのではないでしょうね?」
「え、何か言った方がよかったか!?」
「当たり前でしょう。適当にそれらしい理由くらいでっちあげないと、本当に彼女で決まってしまいますよ。答えないということはそこに深い理由があると思われても仕方がありません」
「適当な、て……」
「初恋のひとに似ていたとか、筆頭候補の三人に優劣つけ難くてたまたまそこにいた凡庸な娘を選んだとか」
「な、何となくは、……駄目か?」
情けない声の問い掛けに、すっと細められた紫苑の瞳が鋭くアルフレッドを射抜いた。
「――そう、言ったんですね?」
痛い。視線が、ものすごく、痛い。
だらだらと冷汗を垂らしながら、けれどごまかせるはずもなくアルフレッドは頷くしかなかった。
「……………はい…」
「……それじゃあいくらでも深読みができるでしょう。馬鹿ですか貴方は」
うっとアルフレッドは唸った。反論できない。
筆頭候補と目されていた三人より先に彼女の手を取ったことに理由を求められた時、最初に浮かんだのは戸惑いだった。
何故ならアルフレッドにもわからなかったからだ。
何故、彼女を懐かしいと思ったのか――。
本人ですら戸惑っているのに、王太子が無事気になるひとを見付けたと都合よく解釈したじじい……違った、重臣たちが喜々として彼を質問攻めにしたのだ。
洗いざらいぶちまけなかっただけ賢明と言えよう。
懐かしいなど口にしようものなら、明日にはどんな過去ができているかわかったものじゃない。
「じいさんたちは妙に『運命』とか好きだからな……」
再び溜息をついたシーグレイが、筆を置いてリヒトに休憩を宣言した。
リヒトも特に驚くことなく一礼して下がろうとしたが、シーグレイに止められて三人分のお茶の用意を始めた。
何でも他人にやらせたがる高官が多い中で、シーグレイは補佐官を付けたがらない変わり者だ。侍従も侍女も寄せ付けない。そういう意味ではリヒトは稀な存在だと言える。
故にシーグレイもリヒトも、大抵のことは自分でこなしてしまうのだった。
アルフレッドは用意された椅子に礼を言って腰掛け、難しい顔をした。
今回の妃選びには、いくつかの条件がある。
野心を持たぬ者であること、出自が確かな者であること……。
一般的なそれらの条件に加えてもう一つ。
アルフレッドはつきりと痛んだ胸を知らないフリをした。
彼が悪いのではないけれど、彼のせいで付け加えられたその条件。知っているのは片手の指に足る重臣のみ。
全ての原因は、アルフレッドにある。彼が、持つべき強さを持たずに生まれてきたから。持たぬべき弱さを持って生まれてきたから。
時折、叫び出したいような、何もかもぶち壊してしまいたいような気分に駆られることがあった。
どうして。どうして。――どうして。
ただそれだけを繰り返した。泣き喚いて、暴れて、それでも現実は変わらなくて。
父も母も、お前は悪くないよと言った。
『役立たず』
けれど誰が何と言おうとそれは紛れも無い事実であり、だからこそ彼は、そんなことはないと反論することも、関係ないと気にしないでいることもできなかった。
ふと自嘲気味に笑った、その時。
『お前のせいで―――……っ!』
瞠目して固まった。
知らない、聞いたことがないはずの声が鮮烈に蘇る。
(誰、だ……?)
お前のせいで、その続きは何と言ったのだろう。
ただ一つわかったのは、血の滲むような悲痛なその声が、こうも言ったことだった。
『――生まれてこなきゃよかったのに』
どくんと心臓が音を立てた。
何があった。そしてあれは誰だ。
記憶を辿っても、それ以上は何もわからない。
そこだけ切り抜かれたみたいに蘇ったそれは、消えることなく沈澱して居座った。
とうの昔に慣れたはずの傷が、時折思い出したように痛みを訴え、彼を苛むように。
その度に、そして今も、彼は思うのだ。
どうして。神様、どうして。
――私だったのですか。
「――殿下、どうぞ」
目の前に差し出されたコップの中で、氷がからんと、澄んだ音を立てた。同じくらい澄んだ黄金色の液体が静かに揺れている。
アルフレッドはそれに見覚えがあった。
「アコのジュースか」
「はい。よく冷えておりますよ」
ユーネリア人ならば外しようがないそれを言い当てただけなのに、リヒトは優しい笑みを浮かべた。それは微笑ましさが滲む、年長者の笑み。
アコは、ユーネリアにしか生息しない植物だ。南部の国々はもちろん、気候条件がよく似たツェインドやシルクーアでも、どうしても育たない不思議な植物。秋になると小さな金色の実をつける。分類としては柑橘類になる。
秋から冬にかけては普通に果物としての食べられ方をするが、ジャムやジュースなどにも加工され、一年中出回っている。
「おいしいな」
こくりと嚥下してそう呟く。
甘くて、それでいて喉に残るようなくどさがない、すっきりとした味。飲むのは初めてではないが、何度飲んでも「おいしい」と思う。
ちびちびと飲んでいると、てきぱきと机を片付けたシーグレイがすっと対面に座った。シーグレイは彼の前にコップを置いたリヒトにも座るように言い、リヒトは逡巡の末に空いた椅子に腰を下ろす。
「さて、ここまで来たからには教えていただけるんでしょうね? 何故彼女を最初に選んだんです?」
「だから、何となく……」
ぼそりと答えたが、もちろんそんな答えで満足してもらえるはずもなく。
「どうしてですか?」
穏やかな微笑みを前に、アルフレッドは洗いざらい白状する羽目になったのだった。
シーグレイの笑顔は笑顔じゃないからね、と言ったのはユリウスだっただろうか。
言い得て妙だ。一分の隙もない笑顔にも関わらず背筋が凍るような思いになるこれが、世間一般で言うところの笑顔であるはずがない。
自分でもよくわかっていないが故にたどたどしくなった説明を辛抱強く聞き終えて、シーグレイは三度溜息をついた。
「とりあえず貴方が何も考えていなかったのはよくわかりました」
「こら、まるで余が考えなしみたいな言い方をするな」
「違うんですか?」
「違う!」
「あの、シーグレイ様、そのくらいに……」
思わず、といった調子でリヒトが割って入った。
何だか今日はシーグレイが意地悪だと、アルフレッドは思う。
シーグレイはむすっとしたアルフレッドを一瞥し、珍しく疲れたような顔をした。
「どうして、……よりによって彼女なんですかね」
「よりによって?」
「彼女に迷惑をかけると煩いのがいるんですよ。どうしてくれるんですか」
「は? というか、知り合いなのか?」
「ええ、彼女のことなら生まれた頃から知っていますよ。悪いことは言いません。他の誰でも止めませんから、彼女だけはやめておきなさい」
「だから別にそういう意味だとは言ってないだろう!」
「なら是非とも彼に釈明しておいてください。私は嫌ですからね」
シーグレイは心底嫌そうな顔をする。
リヒトは当然だが、アルフレッドも訳がわからなかった。
一体誰の話をしているのか。
何より何故やめろと言われるのか。
(もしかしてシーグレイは彼女が好きなのか?)
それならば、どんな美女にも見向きもしない理由にもなる。
庶民の出と言われていても、その美貌と才能を買われてシーグレイのもとには無数の縁談が舞い込んでいるにも関わらず、彼は片っ端から断っているのだ。
だとしたら――――
「……くだらないこと考えてるんじゃありません」
「~~~~~っ!!」
突然したたかに頭を殴られ、アルフレッドは涙目になって飛び上がった。
考え込んでいたところへの容赦のない一撃は痛い。
シーグレイのコップにおかわりを注いでいたリヒトが、夕焼けに似た色合いの水差しを手に唖然とこちらを見ていたが、ややあってシーグレイに目をやり、そうして無言で自分のコップに手を伸ばした。
どうやら見なかったことにすることに決めたらしい。
「い……痛いではないか! 余はそなたの恋路を邪魔したかもしれないと本気でっ」
「誰の恋路ですって? 的外れな私の心配をするよりも先にやることがあるでしょう。何か用があったのではないですか」
ここまできてもいっそ呆れるくらい完璧に微笑んでいるシーグレイに、アルフレッドはむしろ身の危険を感じた。
何とか脱線した話を元に戻そうとする。
「――それで、何の話だったのだろう」
「……どうぞ部屋へお帰りなさい。そして私の貴重な時間を返しなさい、今すぐに」
「何を言う! 今のは言い間違えただけで、ちゃんと覚えているぞ。……多分」
最後に馬鹿正直に言い足したアルフレッドは、即座に後悔した。
笑顔のまま、シーグレイがゆらりと立ち上がる。
アルフレッドの全身に真っ白な視線が突き刺さり、彼は身を震わせる。
何だか体感温度が十度くらい下がった気がした。
立ち上がったシーグレイが何をするのかと思えば、優雅とさえ言える足取りで扉の方へ歩いていく。
やばい、とアルフレッドは思った。
(本気で追い出される……!)
助けを求めてリヒトを見るが、何かを諦めたような目をした彼は我関せずといった風情でどこか遠くを見ていた。
アルフレッドに味方はいなかった。
「さぁお帰りください。私は貴方と違って暇じゃないんですよ」
「いやちょっと待てシーグレイ話し合おうではないか!?」
王太子の叫びを黙殺して、宰相は取っ手に手を伸ばす。
けれど指先が触れる、その一瞬前に、扉がどんどんと音を立てた。
「シーグレイ開けて! お願い!」
ばれたかと、咄嗟に身をすくませたアルフレッドは、よく知ったその声に緊張を解く。
一瞬躊躇ったシーグレイも切迫した響きに鍵を開けてやり、それとほとんど同時に飛び込んできた小柄な人影は焦ったように鍵を閉め直した。
乱れきった呼吸を整えつつ顔を上げた少年の髪が鈍く煌めく。くすんだ金。
少年はその空色の瞳でアルフレッドをとらえると、バネ仕掛けの人形のようにすっ飛んでいき、あろうことかその襟首を掴み上げた。
「こんなところで何してるのかな兄さん!? なんかさっきから国のお偉いさんたちがこぞって僕のトコくるんだけどこれ兄さんのせいだよね!?」
息継ぎ無しに見事な滑舌で言ってのけた少年だったが、アルフレッドに彼に感心している余裕はなかった。
本気でぎりぎりと締め上げられているからだ。
尋常じゃない怒りの気配がびしばし漂ってきて、アルフレッドは顔を引き攣らせる。
「お、落ち着け……」
「兄さんこそちょっとは焦ったらどうかな? どうして僕が必死に逃げ回ってる間に呑気にジュースなんか飲んでるのか説明してくれる?」
「いや、これはリヒトが」
「他人のせいにしない! リヒトさんに失礼でしょ!」
「わかった! わかった余が悪かったから、手を外してくれ! ぐ、苦しぃ……」
「苦しいじゃないよ、まったく……。皆もうおじいちゃんだっていうのに、子供みたいにきらきらした目で詰め寄ってくるんだから、参っちゃうよ。事情もわからずに適当に全部捌いて撒いてきた僕の身にもなってよね」
「悪っ………は…せ…」
本格的にヤバくなってきて、アルフレッドはばんばんと机を叩く。
慌てたように立ち上がるリヒトの姿が視界の端に映った。
故にアルフレッドは少しだけ、気を抜いたのだった。
自分と少年とリヒト、この部屋にはそれ以外にもう一人いたことを、すっかり忘れて。




