05
-足元は泥濘に消えゆく-
そして、俺と芳井の日常は穏やかに過ぎてゆく。
ふと目が覚めると、辺りは既に薄暗くなっていた。
今日は珍しく早くに帰宅できたので、久しぶりに芳井の好物をと大量の食材を買い込み、下ごしらえまでを済ませて休んだソファーで、本当に眠ってしまったようだ。
今が何時か、と思い体を起こすと、足元に固いような柔らかいようなものが当たる。そして、
「…いてぇ」
不機嫌ここに極まると言わんばかりの形相の、芳井が身を起こした。
「お、おかえり」
どうやら寝ている間に言いそびれてしまった挨拶を口にすると、彼は聞きとりづらい低い声ながらも返答をくれた。そのことにほっとする間もなく、俺は芳井にソファーから蹴落とされた。…さすが芳井、1回は1回、だった。
「つか、こんなとこで何寝てたんだよ」
その、声音と表情のアンバランスさに思わず頬が緩む。
目ざとくそれを見とった芳井の眼光を受け、俺は慌てて理由を話したが、けれど全て言い終える前に俺は腕をつかまれて自室へと連行された。
「芳井…?」
「いいから寝ろ。とろいお前のことだから気づいてないだろうが、ひでぇ顔色してるぞ」
そう言って隣へもぐりこんできた芳井に慌てるも、再度腕をつかめれ、強制的におとなしくさせられた状態ではそれも長くは続かなかった。けれどもし抑え込まれなくても、俺はきっと慌てていたと思う。
滅多にはっきりとしたことを口にしない芳井が、俺のことを気遣ってくれたのだから、そうでなければここにいるのは俺じゃない誰かだとすら言える。
嬉しさと、多少の気恥かしさに焼かれた頬を枕で隠し、添い寝する芳井の体温がさそう心地よい眠りへと舞い戻っていった。
時々、思う事がある。
この関係は正しくはない。傷の舐めあいにすぎないのだと。
しかし俺たちの関係は、正しいことの方が間違いなのだと、そう感じる。
誰かにとって正しいことが俺達を切り刻んだように、誰かを不快にさせることが俺たちには無二の道なのだ。
柔らかく芳しい香りに誘われてベッドを後にする。リビングから続くキッチンには、見慣れた後姿があった。
その背におはよう、と、何をしているのか、と尋ねると、芳井は人の悪い顔を俺へ向けた。
「ちょうどいい所に起きてきたな」
そして何を思う間もなく、俺は昨日のように、しかし昨日とは明らかに違う理由と目的で腕をひかれた。
「1回は1回、だろ?」
上機嫌の芳井。本来なら喜ばしいそれが俺にはどうしても憎く見えてしまうのは、今の俺にはしようのないことだと思う。
さんざん引っ張られ、振り回された末に告げられたのは、不可抗力とは言え、芳井から与えられた俺への理不尽な罰だった。いわく、
「期待させた責任はとれ」
…と。
つまりは昨日の夕食の支度だけして寝てしまったことへの腹いせだろう。目覚めを促してきた、今朝の芳香の正体は芳井がしたくした、俺の好物のそれだった。
さんざんな目に遭い、半ば筋肉痛になりかけの体を酷使して俺は作業台の前に立っている。
それに文句だけはこぼさないでいられるのは、隣に芳井がいて、共に仕上げ作業にいそしんでいるからだ。
捻くれ者で、けれどとても素直な。そんな芳井と歩むのは、針の隠れた帳よりも光さす朝がいい。
そんな穏やかな日常を、俺と芳井は噛みしめている。
2009/03/20