03
-あなたが見えない-
目が覚めるとまだ空は明けてもおらず、見上げた天井は黒に覆われていた。
何故こんな時間に目が覚めてしまったのだろう。その答えは、壁のすぐ向こうからかすかに聞こえた。隣は芳井の居室だ。布団をはねのけた俺は、下階の住人の迷惑も顧みない足音を立てて芳井のもとへ走った。
わざと騒音をたてて扉を開いたのは、あわよくば芳井がこれで目覚めてくれないかという思いと、早く芳井の顔を見たいという思いの両方からだ。けれど願いは半分しか叶わず、もう片方も、想像した通りではあるがこんな苦しそうな様が望みではなかった。
枕元に灯りを点し、人工の光のもとで見た芳井の額には脂汗がにじんでいる。それを見て、芳井がうなされ始めてどれほどの時間が経っていたのかを朧気に知る。
きっと、芳井はあの夢を見ているのだろう。夢であって、夢ではない。しかし現実でもない、残酷な記憶。どれだけ時間が経っても、こうして芳井を苦しめる記憶に太刀打ちするすべを持たない自分が、いつもどれほど口惜しいことか。そんな俺と、芳井を苦しめ続ける記憶を心底憎く感じる。
けれど今優先すべきは、なによりも芳井をそこから救いあげることだ。
呼びかけ、頬を張って、肩をゆすってようやく開かせた芳井は、しかし俺の元には戻ってこなかった。
意味のない言葉をなおも吐き続け、開いた虚ろを映す瞳から絶え間なく涙を流して痛々しく震える。
涙は時に血から精製されるというが、芳井のはまさにそれだ。比喩ではなく、幼い芳井が流したそれが流れているのだ。
泣き暴れる芳井を、あの時できなかった代わりにしっかりと抱きしめて背を諭す。
ゆっくりゆっくり、帰って来いと願いを込めてさする。そして早く過去から戻って来いと…俺の所へ戻ってきてほしいと縋る。
駆け付けた時、人形のようになってしまっていた芳井がいた所は、現実ではありえなかった。夢なんて、生易しい言葉で終わらせてしまうにも、あれはあまりに強烈だった。
それから失ってしまった、以前の芳井はもうどこにも存在しないが、俺が求めているのは、今、この瞬間をイキル芳井だよ。
だから早く戻って来い芳井。
お前が視線を向けていいのは、過去ではなく、この俺なんだ。
2009/03/18