01
-それは誰に触れた唇ですか-
「だからさ、何でそんなことですねられなきゃいけないのか手聞いてるんだよ」
背後で聞えよがしな溜息とともに、心底うんざりした声が聞こえる。
けれどそれに言葉を返すことも、態度で何かを示すこともせずにいると、うんざりした様子にさらにイライラとした様子が混ざる。それでも、俺は何の反応も返さない。
「じゃあ、お前は何か。俺にケイと遊ぶなってのか?視線も合わさないで、手も触れないで、二度と会うなってのかよ」
ふざけんな、と吐き捨てられた声音に、俺は初めて肩を震わせた。
そんなことを言いたいんじゃない。会うな、なんて、触るな、なんて同じ家に住んでいるのだから無理だってことは分かっている。
俺が今抱いている気持ちも、どれほど馬鹿らしいか知っている。でも…
でも、不安で仕方がないんだ。
たったそれだけの理由で、俺は、こんなにもお前を怒らせてしまっている。
肩の震えを抑え込むように、小さく抱いた膝を、さらに強く抱きしめると、うつむいた視界に見慣れた手が映り込んで、俺の握りこんだそれに重なった。
何を思う間もなく、顎を強くつかまれ、グッと後ろへ向けようとされる。咄嗟に抵抗したのは奇跡に近かった。今、俺の顔なんてあいつに見られたくなんてなかった。だから精いっぱい抵抗し、頬に食い込む指をのけようとしたが、それはいつの間にか両手まとめて戒められた俺には不可能だった。
努力の甲斐なく、奴の思うままにされても、せめてあいつの顔だけは見るまいと視界を閉ざす。
うんざりしているだろうあいつの顔に、さらにわずらわしさが混ざるのをみたくなかった。あいつに軽蔑されるのが怖かった。そして、嫌われて、興味の一片すら向けられなくなる瞬間が、何より恐ろしかった。
「…ひでえ顔。そんなに厭なのかよ、ケイのこと」
分かっているんだ。この不安の正体なんて。
「何か言えよ」
これは嫉妬。自分に自信のない俺が、俺以外のすべてに向ける、醜い劣等感だ。
「筧…………」
ふと訪れた長いような短いような沈黙の後、促されてあいつ…芳井の顔を見る。
その端正な顔に浮かぶのは、困ったような、怒ったようななんとも形容しがたい表情だった。
「俺がお前以外受け付けないって知ってるだろ。それでも駄目なのか」
優しくて、少し情けなくも聞こえる声。
わかってる。わかってるんだ。
芳井が俺を嫌う事なんてないこと。たとえそうなっても、率直なこいつが鬱憤をため込んでまで俺といることはないってこと。
こいつの行動すべてが、答えだってこと。
卑屈に過ぎる俺を芳井が嫌わないのは、恋愛感情よりむしろ親の愛情に近い。それだけの歴史を、俺たちは刻んできた。
それでも…
「いいよ。お前が望むなら、他のものなんていくらでも捨ててやる」
他を魅了してやまないその光が、少しでもこの手からこぼれてしまうのが、俺は何より恐ろしい。
こんな関係は間違っているのかもしれない。
けれどこの関係を否定する権利は、俺たち以外、誰も持ちえないのだ。
2009/03/16