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愛しき非日常は恋心故に

作者: 幸野音子

「I can fly――!」


 何かの映画で見たようなデジャヴを覚え、あまりに現実味のない光景を僕は間近で目にすることになった。

 彼女は――僕の幼馴染である猪瀬東大は、普段と変わらぬ皮肉げな笑みを口許に浮かべたまま、学校の屋上から飛び降りた。





 事の発端は、特にない。本当にない。ミジンコ並みすらない。数少ない脳細胞を最大限活性化させて無理矢理答えを弾き出したとしても、東大の考えを僕が知る由もないといういつものお決まりパターンが一番納得のいく答えになる。……ちょっぴり切ない。

「生きてるなんてとんだ悪運だな」

「下にある木で衝動を和らげそのまま花壇に突っ込んだ現在入院中のお前のそんな平然としている姿を見ていると思いっきり殴り倒してやりたくなるよ」

「ハハハ、ツナは面白い冗談を言うなぁ。お前に私を殴れるはずがないじゃないか」

 一応私は女子だからな。

 そう言ってにやりと唇を曲げる幼馴染はびた一文の疑いもない確信を抱いて断言した。入院患者らしく病室のベッドに大人しくしているというのに、あまりに堂々とした態度はどこの王様だと罵りたくなってくる。けれどそれがこの幼馴染の常なのだと思えば、まあいいか、とどこか安堵した気持ちになる。こうして結局許してしまうからこの女がつけあがるのだとわかっていても、十八年という年月を共にしてきたために色んな局面に対する耐性がつきすぎているのだ、しょうがないじゃないか。この年で諦念を知るのもなんだか悲しい。

「それよりだな、ツナ。私としてはとてつもない一大決心を見せ付けてみたのだがどう思った?」

「一大決心?」

 きょとんとする。どうせいつもの奇行だろう……そう決めつけていたというのに今回は違うという。確かに目に余りまくる散々な結果をこうして目の当たりにしているわけだが。

 東大とは母親同士が親友でありお隣同士、ということがあって幼馴染でありながら親友であり、また兄妹のように血縁やら性別やらと色々すっ飛ばした関係を築いてきたので、大抵の思考回路……というよりも行動を先読みするぐらいは出来るけど、時折想定の範疇を超えてあまりの奇想天外に走るので把握しきれていないのが現実なのだ。

 だからわかるはずがないだろう。

 そう思ったのだが、こちらを見つめる黒い目がいつもの揶揄を含んでいないのに気付いてしまうと口を噤むしかなかった。簡単に返していいものではないのだと。

 暫くして周辺のベッドに寝転ぶ入院患者達のざわめきが今になって耳に馴染んでくる。元は真っ白だった壁が黄ばんで長い年月を思わせ、僅かに開かれた窓からは冬の気配を漂わせる冷気が流れ込んでくる。……ああ、ここは病院なのだと今頃になって実感する。

「……お前、生きてるんだな」

 屋上から落ちた後、救急車に運ばれていく姿を屋上から見下ろすことしか出来なくて。先生方や警察に事情聴取を受けた後、僕達の両親と顔を合わせて病院へ直行した。

 東大の両親は僕を叱らなかった。僕自身原因は思い当たらなくても、手の届く範囲にいてもしかしたら止められたかもしれない人物に対して少しでも思うことはあるはずなのに逆に気遣ってくれた。

 東大は左腕左足複雑骨折、ついでに頭を打ち付けたということで脳の検査を行うということだった。屋上から落ちてこれで済んだのだから儲けものである。東大もあらかたの事情聴取を終えたということで、後は退院を待つだけだ。

「なんだ幽霊に見えるのか?」

「見えない。見えないよ。こんな奇天烈な幽霊がいたらそれこそ嫌だ」

「ツナ、それが本音だとわかるからこそものすごく失礼だぞ」

 拗ねているのだと唇を尖らせられても可愛いどころか女の子っぽい仕草が逆に怖い。それに元より外見から性別を感じさせない中性的な上女の子特有の甘さが感じられないから男がくねっているとしか思えない。これこそ口にしたら殺されるな。東京湾に沈められる。

 こうしていつもと変わらない会話を交わして、こうして普段なら縁がないはずの病院にいる。実感が湧く、とはこのことだ。

 ――コイツは、この女は、一歩間違えたら死んでいたのだと。

 もう少し場所がずれていただけで木に引っかかることなくその身体に掛かるダメージは倍増になっていた。そもそも花壇がなかったらどうなっていた。打ち所が悪ければどうなっていた。どうなっていたのだ。度重なる偶然がなければなかっただろう奇跡という名の結果が東大のこの姿。

 そうなのだ。彼女はスーパーマンでもなんでもない、ただの人間なのに。

 思い知らされて、東大は死にかけたのだという現実に直面する。心臓がどくんと波立つ。

「……ツナ、泣くな」

 東大の右手が伸ばされて、けれど届かない距離に焦れったげに顰まる顔がぼやけて見える。視界が、世界が歪められる。けれど実際僕の世界は壊されていない。目の前にいる東大は、生きている。

「一大決心とか。よく、わかんないけどさ」

 この女の行動なんて、僕には一生理解しきれないかもしれない。それでも、

「僕に、本当の心配なんてさせるな……っ」

 現実逃避させるような。後悔を覚えさせるような。傷を残すような。苦しくて苦しくてたまらなくてだから足掻いてみせるも結局意味のないと思わせるような過去を植えつけるような行為をするな。

 東大は僕の泣く様をいつになく困った風に見返していた。


「賭け、だったんだ」

 散々泣いた後(周囲を気にして声は必死で押し殺したけれど)ぐじぐじと鼻をすする僕に向かって、ぽつりと零された声音は、らしくなく無機質だった。どういうこと、と視線で訴えると、意図を汲んだ東大はくすりと笑う。

「もうすぐ私達は卒業だろう。高校三年生だ。それがどういうことかわかるか?」

「な、にが」

「互いに進学することは決めている。だけどな、私は東大という名前のわりに頭が良くないんだ」

 東大の両親は二人の出会いが東京大学だったために、単純明快に娘の名前につけたのだと話に聞いてはいたし、それはどうかと思う、という感想を抱かざるをえなかったが、それが一体全体どうしたというのだろう。

 彼女の言いたいことがわからなくて首を傾けると、はああーと長い溜息をつかれてあからさまな呆れた目をいただいた。失敬だな!

「お前はぼんやりしているようで頭だけはいいからな。進路が違うのも仕方ない。同じ学校に行きたいとかそんな我儘なことを言いたいわけでもないんだ。それにそれだったら私が頑張ればよかっただけのことだしな。ただな、思うことが生じた」

「何」

「今のままだと、私とツナの絆はいつか切れる」

 絶句した。はっきりと、疑問の余地もなく東大は言いきった。

「生半可な時間を過ごしてきたつもりはないし、幼馴染という形はそれなりに保つかもしれないが、私は女で、お前は男だ。性別だけで周囲の目は、心は翻弄される。例えるならもし私が結婚したら相手の男はツナを私に近付かせることを良しとしないだろうし、逆も然りだ。そうでなくても、ほら、高校生も中学でも私とツナの仲を邪推した者が多かっただろう? 今はまだガキだからいいけれど、今後はどうなるかわからない」

「け、けど僕は東大との関係を切るつもりはないよ」

「ああ、私もだ。だからこそ考えたんだ。考えて考えて考えた末に」

 東大はふ、と朗らかに笑った。

「なんかもう面倒くさくなって」

「――は?」

 今、なんて言った?

「先のことなんてわからない、だからこのままでいいじゃないかって意味じゃないぞ。思いついたことがあってそれを実行するに辺り自分に賭けをしてみたんだ。その結果がこれだ」

「いやいやちょっと待って。意味がわからない」

 どうして真面目な話が飛び降り自殺未遂に繋がるというのか。賭けをしたといってもこれはあまりにも突飛すぎるのではないだろうか。しかしそれをやってみせるのが猪瀬東大だといえばらしいかもしれず、だけど僕の理性がそれだけは認めてはならないと必死で拒否を示している。

「意味がわからないだと? 本当にツナは鈍感だな」

「なんでいきなり鈍感扱いされないといけないのっ」

「だからな、ツナ。私は賭けをしたんだよ。それでこのとおり無事生還した。つまり私の勝利ということになる」

「そもそものなんの勝利だよ……」

 なんだか一気に疲労を覚えて、額に手をあてて唸ってみせる。ぐったり、というのが的確な表現なのだろう。やはり僕には東大の考えは一生読めない。というか読む気にもなれない。もし読んでみせたとしても無意識に帰するとわかっているからだ。

 だからもういい、と話を切り上げようとしたときだった。

「私の恋心だ」

 一瞬にして場が凍った。

 こい、ごこ、ろ……?

 なんだろう、今不意打ち気味で怪獣に出くわしたというべきか難解に出くわした心境というべきか。とりあえず学校の連中が聞いたら阿鼻叫喚のような単語を耳にしたような錯覚を覚える。耳の故障でもしたのかな、あとで医者に見てもらったほうがいいような気がする。幸いここは病院だ。

「私のどきどきどっきゅんらぶな恋が生に導いたんだな」

「うああああもう言うなっ言うんじゃない! 目の暴力ならぬ耳の暴力だ!」

 なんだドキドキドッキュンラブとは。わざとらしく胸に手をあてられて怖すぎる。あまりの衝動に椅子から立ち上がる僕を見上げる東大の目は怪しげに細まっていた。

 ゾクリとする。

 まるで肉食獣に捕らえられた小動物な気分だ。ギラギラした鋭い眼差しは、多分な熱を含み僕だけを映している……。

「私は周囲からも何からもお前との関係を邪魔されない一番簡単な方法を思いついたんだよ」

「は、はあ」

「つまり、私とツナが恋人同士になればいい」

 唖然とした。

『恋人』

 とてもつもなく甘美な響きがこれほどまでに心身的ダメージを食らわす日がこようとは思ってもみなかったのだ。硬直する僕を可笑しげに……愛おしげに見つめるこの生き物は、なんだ。こんな生き物、僕は知らない。

「選択の余地が賭けだった。ツナは私を女だけど女として見てないことは知っていたからな。この飛び降りでツナの反応を窺うために生命を天秤にかけたんだ。まあ飛び降りる位置やら生き残るための色々な計算は入っていたがな。こんぐらいしないとツナは動かないし。私が欲しかった反応はどれだけ私を思っているか知るための量りだ。……愚かなことをした自覚はあるし、お前には怒る権利ぐらいはある。だけど私はこれで確信を得たしお前を離す気はなくなった」

 何を、言っているのだろう。頭がぐらぐらする。

 東大が今身動きがとれなくてよかったと思う。そうじゃないと彼女は目線だけでなく実質僕を捕らえていたはずだから。

「私はツナが好きだよ。可愛がりまくりたい。愛でたい。溺愛といってもいい」

「……いや、それ男の僕が言うべきだよね」

「なんだ、ツナは私を溺愛したいのか」

 謹んで遠慮させていただきたい。

「まあ、そういうことだからよろしく頼む」

「僕、頷いてないんだけど」

「なんだ、言いたいことがあるなら言え。ちなみに断りはなしだぞ。それになんだかんだ言ってツナは私から離れる気はないんだろう?」

 僕は肩の力がどっと抜けるような脱力感を味わった。確信的でなく計算なしで僕の行動を告げる東大は凶悪にタチが悪い。否応なく突きつけてくる信頼をここで裏切るなんて出来るわけがないじゃないか。本当に……タチが悪い。

 僕は項垂れて、小さく息をつく。そして本当にささやかな小さな声で、一瞬の躊躇の後「よろしく」と呟いた。


 東大の賭けを僕は承諾した。

 それはこの非日常を愛しいと思う心故に――。


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[一言] スゲえな、東大、さん?。
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