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牛舎として見た人類文明

作者: 鈴木美脳
掲載日:2026/10/30

牛の子に生まれたならば、牛舎に体当たりをして鞭打たれるごく一部の牛を、馬鹿が行う悪徳として、大多数の牛達が嘲笑うのを見るだろう。奴隷的貢献を能動的に行わせるためには、正義と卓越性に関する認知を事実から解離させ、権威を逆転させて嘲笑を操作することで家畜にするのだ。そのため、事実を認識できる個体がすでに絶無である事実をもって、人類文明は完全に家畜化されたと示される。


マタイによる福音書6章24節、ルカによる福音書16章13節、トマスによる福音書語録47において、イエスが自ら、「二人の主人に仕えることはできない。...あなた達は神と富とに兼ね仕えることはできない。」(No man can serve two masters: ...Ye cannot serve God and mammon.)などと説いたと伝えられている。ここで言われた事実は、人間達が家畜化に抗うために最も重要な鍵だ。その鍵を握りしめていることができれば死してなお生きながらえる一方で、失えば生きたまま殺される。


ここにおいて神(God)と富(mammon)とは、宗教的な超越性を排して言うなら全体最適性と局所最適性のことであり、個体の実生活に即して言うなら利他心と利己心のことである。個体や集団が単に利己的に振る舞うことが、他者や社会の利益や幸福を害しやすいということは、そもそもは自明であった。したがって、利己性の自己制御と利己性からの逸脱こそが良心や正義にほかならないことは、世界中の文明で理論的に整理され、教育されて共有されていた。それは、支配と搾取に団結して抗う性質があるため、システムにとって不都合だった。


アダム・スミス(Adam Smith、1723-1790)が論じた「神の見えざる手」、つまり局所最適性の追求が自動的に全体最適性をもたらすという議論は、システムによって著しく拡大解釈されて広がった。人々全体の幸福に対する自由経済市場の有効性は、利己的な経済的動機によって誇張された。個人の自由な権利に対して共同体が行う制約こそが悪徳の典型であると宣伝された。人類史は「個人の人権」を中核とした「自由と民主主義」への絶えざる発展だと見なす近代西洋啓蒙主義思想が完成して前提化され、無謬の前提とされるそれを批判する言論は強権的に駆逐された。


人類文明の基礎構造は、暴力による化石燃料の争奪戦だ。人類文明において深化してきたことは強権的な支配と搾取だが、搾取することや搾取されることについて、強権性を隠蔽し公益性を詐称することが、システムが支配と搾取を効率化するために有効だった。そのため主流経済学は「対等な主体による同意に基づく契約」を単位とする「公益に適った自由市場」という欺瞞的な神学を形成した。その正当化は、「ワシントン・コンセンサス」あるいは「ルールに基づく国際秩序」などとして現実世界でも運用された。主流経済学の本質的な機能は、強姦を売春だと言い換えることで、牛達に自由かつ効率的に強姦を行わせることだ。


グローバル資本は名誉革命(1688)とイングランド銀行設立(1694)によって、負債の利子を必ず返させる徴税機関として近代国民国家を完成させ、近代を通して世界を支配する中央銀行システムの画期となった。これによって人々は、国家主権の主体性を錯覚し、グローバル資本の搾取性ではなく自国の為政者の政策を非難するように誘導された。超国家的な権力と超国家的な暴力が胴元として存在する賭場において、人々の認知は、法律を前提とする政策や市場を前提とする経済構造に関する戦略、ゲームのルールのなかの議論へと制約された。


アカデミアにおいては、マルクス主義が有用な愚者(useful idiots)としてシステムに選好された。「個人の人権」を中核とした「自由と民主主義」への絶えざる発展によって社会問題を解決しようと訴えるポリティカル・コレクトネスは、実際にはあらゆる共同体を悪魔化して分解することで支配と搾取に貢献した。主流メディアに描かれる悪と正義の戦いは、システムという胴元のための劇場であり、家畜達のためのものであった。


したがって、正義には2種類ある。偽りの正義と真の正義とだ。現代の学校教育や主流メディアやインターネットは、偽りの正義を真の正義であるかのように教える。犯罪や暴力や憎悪や不幸は、追求すべきではないネガティブな価値だと印象づける。合法性や非暴力性は、行為が正義であるために前提でなければならないと説き、言論によって考えを訴え人々に共感を得ることで民主主義制度を通じて政策を実現すべきだと説く。しかし、民主主義制度は実際には金権政治などによって形骸化しているし、思想が世論になるなら知的水準が平均化されるために事実性は失われる。


大衆もまた、富裕と安寧、本質的には生存と繁殖を、才能と努力によるポジティブな因子であると狂信し、反作用として、不遇に滅びいく人々が自業自得だという世界観を完全に内面化させられている。個人的な生存欲求や繁殖欲求からの逸脱こそが社会正義の属性であり、それに伴う恐怖の自己制御こそが英雄的良心だという現実が認識できなくなっている。恐怖に抗う勇気を忘れたどころか、勇気ある人々を嘲笑して満足する。そのため、「対テロ戦争」(2001-2021)に代表されるように暴力的な搾取と闘争は周縁において常に現実だが、人類という家畜にはもはや世界的な連帯が立ち上がらない。


牛舎に体当たりをして鞭打たれるごく一部の牛を、馬鹿が行う悪徳として、大多数の牛達が嘲笑っている。苦しみこそが人間をしばしば利己性以上の存在にし、不正義への憎悪こそがしばしば真の正義を生み出し、真の正義こそは真の邪悪によって暴力や犯罪として悪魔化されやすい現実を、忘れさせることによって認知を家畜化するのだ。したがって、「二人の主人に仕えることはできない」という事実が鍵であり、それを握りしめた手のひらから奪われるときが、支配の完成と希望の消滅だ。利己的な幸福が恥辱ではなく権威であると錯覚させることによってこそ、システムは個体を隷属させるからである。


全体最適性の追求と局所最適性の追求が自動的に調和しないことはそもそも自明だ。一方で、イエスでさえ体制批判者であり、事実の告発者であって、当時すでに殺処分された。人間の社会というものは、古代から非事実的なナラティブのゆがみによって効率化されて成立しているのである。人間という動物の認知能力は、生存と繁殖を追求する利益の保身を正当化させる誘惑に、非常に弱い。またその方向へと、淘汰と品種改良は進みつづけてきた。


したがって、人類全体の幸福の防衛という意味では、文明はその当初から崩壊過程にあった。表層的な虚偽のナラティブとは異なり、先天的に知的能力の高い個体ほど不幸になり、人類幸福に貢献するより善良な個体から順に殺されてきたのが人類史の実相だ。しかしそれはすでに最終局面であるため、「二人の主人に仕えることはできない」という普遍的な事実を確かに認知できる個体はすでに失われた。その認知には、生存圏も連帯の機会もすでに存在しない。


人類が築き上げた都市を見れば、人々が偉大なことを成し遂げたように見えるかもしれない。牛や豚や鶏といった家畜に比べれば、人間達はずっと尊厳のある生活を営んでいるように見えるかもしれない。しかし、論証はその逆方向を示している。このように論証は、人類文明もまた牛舎としての運命を免れるものではないと示した。

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