婚約破棄の書状の紐まで見抜く宮廷糸番は、3年ぶりに名前を呼ばれました
廊下の向こうから、マレーン伯爵夫人が歩いてきた。純白のドレスの裾に、金の刺繍が光っている。
リセッタ・フェルデンは一目で分かった。あの金糸は、先月リセッタが品質を上げた特注品だ。撚りの角度を0.5度変えて、光の反射率を改善した。1巻きで侍女の月給3か月分。
「まあ、素敵なお召し物ですわね」
「仕立て師に感謝しなくちゃ。今年一番の出来ですもの」
仕立て師に、感謝。
リセッタの前を、2人は通り過ぎた。リセッタが立っていることに気づかなかった——というより、最初からいないのと同じだった。
「あら、余った子じゃない。まだいたの」
後ろの侍女が、別の侍女に向けて言った。リセッタを透過して。
3年間、毎日こうだった。
余った子。——まあ、否定はできない。この宮廷で最も消費されない資源があるとすれば、それは糸番の名前だ。
宮廷糸番。それがリセッタの職名だった。王宮で使われるすべてを管理する。刺繍用、縫製用、装飾用——この宮廷の衣装を支えるすべてが、リセッタの紡ぎ部屋を通る。
通るだけだ。誰も立ち止まらない。仕上がりは褒められる。選んだ手は、見えない。
紡ぎ部屋に戻ると、来客がいた。
エーリッヒ・ハイデ侯爵子息。3年前に婚約者を雪の中で門前払いにした人間だ。
「よう、リセッタ。ちょっと頼みがあるんだけどさ」
軽い。3年前に15歳の少女の人生を閉め出した声とは思えないほど、軽い。
「婚約破棄の書状、正式に交わしてくれない? 父上がうるさくてさ。面倒だけど」
面倒。雪の中で門の前に立ち尽くした夜は、この男にとって「面倒な書類仕事」だった。
リセッタは書状を受け取り、広げた。
内容より先に、書状を縛っている紐に目が行った。
「……侯爵様。この紐ですが。3番手の麻ですね。正式文書を縛る紐は、規定では2番手以上の単撚りです」
「はぁ? 紐なんてどれも同じだろ」
「同じではありません。それに、この撚りの乱れ方——正規の納品業者の品ではありません。非公認業者の安物です。正式文書に非公認業者の資材を使用した場合、偽造文書と判断される可能性があります」
エーリッヒの顔が引きつった。
「——婚約破棄の書状を偽造して、俺に何の得があるんだよ!」
「さあ。ですが書記局はそう判断します」
リセッタは紐の次に紙を確かめた。
「それからこの紙ですが、王宮御用達の圧縮羊皮紙ではありませんね。町の文具店の量産品です。紙の目が粗くて——」
「紐の次は紙かよ!」
「あと封蝋の蜜蝋比率が規格を——」
「もういい! 署名だけくれ!」
リセッタは署名した。一度も手が震えなかった。
「以上です。紐と紙と封蝋はお取り替えください」
エーリッヒは舌打ちをして出ていった。
◇
翌朝。紡ぎ部屋にまた来客があった。
ヴェルナー・クラウゼ公爵。28歳。軍事顧問官。宮廷で最も寡黙で、最も衣装にうるさい男として知られている。仕立て師が3人泣いたという噂がある。
「糸番を探している」
低い声。扉を開けるなり、それだけ言った。
「私ですが」
「名は」
3年間で初めてだった。名前を訊かれたのは。
「リセッタ・フェルデンです」
ヴェルナーは頷いた。それだけだった。
「軍服の縫製に問題がある。全て入れ替えたい」
「どのような問題でしょうか」
ヴェルナーが軍服の袖を差し出した。
リセッタの手が動いた。止められない。袖口を指先でなぞる。縫い目を確認する。撚りの方向。光沢。
「——右肩に3番手の絹が混在しています。2番手で統一すべきです。釦穴の補強も左右で太さが違う。あと——」
ここから先は、袖をめくらないと確認できない。
「失礼します。裏地を確認しますので——」
無言で袖を捲り始めた。ヴェルナーの腕が露わになる。筋張った、軍人の腕だった。
「……何をしている」
「裏地の染色ムラの確認です。——あ」
リセッタは手を止めた。
「すみません。お召しになったまま袖を捲るのは無礼でした。可能であれば上着を脱いでいただけますか。裏地全体を確認したいので」
沈黙。ヴェルナーの耳の先だけが赤かった。
「……ここでか」
「紡ぎ部屋ですので、照明が適切です」
「…………」
「公爵様?」
「分かった」
ヴェルナーは上着を脱いだ。リセッタは受け取り、裏返し、指先で読み取った。密度。均一性。撚り。1分ほどで検分が終わった。
顔を上げると、ヴェルナーが窓のほうを向いていた。耳が赤い。耳だけが。
「——全部分かるのか」
「これが私の仕事ですので」
◇
ヴェルナーは、それから毎日来た。
「これは何だ」
「3番手の亜麻です。主に下着用で——」
「これは」
「1番手の絹撚り。礼装用です。1巻きで侍女の月給3か月分ですので、在庫を間違えると私の首が飛びます。まだ飛んでいませんけれど」
ヴェルナーの口の端が動いた。
10日目。ヴェルナーが外套を持ち込んだ。リセッタが裏地に指を滑らせた瞬間、眉が寄った。
「——この染色ロット。去年の夏に王族専用として私が特注した批です。紡ぎ部屋から王族の仕立て室にしか納品していません。なぜ公爵様の外套に」
「仕立て師が選んだ」
「この批は非売品です。仕立て師が選べるものではありません」
ヴェルナーは黙っていた。
「公爵様。仕立て師に何か特別なご指示を?」
「品質の良いものを使え、とだけ」
「……それだけですか」
「それだけだ」
嘘か本当か、判断がつかなかった。
ただ、耳だけが赤かった。
◇
15日目。ヴェルナーが裂けた外套を持ち込んだ。
「これを直せるか」
「拝見します」
肩の縫い目が裂けていた。リセッタは針と絹を取り出し、繕い始めた。
ヴェルナーは向かいの椅子に座って、リセッタの手を見ていた。針を持つ右手。布を押さえる左手。指先が縫い目を辿るたびに、わずかに動く。
「……公爵様」
「何だ」
「じっと見られると、手元が狂います」
「すまない」
ヴェルナーは目を逸らした。3秒後に、また見ていた。
リセッタは縫い目に集中した。ここの縫合は上糸と下糸の張力を揃えなければならない。0.1ミリの狂いが全体の耐久性に——
「止まっている」
ヴェルナーの声だった。
「え?」
「手が止まっている。——止まるとどうなる」
「……ほつれが広がります」
「そうか」
ヴェルナーは静かに言った。
「止まるな」
短い言葉だった。仕事の指示だった。手を止めるな、という意味だった。——それだけの、はずだった。
けれどリセッタの心臓が一つ跳ねた。「止まるな」が「ここにいろ」に聞こえたのは、きっと気のせいだ。きっと。
リセッタは針を動かし続けた。指先が少しだけ震えていたけれど、縫い目はまっすぐだった。
◇
雨の日だった。豪雨で、ヴェルナーが紡ぎ部屋から出られなくなった。
「……止みませんね」
「ああ」
2人きりの部屋。リセッタは棚の整理をしていた。ヴェルナーは窓辺に腰掛けて、雨を見ていた。
「公爵様は、なぜ衣装にそこまでこだわるのですか」
ヴェルナーは少し間を置いて答えた。
「母が仕立て師だった。平民出身で、宮廷では蔑まれた。——だが母の仕立ては完璧だった。どの貴族の衣装より美しかった」
ヴェルナーは雨を見ていた。
「母は言っていた。『糸は嘘をつかない。どんなに取り繕っても、指先に触れれば分かる』と」
リセッタの手が止まった。それは、リセッタがいつも思っていたことと同じだった。
「……私も、そう思います」
雨音が満ちた。しばらく、2人とも黙っていた。
「お前は——なぜ宮廷に残った。侯爵家に断られた後、他の道もあっただろう」
「……この紡ぎ部屋だけが、私を必要としてくれたからです。誰も名前を呼んでくれなくても——私が触れたら、応えてくれました。撚りを整えれば光沢が戻る。等級を上げれば仕上がりが変わる。見てくれなくても、いいんです。応えてくれるだけで」
ヴェルナーは黙った。長い沈黙だった。
「……糸だけ、か」
短い。けれどその2文字に、何かが滲んでいた。
リセッタの左手が止まった。巻きかけの絹を持ったまま、動けなかった。
それだけではない、と言いたげだったのか。それとも、ただの確認だったのか。
その夜、紡ぎ部屋に1人で残って棚を整理しながら、リセッタは何度もあの2文字を反芻した。止まるな。——だけ、か。どちらも短くて、どちらも意味が分からなくて、どちらも胸の奥に刺さったまま抜けなかった。
◇
「リセッタさん、公爵様ですわよ」
先輩のゾフィーが、にこにこしながら扉を開けた。ヴェルナーが立っている。
「……お入りください」
「今日は裏地の——」
「公爵様」
ゾフィーが遮った。にこにこしたまま。
「今月の紡ぎ部屋へのご来訪、47回目ですわ」
リセッタは絹を取り落とした。
「よ——47?」
「ええ。仕立て直しが19回。ご相談が14回。裏地の確認が8回。染色ロットの照合が4回。そしてお茶が2回。——ただし紡ぎ部屋にお茶の設備はございませんので、あの2回は来る理由がなかったはずですわ」
ヴェルナーが黙った。耳が赤い。
「ゾフィー。その数字は——」
「あら、でもここの担当者はあなた一人ですのよ?」
「ゾフィー」
「はいはい。——公爵様、リセッタさんは明後日がお休みです。紡ぎ部屋は閉まりますけれど、東の回廊にお茶処がございますわよ。今度はお茶の設備がございます」
ゾフィーは鼻歌混じりに去った。
沈黙。2人とも、47回には触れなかった。
「……公爵様。48回目のご用件は」
言ってから、頬が熱くなった。なぜ自分から回数を数えているのか。
「裏地の件だ」
「……承知しました」
◇
「公邸で、専属の担当をしないか」
ヴェルナーの申し出は唐突だった。
「——専属ですか」
「衣装の管理を一任したい。待遇は宮廷の3倍を保証する」
破格だった。
リセッタは黙った。47回。止まるな。——だけ、か。全てが頭を巡った。
「公爵様」
「何だ」
「管理者が必要なだけであれば、優秀な方は他にもいます」
「……」
「もし——私個人を必要としてくださるなら、喜んでお受けします。ですが、仕事としてだけなら……お受けできません」
言ってしまった。3倍の待遇。安定した職場。この人の近く。全てを、たった一つの質問のために賭けた。
ヴェルナーはリセッタを見ていた。長い沈黙だった。
「……公邸に来てくれ」
答えになっていなかった。「私個人を」とも「仕事として」とも言わなかった。
リセッタは頷いた。答えが出ないまま。
◇
翌日、エーリッヒが来た。
「なあリセッタ、困ってるんだ。うちに来てくれない?」
「お断りします」
「お前、たかが——」
「たかが糸です。されど糸です。——紐の等級を間違えるような家ですし」
エーリッヒが口をぱくぱくさせた。
扉の外で、ヴェルナーが壁に背を預けていた。全部聞いていた顔だった。目が合った。口の端が上がっていた。
◇
公邸に移って2週間後。書斎の棚の奥に、見慣れない小箱があった。
開けてみた。
中には、絹の切れ端が十数本、日付ごとに並べられていた。ラベルには「秋・2番手・改良品」「冬・1番手・縫合用」のように、品質と時期だけが記されている。
品質の追跡記録だ。軍事顧問官が衣装の変遷を管理するなら、合理的ではある。
けれど——1本ずつ手に取ると、全て、リセッタが選んだ批だった。他の担当者が選んだものは1本もない。3年分の切れ端が、撚りを乱さないよう1本1本丁寧に保管されている。品質記録にしては——あまりにも丁寧だった。
最後の1本。ラベルには「試作・未使用」とだけ書かれていた。淡い琥珀色の絹。
リセッタは窓際に持っていって、光に透かした。陽光を通すと、温かな金茶の輝きが指先を染めた。
どこかで見た色だった。毎日、鏡の中で見ている色だった。
——偶然だ。
リセッタは小箱を閉じた。心臓がうるさかった。元の場所に戻した。閉じたはずの蓋が、頭の中ではずっと開いていた。
◇
秋季大舞踏会の夜。
リセッタはヴェルナーの隣にいた。「会場の品質を視察しろ」という名目だった。名目としては合理的だった。何もかも合理的だった、この人の行動は。
ヴェルナーが渡したドレスの縁取りには、淡い琥珀色の刺繍が入っていた。小箱の最後の1本と同じ色だった。
裾の金糸に指が触れた瞬間、リセッタの眉がわずかに動いた。この撚り——0.5度変えた特注品だ。先月、王族専用として品質を上げた、あの金糸。なぜ公邸のドレスに。
——この人の行動は、何もかも合理的だ。きっとこれも、品質の良いものを集めた結果に過ぎない。
舞踏会が始まった。
最初に侍女長が眉をひそめた。
「この飾り紐、先月と質が——」
次に文官長。
「裏地がごわつくな」
そして——エーリッヒ・ハイデ侯爵子息の正装の襟元が、舞踏会の最中に、ゆっくりとほつれ始めた。
会場がざわめいた。
「担当が替わってからおかしくなった」「裏地もだわ」「いつから?」
エーリッヒが襟を押さえた。顔が白い。
リセッタは——動いた。
反射だった。ほつれた襟元に向かって、無意識に一歩を踏み出していた。指が伸びた。3年間で身体に染み込んだ動作。ほつれを見たら直す。誰の衣装であっても。
ヴェルナーの手がリセッタの腕に触れた。止められた。
「……あ」
リセッタは自分の手を見た。会場の中央で、敵の衣装を直そうとしていた。
「——すみません。職業病です」
会場が一瞬静まった。どこかで小さな笑い声が上がった。
直後、別の貴婦人が駆け寄ってきた。
「あなた糸番の方でしょう? 私のレースもほつれてるの、直していただけない?」
「……今は舞踏会の最中ですが」
「でも今、あちらの方を直そうとしてらしたじゃない」
「あれは職業病で——」
「私のも職業病でお願いしますわ」
リセッタはヴェルナーを見た。ヴェルナーは口元だけで笑っていた。助けてくれる気配はなかった。
エーリッヒがこちらに来た。
「お前——お前がいなくなったから——」
「侯爵様。糸は嘘をつきません」
リセッタは静かに言った。
「3番手で済ませた結果が、今夜の襟元です。——ちょうど、婚約破棄の紐と同じように」
エーリッヒは何も言い返せなかった。去りかけて、一度だけ振り返った。その視線が、ヴェルナーの礼装に止まった。完璧な仕立て。1本のほつれもない縫い目。そして——袖口を縁取る、淡い琥珀色の刺繍。
リセッタの瞳と同じ色を、公爵が身に纏っている。
エーリッヒの表情が変わった。怒りでも恥でもなかった。もっと深い何か——自分が閉めた門の向こう側に、取り返しのつかないものがあると気づいた顔だった。
ヴェルナーは、ほつれていく会場を見渡して、小さく呟いた。
「……2番手を使わないからだ」
リセッタの言葉だった。
◇
舞踏会の翌朝。
リセッタは公邸の作業場にいた。
検品用の手袋を外した。作業着のエプロンを解いた。畳んで、棚に置いた。品質管理表を引き出しに収めた。
「公爵様。お仕事は以上です」
「……何を言っている」
「公邸の管理体制は整いました。後任の方に——」
リセッタは扉に向かった。
「お世話になりました」
扉に手をかけた。
手首を掴まれた。
ヴェルナーの手だった。大きくて、硬くて、温かかった。
「行くな」
「——公爵様」
「糸の話をしているのではない」
リセッタは扉を向いたまま動けなかった。
「もし管理者が必要なだけなら、俺は47回も紡ぎ部屋に行かない」
「……」
「雨の日に母の話をしない。琥珀色を迷わず選ばない」
手首を掴む手に力がこもった。
「あの箱を見たか」
「……はい」
「あれは品質の記録だ。——ただし、お前が選んだものだけを集めた記録だ。他の人間が選んだものは入っていない。3年分。1本も」
リセッタの視界が滲み始めた。
「で、でも——品質の追跡として——」
「つかない」
「47回も——」
「異常だ」
「琥珀色も——偶然——」
「偶然ではない」
全部、剥がされた。合理的な壁が、3つの短い言葉で崩れた。
「糸を辿っていたのではない。あなたの手を辿っていた。3年前の秋、衣装の肌触りが変わった日から——ずっと」
リセッタは扉を向いたまま泣いていた。
「名は、最初の日に覚えた。——リセッタ」
3年間、誰にも呼ばれなかった名前だった。最初の日に訊いて、頷いただけだと思っていた。覚えていた。ずっと。
リセッタは振り返った。涙で滲んだ視界に、耳だけ赤い男が立っていた。
涙を袖で拭った。深呼吸を一つ。
そしてヴェルナーの左袖を掴んだ。
「——左袖、昨日から0.5ミリほつれが拡大しています。右肩の縫合にもずれが1か所。裏地の撚りも甘い部分が——」
「……泣きながら検品するのか」
「ほつれは涙を待ってくれませんので」
鼻を啜りながら、指先だけは正確にほつれを辿っていた。
「——あと、この袖口は。ずっとほつれていました。……ずっと、直させてください」
ヴェルナーが笑った。声を出して笑った。低くて、温かくて、紡ぎ部屋の雨音に似ていた。
「——ずっと、頼む」
◇
後日。ヴェルナーの書斎で、リセッタは琥珀色の絹を整理していた。
隣でヴェルナーが、不器用に糸巻きを回していた。撚りが逆だった。
「公爵様。撚りが逆です」
「教えてくれ」
リセッタはヴェルナーの手に自分の手を重ねた。
指先に1本の琥珀色の糸が巻きついた。誰にも見えない細い1本が、2人の手の間で確かに温かかった。
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