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婚約破棄の書状の紐まで見抜く宮廷糸番は、3年ぶりに名前を呼ばれました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/07

 廊下の向こうから、マレーン伯爵夫人が歩いてきた。純白のドレスの裾に、金の刺繍が光っている。


 リセッタ・フェルデンは一目で分かった。あの金糸は、先月リセッタが品質を上げた特注品だ。撚りの角度を0.5度変えて、光の反射率を改善した。1巻きで侍女の月給3か月分。


「まあ、素敵なお召し物ですわね」


「仕立て師に感謝しなくちゃ。今年一番の出来ですもの」


 仕立て師に、感謝。


 リセッタの前を、2人は通り過ぎた。リセッタが立っていることに気づかなかった——というより、最初からいないのと同じだった。


「あら、余った子じゃない。まだいたの」


 後ろの侍女が、別の侍女に向けて言った。リセッタを透過して。


 3年間、毎日こうだった。


 余った子。——まあ、否定はできない。この宮廷で最も消費されない資源があるとすれば、それは糸番の名前だ。


 宮廷糸番。それがリセッタの職名だった。王宮で使われるすべてを管理する。刺繍用、縫製用、装飾用——この宮廷の衣装を支えるすべてが、リセッタの紡ぎ部屋を通る。


 通るだけだ。誰も立ち止まらない。仕上がりは褒められる。選んだ手は、見えない。


 紡ぎ部屋に戻ると、来客がいた。


 エーリッヒ・ハイデ侯爵子息。3年前に婚約者を雪の中で門前払いにした人間だ。


「よう、リセッタ。ちょっと頼みがあるんだけどさ」


 軽い。3年前に15歳の少女の人生を閉め出した声とは思えないほど、軽い。


「婚約破棄の書状、正式に交わしてくれない? 父上がうるさくてさ。面倒だけど」


 面倒。雪の中で門の前に立ち尽くした夜は、この男にとって「面倒な書類仕事」だった。


 リセッタは書状を受け取り、広げた。


 内容より先に、書状を縛っている紐に目が行った。


「……侯爵様。この紐ですが。3番手の麻ですね。正式文書を縛る紐は、規定では2番手以上の単撚りです」


「はぁ? 紐なんてどれも同じだろ」


「同じではありません。それに、この撚りの乱れ方——正規の納品業者の品ではありません。非公認業者の安物です。正式文書に非公認業者の資材を使用した場合、偽造文書と判断される可能性があります」


 エーリッヒの顔が引きつった。


「——婚約破棄の書状を偽造して、俺に何の得があるんだよ!」


「さあ。ですが書記局はそう判断します」


 リセッタは紐の次に紙を確かめた。


「それからこの紙ですが、王宮御用達の圧縮羊皮紙ではありませんね。町の文具店の量産品です。紙の目が粗くて——」


「紐の次は紙かよ!」


「あと封蝋の蜜蝋比率が規格を——」


「もういい! 署名だけくれ!」


 リセッタは署名した。一度も手が震えなかった。


「以上です。紐と紙と封蝋はお取り替えください」


 エーリッヒは舌打ちをして出ていった。


     ◇


 翌朝。紡ぎ部屋にまた来客があった。


 ヴェルナー・クラウゼ公爵。28歳。軍事顧問官。宮廷で最も寡黙で、最も衣装にうるさい男として知られている。仕立て師が3人泣いたという噂がある。


「糸番を探している」


 低い声。扉を開けるなり、それだけ言った。


「私ですが」


「名は」


 3年間で初めてだった。名前を訊かれたのは。


「リセッタ・フェルデンです」


 ヴェルナーは頷いた。それだけだった。


「軍服の縫製に問題がある。全て入れ替えたい」


「どのような問題でしょうか」


 ヴェルナーが軍服の袖を差し出した。


 リセッタの手が動いた。止められない。袖口を指先でなぞる。縫い目を確認する。撚りの方向。光沢。


「——右肩に3番手の絹が混在しています。2番手で統一すべきです。釦穴の補強も左右で太さが違う。あと——」


 ここから先は、袖をめくらないと確認できない。


「失礼します。裏地を確認しますので——」


 無言で袖を捲り始めた。ヴェルナーの腕が露わになる。筋張った、軍人の腕だった。


「……何をしている」


「裏地の染色ムラの確認です。——あ」


 リセッタは手を止めた。


「すみません。お召しになったまま袖を捲るのは無礼でした。可能であれば上着を脱いでいただけますか。裏地全体を確認したいので」


 沈黙。ヴェルナーの耳の先だけが赤かった。


「……ここでか」


「紡ぎ部屋ですので、照明が適切です」


「…………」


「公爵様?」


「分かった」


 ヴェルナーは上着を脱いだ。リセッタは受け取り、裏返し、指先で読み取った。密度。均一性。撚り。1分ほどで検分が終わった。


 顔を上げると、ヴェルナーが窓のほうを向いていた。耳が赤い。耳だけが。


「——全部分かるのか」


「これが私の仕事ですので」


     ◇


 ヴェルナーは、それから毎日来た。


「これは何だ」


「3番手の亜麻です。主に下着用で——」


「これは」


「1番手の絹撚り。礼装用です。1巻きで侍女の月給3か月分ですので、在庫を間違えると私の首が飛びます。まだ飛んでいませんけれど」


 ヴェルナーの口の端が動いた。


 10日目。ヴェルナーが外套を持ち込んだ。リセッタが裏地に指を滑らせた瞬間、眉が寄った。


「——この染色ロット。去年の夏に王族専用として私が特注した批です。紡ぎ部屋から王族の仕立て室にしか納品していません。なぜ公爵様の外套に」


「仕立て師が選んだ」


「この批は非売品です。仕立て師が選べるものではありません」


 ヴェルナーは黙っていた。


「公爵様。仕立て師に何か特別なご指示を?」


「品質の良いものを使え、とだけ」


「……それだけですか」


「それだけだ」


 嘘か本当か、判断がつかなかった。


 ただ、耳だけが赤かった。


     ◇


 15日目。ヴェルナーが裂けた外套を持ち込んだ。


「これを直せるか」


「拝見します」


 肩の縫い目が裂けていた。リセッタは針と絹を取り出し、繕い始めた。


 ヴェルナーは向かいの椅子に座って、リセッタの手を見ていた。針を持つ右手。布を押さえる左手。指先が縫い目を辿るたびに、わずかに動く。


「……公爵様」


「何だ」


「じっと見られると、手元が狂います」


「すまない」


 ヴェルナーは目を逸らした。3秒後に、また見ていた。


 リセッタは縫い目に集中した。ここの縫合は上糸と下糸の張力を揃えなければならない。0.1ミリの狂いが全体の耐久性に——


「止まっている」


 ヴェルナーの声だった。


「え?」


「手が止まっている。——止まるとどうなる」


「……ほつれが広がります」


「そうか」


 ヴェルナーは静かに言った。


「止まるな」


 短い言葉だった。仕事の指示だった。手を止めるな、という意味だった。——それだけの、はずだった。


 けれどリセッタの心臓が一つ跳ねた。「止まるな」が「ここにいろ」に聞こえたのは、きっと気のせいだ。きっと。


 リセッタは針を動かし続けた。指先が少しだけ震えていたけれど、縫い目はまっすぐだった。


     ◇


 雨の日だった。豪雨で、ヴェルナーが紡ぎ部屋から出られなくなった。


「……止みませんね」


「ああ」


 2人きりの部屋。リセッタは棚の整理をしていた。ヴェルナーは窓辺に腰掛けて、雨を見ていた。


「公爵様は、なぜ衣装にそこまでこだわるのですか」


 ヴェルナーは少し間を置いて答えた。


「母が仕立て師だった。平民出身で、宮廷では蔑まれた。——だが母の仕立ては完璧だった。どの貴族の衣装より美しかった」


 ヴェルナーは雨を見ていた。


「母は言っていた。『糸は嘘をつかない。どんなに取り繕っても、指先に触れれば分かる』と」


 リセッタの手が止まった。それは、リセッタがいつも思っていたことと同じだった。


「……私も、そう思います」


 雨音が満ちた。しばらく、2人とも黙っていた。


「お前は——なぜ宮廷に残った。侯爵家に断られた後、他の道もあっただろう」


「……この紡ぎ部屋だけが、私を必要としてくれたからです。誰も名前を呼んでくれなくても——私が触れたら、応えてくれました。撚りを整えれば光沢が戻る。等級を上げれば仕上がりが変わる。見てくれなくても、いいんです。応えてくれるだけで」


 ヴェルナーは黙った。長い沈黙だった。


「……糸だけ、か」


 短い。けれどその2文字に、何かが滲んでいた。


 リセッタの左手が止まった。巻きかけの絹を持ったまま、動けなかった。


 それだけではない、と言いたげだったのか。それとも、ただの確認だったのか。


 その夜、紡ぎ部屋に1人で残って棚を整理しながら、リセッタは何度もあの2文字を反芻した。止まるな。——だけ、か。どちらも短くて、どちらも意味が分からなくて、どちらも胸の奥に刺さったまま抜けなかった。


     ◇


「リセッタさん、公爵様ですわよ」


 先輩のゾフィーが、にこにこしながら扉を開けた。ヴェルナーが立っている。


「……お入りください」


「今日は裏地の——」


「公爵様」


 ゾフィーが遮った。にこにこしたまま。


「今月の紡ぎ部屋へのご来訪、47回目ですわ」


 リセッタは絹を取り落とした。


「よ——47?」


「ええ。仕立て直しが19回。ご相談が14回。裏地の確認が8回。染色ロットの照合が4回。そしてお茶が2回。——ただし紡ぎ部屋にお茶の設備はございませんので、あの2回は来る理由がなかったはずですわ」


 ヴェルナーが黙った。耳が赤い。


「ゾフィー。その数字は——」


「あら、でもここの担当者はあなた一人ですのよ?」


「ゾフィー」


「はいはい。——公爵様、リセッタさんは明後日がお休みです。紡ぎ部屋は閉まりますけれど、東の回廊にお茶処がございますわよ。今度はお茶の設備がございます」


 ゾフィーは鼻歌混じりに去った。


 沈黙。2人とも、47回には触れなかった。


「……公爵様。48回目のご用件は」


 言ってから、頬が熱くなった。なぜ自分から回数を数えているのか。


「裏地の件だ」


「……承知しました」


     ◇


「公邸で、専属の担当をしないか」


 ヴェルナーの申し出は唐突だった。


「——専属ですか」


「衣装の管理を一任したい。待遇は宮廷の3倍を保証する」


 破格だった。


 リセッタは黙った。47回。止まるな。——だけ、か。全てが頭を巡った。


「公爵様」


「何だ」


「管理者が必要なだけであれば、優秀な方は他にもいます」


「……」


「もし——私個人を必要としてくださるなら、喜んでお受けします。ですが、仕事としてだけなら……お受けできません」


 言ってしまった。3倍の待遇。安定した職場。この人の近く。全てを、たった一つの質問のために賭けた。


 ヴェルナーはリセッタを見ていた。長い沈黙だった。


「……公邸に来てくれ」


 答えになっていなかった。「私個人を」とも「仕事として」とも言わなかった。


 リセッタは頷いた。答えが出ないまま。


     ◇


 翌日、エーリッヒが来た。


「なあリセッタ、困ってるんだ。うちに来てくれない?」


「お断りします」


「お前、たかが——」


「たかが糸です。されど糸です。——紐の等級を間違えるような家ですし」


 エーリッヒが口をぱくぱくさせた。


 扉の外で、ヴェルナーが壁に背を預けていた。全部聞いていた顔だった。目が合った。口の端が上がっていた。


     ◇


 公邸に移って2週間後。書斎の棚の奥に、見慣れない小箱があった。


 開けてみた。


 中には、絹の切れ端が十数本、日付ごとに並べられていた。ラベルには「秋・2番手・改良品」「冬・1番手・縫合用」のように、品質と時期だけが記されている。


 品質の追跡記録だ。軍事顧問官が衣装の変遷を管理するなら、合理的ではある。


 けれど——1本ずつ手に取ると、全て、リセッタが選んだ批だった。他の担当者が選んだものは1本もない。3年分の切れ端が、撚りを乱さないよう1本1本丁寧に保管されている。品質記録にしては——あまりにも丁寧だった。


 最後の1本。ラベルには「試作・未使用」とだけ書かれていた。淡い琥珀色の絹。


 リセッタは窓際に持っていって、光に透かした。陽光を通すと、温かな金茶の輝きが指先を染めた。


 どこかで見た色だった。毎日、鏡の中で見ている色だった。


 ——偶然だ。


 リセッタは小箱を閉じた。心臓がうるさかった。元の場所に戻した。閉じたはずの蓋が、頭の中ではずっと開いていた。


     ◇


 秋季大舞踏会の夜。


 リセッタはヴェルナーの隣にいた。「会場の品質を視察しろ」という名目だった。名目としては合理的だった。何もかも合理的だった、この人の行動は。


 ヴェルナーが渡したドレスの縁取りには、淡い琥珀色の刺繍が入っていた。小箱の最後の1本と同じ色だった。


 裾の金糸に指が触れた瞬間、リセッタの眉がわずかに動いた。この撚り——0.5度変えた特注品だ。先月、王族専用として品質を上げた、あの金糸。なぜ公邸のドレスに。


 ——この人の行動は、何もかも合理的だ。きっとこれも、品質の良いものを集めた結果に過ぎない。


 舞踏会が始まった。


 最初に侍女長が眉をひそめた。


「この飾り紐、先月と質が——」


 次に文官長。


「裏地がごわつくな」


 そして——エーリッヒ・ハイデ侯爵子息の正装の襟元が、舞踏会の最中に、ゆっくりとほつれ始めた。


 会場がざわめいた。


「担当が替わってからおかしくなった」「裏地もだわ」「いつから?」


 エーリッヒが襟を押さえた。顔が白い。


 リセッタは——動いた。


 反射だった。ほつれた襟元に向かって、無意識に一歩を踏み出していた。指が伸びた。3年間で身体に染み込んだ動作。ほつれを見たら直す。誰の衣装であっても。


 ヴェルナーの手がリセッタの腕に触れた。止められた。


「……あ」


 リセッタは自分の手を見た。会場の中央で、敵の衣装を直そうとしていた。


「——すみません。職業病です」


 会場が一瞬静まった。どこかで小さな笑い声が上がった。


 直後、別の貴婦人が駆け寄ってきた。


「あなた糸番の方でしょう? 私のレースもほつれてるの、直していただけない?」


「……今は舞踏会の最中ですが」


「でも今、あちらの方を直そうとしてらしたじゃない」


「あれは職業病で——」


「私のも職業病でお願いしますわ」


 リセッタはヴェルナーを見た。ヴェルナーは口元だけで笑っていた。助けてくれる気配はなかった。


 エーリッヒがこちらに来た。


「お前——お前がいなくなったから——」


「侯爵様。糸は嘘をつきません」


 リセッタは静かに言った。


「3番手で済ませた結果が、今夜の襟元です。——ちょうど、婚約破棄の紐と同じように」


 エーリッヒは何も言い返せなかった。去りかけて、一度だけ振り返った。その視線が、ヴェルナーの礼装に止まった。完璧な仕立て。1本のほつれもない縫い目。そして——袖口を縁取る、淡い琥珀色の刺繍。


 リセッタの瞳と同じ色を、公爵が身に纏っている。


 エーリッヒの表情が変わった。怒りでも恥でもなかった。もっと深い何か——自分が閉めた門の向こう側に、取り返しのつかないものがあると気づいた顔だった。


 ヴェルナーは、ほつれていく会場を見渡して、小さく呟いた。


「……2番手を使わないからだ」


 リセッタの言葉だった。


     ◇


 舞踏会の翌朝。


 リセッタは公邸の作業場にいた。


 検品用の手袋を外した。作業着のエプロンを解いた。畳んで、棚に置いた。品質管理表を引き出しに収めた。


「公爵様。お仕事は以上です」


「……何を言っている」


「公邸の管理体制は整いました。後任の方に——」


 リセッタは扉に向かった。


「お世話になりました」


 扉に手をかけた。


 手首を掴まれた。


 ヴェルナーの手だった。大きくて、硬くて、温かかった。


「行くな」


「——公爵様」


「糸の話をしているのではない」


 リセッタは扉を向いたまま動けなかった。


「もし管理者が必要なだけなら、俺は47回も紡ぎ部屋に行かない」


「……」


「雨の日に母の話をしない。琥珀色を迷わず選ばない」


 手首を掴む手に力がこもった。


「あの箱を見たか」


「……はい」


「あれは品質の記録だ。——ただし、お前が選んだものだけを集めた記録だ。他の人間が選んだものは入っていない。3年分。1本も」


 リセッタの視界が滲み始めた。


「で、でも——品質の追跡として——」


「つかない」


「47回も——」


「異常だ」


「琥珀色も——偶然——」


「偶然ではない」


 全部、剥がされた。合理的な壁が、3つの短い言葉で崩れた。


「糸を辿っていたのではない。あなたの手を辿っていた。3年前の秋、衣装の肌触りが変わった日から——ずっと」


 リセッタは扉を向いたまま泣いていた。


「名は、最初の日に覚えた。——リセッタ」


 3年間、誰にも呼ばれなかった名前だった。最初の日に訊いて、頷いただけだと思っていた。覚えていた。ずっと。


 リセッタは振り返った。涙で滲んだ視界に、耳だけ赤い男が立っていた。


 涙を袖で拭った。深呼吸を一つ。


 そしてヴェルナーの左袖を掴んだ。


「——左袖、昨日から0.5ミリほつれが拡大しています。右肩の縫合にもずれが1か所。裏地の撚りも甘い部分が——」


「……泣きながら検品するのか」


「ほつれは涙を待ってくれませんので」


 鼻を啜りながら、指先だけは正確にほつれを辿っていた。


「——あと、この袖口は。ずっとほつれていました。……ずっと、直させてください」


 ヴェルナーが笑った。声を出して笑った。低くて、温かくて、紡ぎ部屋の雨音に似ていた。


「——ずっと、頼む」


     ◇


 後日。ヴェルナーの書斎で、リセッタは琥珀色の絹を整理していた。


 隣でヴェルナーが、不器用に糸巻きを回していた。撚りが逆だった。


「公爵様。撚りが逆です」


「教えてくれ」


 リセッタはヴェルナーの手に自分の手を重ねた。


 指先に1本の琥珀色の糸が巻きついた。誰にも見えない細い1本が、2人の手の間で確かに温かかった。


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