ひび割れた眼鏡の向こう
ひび割れた眼鏡の向こう
真夏の体育館は、熱気と汗、そして古びた床の匂いで満ちていた。バッシュが床を擦るキィキィという音、ボールが跳ねる鈍い音が、耳の奥に響く。バスケ部マネージャーの加奈は、今日もどこか虚しかった。容姿と才能に恵まれ、常に周囲の中心にいた。だから、自分を肯定してくれるイケメンばかりと付き合ってきた。今の彼氏、レギュラーのユウタもその一人だった。才能にあぐらをかき、努力を軽んじる彼と、取り巻きの友人たち。その軽薄な笑い声が、加奈の心に鉛のように重く沈んだ。この華やかな世界こそが自分の価値だと信じていた。この虚しさが何なのか、問いかけることすら怖かった。
そんな華やかな舞台の隅で、一人だけ異質な存在がいた。宗太だ。小さな丸眼鏡は鼻の真ん中でずれ、少し猫背。彼の呼び名は「ボール拾い!」。ユウタを含むレギュラー陣は、彼を人間扱いすることすらなく、雑用を押し付けた。加奈は、彼らの横柄な振る舞いを内心で軽蔑しつつも、見て見ぬふりしかできなかった。彼の視線が、自分に向けられることはないと思っていたからだ。
ある日、彼女が忘れ物を取りに戻ると、誰もいないはずの体育館に、ボールの音が響いていた。音のする方へ向かうと、薄暗い体育館の片隅で、宗太が一人、黙々とシュート練習をしていた。窓から差し込む夕日が、宗太の汗に濡れた横顔を、静かに照らしていた。ひびの入った眼鏡の奥から、汗が流れ落ちる。それは、まるで彼のこれまでの不遇な日々が結晶になったようだった。ひび割れたレンズの向こうで、ただひたすらに、ボールを追いかける彼の姿があった。それはまるで、誰にも見られることなく、己の弱さと向き合い続ける者の姿だった。加奈は、これまで自分が追い求めてきた「華やかさ」が、なんて薄っぺらかったのかを思い知らされ、胸が締め付けられるような温かさを感じた。
次の試合、加奈の忠告を無視して練習を怠っていたユウタが、足を負傷した。顧問はレギュラー交代を命じる。誰もが宗太ではないと思っていた。コートに立つのは、これまで陽の当たらない場所にいた彼だと、誰も想像できなかった。観客席のざわめきが、体育館に満ちる。しかし、顧問は彼の名前を呼んだ。「宗太、行け!」。
宗太は震える足でコートに立った。その顔には、ひびの入った眼鏡。周りからは嘲笑が漏れる。だが、宗太はコートに立った瞬間、別人になった。的確なパス、正確なシュート。そのプレイは、彼のこれまでの努力が報われる「シンデレラストーリー」のようだった。彼を馬鹿にしていたユウタや友人たちは、驚愕するしかなかった。
試合は宗太の活躍によって勝利を収めた。試合後、顧問は実力主義に基づきレギュラーの交代を発表した。「才能に胡座をかいた者と、ひたむきに努力した者、どちらが上か、わかったか?」。その言葉に、ユウタを含む友人たちはただ立ち尽くした。
加奈は宗太に駆け寄った。「宗太君、レギュラーおめでとう。あなたの努力、ずっと見てたよ」。
宗太は驚いた顔で加奈を見つめた。ひびの入った眼鏡の奥の瞳が、これまでの人生で見たことのない光を宿した。 「俺がバスケ部に入ったのは、加奈がいたからです」。
彼の言葉に、加奈は涙を流した。彼女はこれまで、外見や才能に惹かれてきた。しかし、彼女の心を本当に満たしたのは、彼のひたむきな努力と、自分への純粋な想いだった。それは、これまで虚飾で固めてきた自分の価値観が、音を立てて崩れていくようだった。
周囲の喧騒が遠ざかり、二人の世界だけになった。加奈は宗太のひびの入った眼鏡にそっと手を伸ばし、外した。ひび割れたフレームのざらつきと、彼の熱い頬の感触が指先から伝わってくる。これまで彼の努力を象徴していた眼鏡を外し、初めて向き合った彼のまっすぐな瞳に、加奈は安堵の涙を流した。これまでの華やかな世界にはなかった、静かで、温かい光がそこにあった。そして、彼女は彼の唇にそっとキスをした。
それは、彼女にとっての、そしてきっと彼にとっても、新しい世界の扉を開く、始まりの合図だった。