少女の来訪
第三章
鰯雲が浮かぶ秋晴れが続いていたが、吉田家はずっと曇天が続いているようなものだった。
「ほら、またため息をつく。しかもアイロンを使っているときは気をつけないと、いまに火傷するよ」
はっとして八栄は慌てて手を動かした。
「昨夜も何度も針を指に刺してたね。そのうち穴だらけになるから」
叱るとも笑うともつかない調子で、富は八栄をそう諭す。
「お嬢さまが心配なのはわかるけど、あたしにもあんたにも治せないんだから。こういうときはね、仕事に集中するのが一番」
富はそうやって、辛いことを乗り越えてきたのだろう。辛い思いをしたことのないひとなど、きっといない。
はい、と人生の先輩の教訓に素直にうなずいたとき、玄関先で誰かが呼ばわる声を聞いた。
「ごめんください。どなたか――」
「はい、ただいま」
八栄は急ぎながらも、見苦しくないように客の前に膝をついた。
「お待たせいたしました。いらっしゃいませ――」
そう頭を下げかけて、声を飲む。
「え、あ、あなた、は――」
玄関先に立っていたのは、土門青年と夢の中の少女だったのだ。
前髪は後ろに撫でつけて、立ち襟のシャツに絣の袷、棒縞の袴に素足に下駄という出で立ちの青年は、先日の軽い雰囲気は微塵も感じさせない。
佇む少女のほうも、日の光の下で改めて見てもやはり人目を引く顔立ちをしていた。すらりとしたその姿は、芍薬に例えられるに足るものだ。長い髪は同じように自然と垂らし、立て矢に結んだ繻子織りの帯に、小菊の描かれた小豆色の振り袖をまとっている。
言い差して唖然としたままの八栄に、青年は傍らの少女に視線を向けた。
「え、何、みちる? 知り合い?」
「先日うちへ来た」
「あの家へ? 八栄ちゃんが?」
「魂だけな。不用心この上ない」
「あぁ、そういうこともできるんだ。意外に器用」
「感心するところか」
青年と少女のそんなやりとりは、八栄の耳を素通りしていく。
(ゆ、夢じゃなかった? あたし、なんだかいろいろ言ったような……?)
言動を思い返して後悔と羞恥に襲われている八栄を余所に、会話はまだ続いていた。
「どうりで気が変わったとか言うわけだ。おれが話を持っていったときは、札を放り投げるように寄越しただけのくせに」
「リツリがやけに気に入って、助けろとわめかれたんだ」
「おれよりリツリのほうが大事なんだな」
「当然だ」
「おまえな、少しは年長者を労ろうよ」
「労ってるからこそ、こういうことになるんじゃないか」
「――そ、それはそうかもしれないけれども。そうじゃないだろ」
納得いかないとぶつぶつ零す青年を放って、少女が八栄に目を据えた。
「そろそろ頭の整理はついたか?」
整理どころかこんがらがったままだ。
それでも必死に気を取り直して、躾られた客への応対を思い出す。
「ご、ご用件をうかがってもよろしいでしょうか」
「祠は庭か? どのあたりだ?」
「え? えと、お庭の西奥のほうに」
「わかった」
「あの、でも勝手にお入れするわけには」
焦って腰を浮かしかける八栄に、少女はあでやかに微笑んだのである。
「わたくしは徳井みちると申します。こちらは付き添いの、我が家の書生です。わたくし、真希さんのお見舞いにうかがいました。お取り次ぎをお願いいたします」
智津に指示を仰ぎ、とりあえずふたりは客間に通すことになった。
少女はそれこそ花のような笑みを浮かべたままで、ほんの一瞬、智津がみとれたように惚けたほどだ。
「失礼いたします」
富に用意してもらった茶を持って、八栄が客間へ入ると、文字通り談笑の最中だった。
「ええ、学校へもお話ししてありますが、病が移っても大変ですから、お見舞いは本当にお気持ちだけで。せっかくお越しいただいたのに」
「こちらこそ急にお邪魔いたしまして、申し訳なく思っております。真希さんの具合がよろしくないと、小耳に挟んだものですから」
そっと茶を置きながら、八栄はかすかにうかがい見る。
無愛想という単語を知らないかのようなにこやかさ加減は、夢と現の少女が同一人物であることを疑いたくなるほどだ。袴姿の青年は背後で控えていたが、風邪でも引いているのか、時折ひどく咳き込んでいる。
「あら。ええと、女学校のお友達なのではありませんの?」
「わたくしは少々病弱で、すぐに辞めてしまいましたので。所用で上京いたしましたが、いまは環境のよいところで療養しております。真希さんはどうなのでしょう? お医者さまはなんとおっしゃっておいでなのですか?」
「いいえ、あの」
「静かで緑の多いところなどを散策すると、わたくしは体調が回復するような気がいたします。こちらのお庭の素晴らしいこと。真希さんは、お庭にも出ておいでですか?」
「いえ、その、床についたきりで」
「それは残念。この素敵なお庭を一緒に散策でもできれば、お互い気張らしにも体にもよいと思いましたのに」
「まぁ、真希は無理ですけれど、もしよろしかったら、お好きなだけご覧になってくださいませ」
冷静に考えればいささか強引とも思えるが、話の流れからして、智津もそう言うしかなかっただろう。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。あと、図々しいお願いですが、こちらの方をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「え?」
智津はそれこそ動きを止めるほどに驚いていたが、それは八栄も一緒だった。茶と茶菓子を並べて、部屋を下がろうとしていたのだから。
「八、八栄をですか?」
「はい。真希さんとお話しするのを楽しみにしておりましたけど、それも叶いません。わたくし、あまりひとと会う機会もないものですから。同じ年頃の方と、少しおしゃべりもしたいのです。お庭の散策も、お話をしながらのほうが」
「え、ええ。わかりましたとも。八栄。お供なさい」
そして智津は八栄の耳元で、鋭く囁いた。