憑き物
喜助は風呂焚きの仕事を終え、帰宅した。
八栄は最後に湯をもらったあと、富の女中部屋で縫い物を教わっていた。
今日の仕事はすべて終わり、住み込みの使用人も就寝までは自由時間である。
富は近頃はじめだした編み物に集中しながら、口を動かす。
「まったく、奥さまにも困ったものよ」
狐憑き云々の一件は、さすがに富も腹に据えかねたようだった。
襦袢に半襟を縫いつけながら、八栄はそれを聞いていた。
「狐だって落とせばいいんだし、嫁入り先は佐藤さんがいるじゃないの、ねぇ? そりゃ、いまはまだ学生さんだけど、将来有望。お嬢さまは見る目があるよね」
八栄は必死に笑い返した。
「お似合いですよね、佐藤さんとお嬢さま」
「あたしもそう思うよ。佐藤さんが、もうちょっとがんばればいいのに。お嬢さまだって、佐藤さんを好いてるんでしょ?」
「……あんまりはっきりとおっしゃったのは、聞いてことがないんです。でも佐藤さんがお見えのときは嬉しそうで、先生だけのときはちょっとがっかりした様子でした」
ほんの些細な変化とはいえ、そう思って見ていれば目に入る。真希は間違いなく遼太郎に好意を抱いている。遼太郎のほうとて一目瞭然だ。
けれど真希は、確証が欲しかったに違いない。
あのとき、真希は少しだけ後ろめたそうだった。
――コックリさんよ。知らない? なんでも教えてくれるの。本当は三人必要なのだけど、ふたりでもできるかもしれないでしょう。お願い、八栄。手伝って。ね?
拝むように合わせた、滑らかな白い両手。八栄はがさがさに荒れた自分の手を、そっと袖に隠してしまった。
――聞きたいことがあるの。本当のことを知りたいのよ。とても大切なことなの。学校ではなかなかこんなこと聞けないし……。
そう言って準備したにもかかわらず、真希は何も尋ねはしなかった。
――教えておくれ、本当のことを。
しかしそれから先の言葉が続かず、結局、支度した道具はそのまま片づけてしまったのである。
真希の身に入る何かを見たのは、その寸前だ。
驚いたものの、真希本人は何も気付かずけろりとしていたから、見間違いだと思った。口にすることもないと思った。
けれど翌日には、真希は床から起きあがることができなかった。
真希が聞きたかったのは、遼太郎とのことなのだろう。女学生のあいだでは近頃恋愛小説が流行っているというから、それに少し感化されているのかもしれない。
遼太郎と真希のことを思うと心が痛かったが、恋というほどのものではないと八栄は考えていた。
そもそも八栄には、いまひとつその感情は難しかった。好意を持ったひとはいた。親切にされれば、そのひとを好きになる。けれど恋愛ではないのだろう。
だからたぶん、遼太郎のことも恋ではないのだ。八栄はそう、心を押し隠した。よしんば恋だったとしても、叶うはずもない。
母の恋と同じ。
母はひとりで八栄を育てた。それはつまり父に捨てられたのだと、成長し周囲から漏れ聞く話で理解していた。直接母に聞くにはまだ幼くて、でも母は父を恨んではいなかった。素敵なひとだった、と幸せそうに語った母の顔を覚えている。
それでも、親族の目も近所の目も、突き刺さるようなものだったろう。それを跳ね返すために人一倍働いて、体を壊し亡くなってしまった。
母の言葉を信じるならば、母は幸せだったのだ。
八栄には、わからなかった。
八栄が父に関して知っているのは、その名前だけだ。父の顔さえじかに見たことはない。結婚直後に父は亡くなったことになっていたが、それは世間体を考えての方便であり、そうではないことぐらいみな知っていた。
八栄の母――葉は、とある屋敷に二年ばかり奉公に出て、戻ってきたときには赤子――八栄を連れていた。
父に会おうとは思わなかった。涙の対面や謝罪など、期待するほど八栄はおめでたくなかった。蔑むような眼差しを向けられるくらいなら、いっそ会わないほうがいい。
そうやって何もかもを避けてきた。
八栄は逃げることでしか、自分を守ることができなかった。