夢で愚痴
そして、しびれを切らした様子で、少女がおもむろに口を開く。
「ここへ何しに来た?」
「は? あの」
「どうやって来た?」
「ええと、気がついたら……」
答える八栄の声が、尻すぼみになっていく。
自分の夢の中で、こんなふうにわけのわからないことを尋ねられている状態が、何やら理不尽に思えた。それでも夢の中だからかもしれない、と八栄は『夢』にすべての責任を負わせ、ひとりで勝手に納得する。
少女の観察するような目には、まったく気づいていなかった。
そうこうするうちに、湯気の立つ湯飲みと羊羹をのせた盆を持って、再び童女が現れた。
「ほれ。茶だ。飲め」
乱暴な口調ながらも、お茶を目の前に押してくる。
そんな童女に、少女が呆れたように深く息を吐いた。
「リツリ。呑気にもてなしている場合か?」
「そう構えることはない。この娘には我が見えたし、立派な守がいる。久方ぶりの客人じゃ、大事にせねばの。用件くらいはもう聞いたろうの?」
「本人はいまひとつ理解していないようだ」
「この家に来たのにか? 用事があって訪れるものじゃがの」
不思議そうに見上げてくる童女と、少女の射るような視線に、八栄の中に靄のような不安がじんわりと広がっていく。
「おお、そうじゃ。祠の話ではないのか? あれの始末、人間は困ろうに」
童女の発言に心臓が跳ねた。
祠といえば、八栄に思い当たるものはひとつしかない。
少女は不思議そうに小首を傾げている。
「どの祠だ?」
「昭が、狐憑きに効く札が欲しいと、もらいに来たろう。その行く先よ」
「ああ、あれか。あの札は、秩父の御眷属を借りてきたものだから、もらうのとは少し違うんだが……」
言葉を切って、少女は改めて童女をうかがう。
「やけに詳しいな?」
「おぉ。昭の持ち込む面倒の事前調査のつもりで、様子を見に行った。どんな狐がおるのかと思っての。そのあと、昭にくっついても行ったが。その家に、この娘がおった」
「……リツリ。暇だったんだな」
「おまえほどではないぞ」
すました童女に吐息を向けて、少女があごに手を添えた。
「まぁ、いい。さて、あの札がどれほど効くものか」
「え? 効かないんですか、お札って」
どういうわけか吉田の事情を語るふたりを前に、落ち着かなげに座していた八栄だったが、さすがに聞き咎めて身を乗り出す。
「狐憑きなら、効くかもしれない。もっとも、そこいらの狐に憑かれたというのであれば、少々乱暴だが辻で放り投げれば狐が逃げ出す。しかし実際には、そうないことだ。狐に憑かれたと言っても、何か精神的につらいことがあった場合の錯乱状態が大半。それは医学の領分だな」
他人事なのだから仕方がないとはいえ、どうでもよさそうな言い草に、八栄の口調がかすかにきつくなる。
「錯乱なんかしてません。ずっと寝たきりで、半開きの目で、このままじゃお嬢さまはどんどん弱っていくだけです」
「わたしに言われても困る」
「いいんです。どうせ夢なんだもの! 話くらい聞いてください」
そして内側に溜まっていたものを、勢いよく吐き出した。
「やっぱりお富さんが言うように、祠を壊したのが悪いんです。奥さまのなさったことですけど! きっと狐が祀られていたのね。お嬢さまにコックリさんをやろうって言われたときにも、断るべきだったのよ。たぶん、あれも原因のひとつなんだわ。マカミはやめろって言ってる感じだったのに、断り切れなくて。マカミが何かするわけない。いままでだって、何も悪さなんかしなかったもの。ずっと一緒にいてくれただけだもの。そうよ、狐よ。お嬢さまには狐が憑いたんだわ。落とさなくちゃ!」
言い切って肩を上下する八栄に、相も変わらず少女がなんの興味もないふうに応じる。
「コックリには、狐狗狸という字を当てる。まぁ、狐が憑くというのもあるかもしれないな」
「やっぱり!」
「そのマカミとやらが止めたのなら、それを聞くべきだった。以前にも流行ったことがあるが、問いの答えとして勝手に手が動くのは、別に神さまが降りてきて教えてくれているわけじゃない。知らぬうちに自分で動かしているか、さもなければ人間をからかって遊ぼうとしている連中の仕業で、それこそ下手をすれば面倒なことになる」
「十分面倒なことになってます。お嬢さまが大変なんですから」
もう二度とコックリさんには手を出さない、と八栄は心に決めていた。
「だが、そうそう簡単に面倒事に発展するものでもない。あちらこちらの女学生がおかしくなったという話は聞かないからな。となると、祠のほうも気にはなる。その奥さまとやらが、祠を壊したのか?」
「必要ないでしょう、って、旦那さまを説得したんです。壊したというか、撤去? 旦那さまはああいうものをあまり気にしない方なので。喜助さんがどかしたんですけど、嫌がってました。でも。……先代さまが、大切にしていたそうなんです」
別に邪魔にもならないと思うんだけど、とそれでも使用人の立場から小さく非難する八栄に、少女は苦い笑みを浮かべる。
「迷信を否定することが文明だと思っている連中もいるからな」
「……そんなの、おかしいと思います」
確かに意味のない馬鹿げた迷信もあるだろう。けれど、伝わる中には、伝わるなりの大切なものが込められているはずなのだ。それは自然への感謝かもしれないし、ひとへの思いやりかもしれない。
忘れてはいけないものだ。
「なんにしろ、祠を片づけることにした、思い切るきっかけがありそうなものだ。その前後に何か変化はなかったか?」
問われて八栄はやや考え、ひとつ心当たりが浮かぶ。
「……先代さまの遺品の片づけをなさっていたような……。書物とか、お手紙とか」
「ではその中に、何か祠があっては不都合なことでもあったのかもしれない」
「あると不都合な祠、てどんな祠なんですか?」
「わたしが知るものか。直接、奥さまとやらに聞くんだな」
「そんな失礼なこと……。それに、聞いたところで教えてくれるかどうか……」
「それはおまえの問題だ」
突き放したような言い方だが、少女の一蹴ももっともではある。
智津には、真希の快復のためだと訴えれば答えてくれるかもしれない。だが祠の件など、まったくの見当違いという可能性とてある。そうなった場合、八栄は非常に気まずい思いをする羽目になる。
八栄はうなだれて、膝の上に拳をのせる。その耳に、少女ののんびりとした問いが届いた。
「祠の件はひとまず横へおいて。はっきりしている問題は、その狐憑きのお嬢さまとやらだろう。おまえはその娘をどうしたいんだ?」
「助けたいに決まってるでしょっ!」
顔を上げ、思わず噛みつくように言い返す。こんなふうに感情にまかせて大声をあげたのはいつ以来だろう。
「決まっているのか?」
「そうです!」
「どうして? 主人一家の娘だからか?」
不覚にも、八栄は一瞬黙り込んでしまった。
真希は吉田家の、奉公先の大切なひとり娘だ。先の時代の、主人を第一として考える主従関係は、近頃薄まってきているとはいえまだ色濃く残る。
滅私奉公や使用人根性という言葉が八栄の脳裏をよぎった。
けれど、そういう理由ではないのだ。
だが正直に話すには、夢の中の見知らぬ少女が相手だとしてもためらわれた。
「――ひととして、困っているひとがいたら、できることはしてあげたくなりませんか?」
「ひとそれぞれだとも思うが」
「そうでしょうか」
「傷口に塩を塗って喜ぶやつもいる。人間とはそういう生き物だ」
「でも、親切なひともたくさんいます」
「だから、ひとそれぞれだと言っている」
平行する意見を重ねるふたりに、童女が渋い顔で割って入った。
「ああもう! つまらん、いい加減にせい! 重い会話は嫌いじゃ。それに茶が冷める」
これで我に返った八栄は、むきになったことが急に気恥ずかしくなって、それを隠すために俯き加減で手を伸ばす。
「いただきます。……あれ?」
指先が、湯飲みを素通りする――透けていたのだ、手も、足も、身も。
自分の体越しに少女や部屋が見えて、八栄の背筋に冷たいものが伝った。