土門青年
虎ノ門と芝公園のちょうど真ん中ほどに、吉田の家はある。
周囲の家屋敷と比べて――内側を覗き見ることはできないので、外観から想像するだけなのだが――建物自体はさほど大きくはないにしても、敷地面積は相当なものであった。
そしてその庭は、風流な日本庭園といった趣ではなく、雑然とした広いものだ。
五年前に亡くなった先代は、故郷である信州の山を再現したかったらしい。
山から持ってきた楓や松や桜を植え、鳥が運ぶままの草花が咲く。とはいえ、道とおぼしきところの草は抜いてあり、歩けないわけではないが、小さな雑木林そのものであった。
竹箒に寄りかかるようにして、八栄は庭に立っていた。
この庭のしつらえは八栄にとっても懐かしい景色なのだが、秋が深まり行くにつれての自然現象は、労働意欲を試されているとしか思えなかった。
「掃いても掃いても、終わらない……」
次から次へと舞い落ちてくる赤や黄色に染まった葉は季節を感じる雅なものだが、きりがないとはこのことだ。庭掃除は本来喜助の仕事だが、珍しく手の空いた八栄が手伝いを買って出ていた――けれど、少々後悔がないでもない。
はらはら散る葉を目で追いふと首を巡らせると、祠の跡が目に付いた。
石造りの小さな祠はすでになく、むき出しの地面がその名残をとどめる。
ここにあったところで、さして邪魔になどならなかったろう。八栄は味噌を上げたことはないから、先代の逝去後はずっと放置されていたに違いない。
(放ってあったものを、どうして急に?)
訝りながらも、再び竹箒を動かしはじめたときだった。
「ふうん。なるほどのぅ」
唐突に聞こえた声に驚いて振り向けば、小花を散らした赤い着物が視界に飛び込んでくる。六、七歳ほどのおかっぱ頭の女の子がひとり、しかつめらしく腕を組みそこに立っていた。
どこから入ってきたのだろう。今日は来客の予定があったろうか。
八栄の困惑など知らぬげに、童女は大人びたふうに続けている。
「きちんと守っておれば、ややこしいことにはならんかったものを。これからこういう面倒が、あちらこちらで増えそうじゃな」
「あの、お嬢ちゃん……?」
「んん?」
顔を上げた童女は八栄をまじまじと眺めてから、にこりと笑った。少々細めの目がさらに細くなるが、桃色の頬をした愛らしい童女だ。つられて笑い返したものの、続いた童女の台詞はとても笑えるものではなかった。
「妙な遊びがまたぞろ流行っているようじゃが、あれはよくないぞ。王子には暇な連中がおる。気をつけい」
忠告に目を見開いた八栄は、言うだけ言って去っていくその小さな背中を、ただ呆然と見送った。
◇ ◇ ◇
真希が寝付いてから五日経とうとしていた。意識があるのかないのか、目は半開きのままどこを見ているともしれない。口に重湯を運べば飲み込むので、辛うじて命は繋げているという感じがする。医者は入院を勧めるが、吉田夫妻――ことに智津が首を縦に振らない。女親として娘の評判を気にしているのか、原因がわからないのだから入院させたところで同じこと、というのがその言い分だった。
令嬢がそんな状態でも、時間は常と変わらず流れていく。
鞄を提げた郵便配達夫がせかせかと通り過ぎ、お使いの途中らしき大きな荷物を背負った少年が息をつきつつ足を動かす。そんな忙しない人間を後目に、尻尾をぴんと立てた三毛猫がゆうゆうと歩み去る。
格子戸の玄関先で八栄が水を撒いていると、立ち止まる足があった。縞柄の袴からのぞく黒い足袋に下駄、視線を上に向ければそれには見知った顔がついていた。
「やぁ、せいが出るね、八栄ちゃん」
「佐藤さん」
佐藤遼太郎は、岡野医師の家に下宿している医学生だった。
岡野医師の縁者で、ゆくゆくは養子になり跡を継ぐらしい。いまは荷物持ちをしたり薬を届けたり、細々したことを手伝っている。もとは農家の出身だそうで、がっちりした体に無骨ながらも優しい面差しをしていた。
にこやかに出迎えた八栄だったが、その背後の人影に気づき笑顔が微妙に固まる。
遼太郎と同年代だろう、長身に深い藍色の着物をまとっている。煙管をくわえ、片目にかかる長めの前髪が、どこか遊び人の風情である。
内面外面ともに生真面目な遼太郎とは、少々不釣り合いな組み合わせにも思えた。
目が合うと、青年は意外なほど懐っこい笑みを浮かべる。
「ここの女中さん? 藍色のリボンがよく似合って、可愛らしいねぇ」
たちまち八栄の頬が染まった。社交辞令としてもそんなことを言われたのははじめてで、とっさに対処できずにいると、遼太郎が呆れたように青年の肩をぽんと叩く。
「……土門。純情な娘さんにちょっかいをかけるな」
「失敬だな。本当のことを言っただけだ。そもそも愛らしいものは愛でるためにあると思わないか? 大体おまえだって足繁くここに通うには、それなりに愛でるものがあるからだろう。なぁ、佐藤?」
「な、ななな何を馬鹿なことをッ。そんなことより、どうなんだッ?」
動揺もあらわな遼太郎に、土門青年は涼しい顔をして、ついと屋敷を眺めやった。この位置からでは庭木しか見えないのだが、青年は軽く目を細め、しばしそうしてから口を開く。
「まぁ。家がどう、という感じはしないな」
そうか、と安堵とも落胆ともつかぬように呟き、遼太郎は物言いたげに八栄を向く。
はっと我に返った八栄は、自分の仕事を思い出した。
「あ、す、すみません。中へどうぞ。奥さまにお知らせして参りますから」
「いや、今日は伯父の用事じゃないんだ。きみに会えてよかったよ」
とくんと高鳴る鼓動を、八栄はなだめるようにそっと息を吐く。
「あたしに何かご用なんですか?」
「うん、その、狐憑きに効果のあるっていう、お札を手に入れたんだ。真希さんの近くに、忍ばせられないかと思って。吉田さんはこういうの嫌いだろう? もちろん、うちの伯父や助手にも言えることじゃないんだけど、もう藁にもすがるような気持ちで……」
仮にも医者を志す者がこんなではいけないとは思うけれど、と口重に話す遼太郎から、八栄は手を伸ばしお札を受け取る。
(佐藤さんは、本当にお嬢さまが好きなのね)
そして真希も遼太郎のことを憎からず思っている。吉田家の令嬢として縁談がないわけではないが、真希はなんのかのと理由をつけはぐらかし、断り続けていた。医学生である遼太郎の前途は有望だし、人柄にも問題はない。その気になれば、吉田夫妻を説き伏せることも容易いだろう。
そうなれば、似合いの一対だと思う。
「お嬢さまの枕元に置くようにしますね」
「うん、そうしてくれると……。知られて叱られそうになったら、ぼくのせいだって言ってくれて構わないからね」
八栄に迷惑がかからないよう、そう遼太郎は気遣ってくれる。八栄はくすりといたずらっぽい笑みを口元に乗せた。
「枕の下に置きます。そうすれば見つかりにくいですよ」
「ありがとう」
「あたしも、お嬢さまには早く元気になってももらいたいですから」
それは本心だった。気持ちの混乱などないはずだった。
遼太郎を見ていればわかることだ。
真希との会話はどこかぎくしゃくとして、肩に妙な力が入っている。
八栄相手ではそんなことになりはしない。郷里にいる妹を思い出すよ――とはじめて会ったときに遼太郎から言われた。吉田家に訪れるたび、八栄を見かけるたびに、元気かい、と笑いかけてくれる。
それで十分だと思った。こんなふうに八栄を気にかけてくれるひとは、いなかったから。
小さな痛みとほんのりした温かさを抱えて、八栄は目の隅に映った赤い影に気づく。
「あ、お嬢ちゃんは……? このあいだ祠のところにいた子ね。佐藤さん、お知り合いの子ですか?」
富に確認してもあの日に来客はなく、近所の子供が入り込んだのだろうと思っていたのだが、岡野医師の関係者だったのか。
「え……?」
土門青年が八栄の視線を追って、自分の腰のあたりをひきつった表情で見下ろしている。
「八栄ちゃん? 誰のことを話してるんだ?」
同じくその視線を追い、そしてまた八栄に戻した遼太郎の笑顔は、いささかならず強張っていた。
八栄ははっとして口をつぐむ。
(……あたしにしか、見えない子だったんだ)
どうしよう、という言葉だけが頭の中をぐるぐると巡る。
「い、いえ、あの、これはお預かりしました。では失礼します!」
取り繕うことさえできずに、八栄はその場を逃げ出した。
とりあえず一章分終了です。
このあとは、水曜日と土曜日の昼の12時の投稿になる予定です。
しばらくおつきあいいただけると嬉しいです。