八栄とマカミ
後ろの髪は明るい藍色のリボンで結わえてあるが、前から見ればおかっぱ頭に見える。
徐々に俯いていく顔の左右を覆うように、その髪も揺れる。
八栄は皿を持ったまま、ため息を漏らした。
それに気づいた富が、同じように吐息混じりで注意する。
「八栄ちゃん。手が止まってるよ」
「あ、す、すみません」
「お嬢さまの具合、お医者さまにも原因がわからないそうだね?」
布巾で皿を拭きながら、その問いに八栄は小さくうなずいた。
つい先程、この家の主治医である岡野医師は、難しい顔で帰って行った。
「――病じゃないのかもしれないね」
周囲を憚るようにそう呟く富は、ここ吉田家の家事をしきる四十歳過ぎの女中だった。
先代の頃から勤め、嫁ぐために暇をとったものの、二年と経たないうちに夫と死別し、またここで働くようになったと聞く。
先代にも当代にも感謝しており、長いこと勤めているので、この家の事情には詳しかった。当代である吉田秀継のことも幼少から知っていて、時折、『坊ちゃんはね』と懐かしそうに昔話がはじまるのだ。
他の使用人として、下働きに喜助という男性がいる。
五十歳ほどで、若い頃には住み込んでいたようだが、所帯を持ってからは通いになったらしい。三人の息子はすでに立派に成人して、それぞれ独り立ちをしているそうだ。孫もいるのだから楽隠居すればいいのに、と富にからかわれるたびに、ここの先代にはお世話になったから、と生真面目に返す。
八栄にしてみれば体つきの大きな喜助はまだ十分に若々しく、祖父という言葉がいまひとつしっくりこない。
確かに年を追うごとに体は言うことを聞かなくなり重労働はきつくなるだろうが、頼りがいのある喜助が辞めてしまったら、富も八栄も、もちろんこの吉田の家族もきっと困るに違いない。
そして八栄は、そんなふたりに比べるべくもない若輩者だ。
吉田夫人智津と令嬢真希の小間使いとして、三年前から雇われているが、富ひとりでは手の回らぬ家事を手伝うことも多い。
八栄ちゃんが来てくれて本当に助かったわよ、と富は度々口にする。八栄の前にひとりいたそうだが、もっと給金のよい家にさっさと鞍替えをしてしまったらしい。
前の使用人との比較はともかく、そんなふうに認めてもらえることは、八栄も仕事の励みになった。
朝食の支度にはじまり主人たちの寝床の準備まで、肉体的に仕事は辛いながらも、居心地は決して悪くはない。
秀継は、気さくとはほど遠いにしても理不尽な言動はないし、箱入り娘の真希は今時の女学生を地でいっているが、世間で批判されるような鼻持ちならないふうはなく、裏表ない人当たりの良い娘であった。ただしいて言うならば、大きな酒問屋の娘だったという智津が、多少神経質なところだろうか。いまだ新しく雇った八栄に心を許していないふうがある。見ず知らずの他人を信用するには時間もかかるだろうし、若い使用人に侮られないように必要以上に気を張っているのかも知れない。
富は声を落として、密やかに続けていた。
「あたしが子供の頃に、近所の小母さんがあんなふうになったことがあったのよ。その小母さんには狐が憑いてた。お嬢さまも、狐憑きかもしれないよ」
「狐憑き……」
憑き物といっても様々にあるが、概してどれも評判が悪い。世間から白い目で見られることは確実であり、親類縁者はそれをひた隠しにするものだ。
もし治らなければ、真希はこれからどうなるのだろう。
「あ。あぁ、ごめんごめん。狐が憑いたなんて、昔の、しかも田舎の話だもの。お嬢さまの病はきっと岡野先生が治してくださるよ」
顔を曇らせた八栄を、富は慌ててそう慰める。
八栄は、真希と仲が良かったから。
それはもちろん、令嬢と小間使いといった、主従関係の上での親密さではあったけれども。
あんたは優しい子だねぇ、と付け加えた先輩女中に、八栄はぎこちない笑みを浮かべるしかできなかった。
八栄の心配は、優しさからではなく、やましさからくるものであったからだ。
(お嬢さまの病はあたしのせいかもしれない。本当に狐が憑いているのかもしれない。それに、マカミがお嬢さまの部屋の前に陣取っていることが多いのはなぜ?)
誰にも相談などできるはずもなく、八栄はまたため息を繰り返す。
マカミとは、狼の名前だった。そしてマカミは、八栄にだけ見える狼だった。
あれは十歳になるかならず――五年ほど前のことだ。
ある日ふと、後ろをついてくる獣に気がついた。小学校の登下校のときも、お使いのときも、朝も夜も変わらない。母が亡くなった直後に同じようなことがあったが、それはもっと遠くからうかがっているだけで、こんなふうにすぐあとをつけては来なかった。
その頃にはもう祖母も母も亡く、身を寄せていた叔父の家では、八栄は厄介者でしかなかった。
従兄弟にあたる子供たちが五人おり、叔父は自分の家族を養うのに精一杯だった。
労働力になるとはいえ、八栄は同年代の少女たちと比べても体つきが小さく、さして役に立ちはしない。どれほど頑張ったところで、叔父夫婦は満足しなかった。
さらに八栄には奇妙な発言が多かったことも、それに拍車をかけていた。
八栄は八栄にしか見えないモノを見ることがあった。
山にも川にも人里にも、時々姿を現すおぼろげなモノ。それらには名があったのかも知れないが、八栄にはわからない。
叔父や従兄弟や周囲の人々にいくら言っても信じてはもらえなかった。
嘘つきと罵られ、さらに言い募れば奇異な視線を向けられる。
八栄はだんだん無口になっていったが、叔父一家はそれさえ気に入らなかったようだ。
そしてあとをついてくるその獣も、八栄にしか見えないモノだった。
こういう存在に無闇にかかわるものではないよ、と祖母は口を酸っぱくして言っていた。
理由を問えば、それは恐れるものであって親しむものではないからだ、と答えがあった。
もっとも八栄は生来怖がりで、祖母に言われるまでもなく、見えるだけでも相当怯えていたのだから、好き好んで近寄ろうとは思ってはいなかった。
ただ母はまた考えが少し違っていて、八栄が大きくなったら教えてあげるから、と笑っていたが、この世でのその機会はもはや永遠に失われてしまっている。
だからいま思い出されるのは、自分の感情と、祖母の教えだけだ。
あの獣は、恐ろしい。
そしてどれほど恐ろしくても、八栄ひとりで対処しなければならなかった。
なるべく見ないようにしていた。意識しないようにしていた。関心を払わないようにしていた。
けれど毎日毎日あとをつけられ、それが続くことに耐えられなくなったとき、とうとう祖母の言いつけを破ってしまったのだ。
自分に何かあっても、きっと誰も悲しまない。自分に何が起ころうと、きっと誰も気にしない。
そんな後ろ向きな思いが高じて、八栄は半ば自暴自棄にもなっていた。
開き直ったような覚悟を持って向き合ったにもかかわらず、獣は唸るでも牙を剥くでもなく、ただ八栄を見つめているだけだ。
泣くとも怒るともつかず顔を歪めていた八栄だったが、獣をよくよく眺めてみれば、それは母が生前に『マカミ』と呼び、餌を与えていた狼であった。
わずかに気が抜ける中、八栄はあることを悟る。
母が世話をしていたとき、マカミはみなに見えていた。『自分の食い扶持もままならんものを』と母に対する陰口が聞こえてきたのだから。
『……おまえも、死んでしまったの……?』
それがいま、八栄にしか見えないというのであれば、きっとそういうことなのだ。
他のモノと違って、随分はっきりと姿が見えていることが不思議だったものの、もはや少しも恐ろしくはなかった。
幽霊を見たのは、はじめてではない。しかし数日のうちにみんな見えなくなってしまう。早ければ亡くなってから七日目――三途の川に到着したときか、遅くても四十九日目――浄土に行けるかどうかが決まる最後の裁きの日には。
人間ではないが、マカミも――狼の霊もそうなのだろうか。
ふいに母が話してくれた『送り狼』という言葉を思い出した。
それは、夜道を送ってくれる親切な――まったく違う伝承もあるが――狼の話だ。思えば、母が亡くなったとき、遠くから見ていた獣もマカミであったのだろう。
あの家でひとりで生きていくのに必死で、気を回す余裕はなかった。
それにマカミが懐いていたのは母だけで、八栄の手からは決して餌を受けようとはしなかった。とはいえ、母といた日々を思い出し、胸に迫るものがある。
母を亡くしてから、この狼はどうしていたのだろう。
『……マカミ?』
八栄が恐る恐る手を伸ばすと、狼は受け止めるかのように少しだけ首を傾げたが、その手は何も触れることなく、すり抜けてしまった。
自分の手とマカミの姿を見比べているうちに、八栄の目から涙が溢れて止まらなくなった。
触ることのできない存在になってしまったことが悲しかった。見知ったマカミが帰ってきたことが嬉しかった。そして二ヶ月が過ぎても、マカミが消えることはなかったのだ。
以来、マカミは八栄の唯一の友人になり、常にそばにいてくれた。危ない目にあったことなどなかった。むしろマカミがいるようになって、他の妖しい存在を見る回数は減ったほどだ。
どこへ行くにも一緒についてきて、この屋敷にもともに来てくれた。
「あたしのせいじゃないよね。マカミのせいじゃないよね」
誰の耳にも届かない声に、同意も否定もあるわけがなかった。
◇ ◇ ◇
味噌汁の出汁をとり、南瓜の煮物の味見をする。
そんな夕食の支度をしながら、まるで天気の話でもしているかのように富はさらりと口にした。
「あたし思ったんだけど、お嬢さまのあれは、祟りかもしれないよね」
「た、祟り?」
八栄はぎょっとしてあやうく盆ごと茶碗を落とすところだったが、富はお茶目に肩をすくめる。
「なんてね。このご時世に祟りなんてあるわけないか」
「や、やだ、もう。富さん……」
狐憑きだの祟りだの物騒な発言が続き、さすがに八栄の目元にも恨めしげな色がにじむ。
「ごめんごめん。そんなに驚くなんて思わなかったよ。でも奥さまが祠を壊してしまったから、あれはどうなのかと思ってねぇ。あの祠は先代さまが建てたものだったのにね」
それは庭の隅で、忘れ去られたように風雨にさらされていた小さな祠のことだった。
「冗談はともかくとして、お医者さまで治らないんじゃぁ、お坊さんとか神主さんとか、呼んだほうがいいんじゃないかしらねぇ」
どきどきと鳴る心臓を必死にしずめて、八栄は平静を装った。
「で、でも、旦那さまは、そういうことがあまりお好きじゃないみたいですよね」
「そうなのよ。先代の政秀さまは結構大事にしてらしたのに」
いささか非難がましい富の口調には気づかなかったふうに、そういえば、と八栄が問う。
「あの祠は、何が祀ってあったんですか?」
「え? お稲荷さんでしょ? 狐じゃないの? あたしはてっきりそうだと思ってた。あらでも、お供え物は味噌だったわねぇ」
「味噌? 油揚げじゃなくて?」
富は味噌汁をかきまわしていたおたまを持ってうなずく。
「そうそう、味噌だった。あら? お稲荷さんじゃなかったのかしら?」
稲荷であれば使いは狐で、お供えは普通は油揚げのはずだ。
それとも八栄が知らないだけで、味噌を供えることもあるのだろうか。
(もっと色々知っておくべきだったのね、きっと)
そう口惜しく思う。
妖しいモノのことについて、知っておけば、少しは真希のこの状態の助けになったかもしれない。
しかし祖母や母が生きていたならともかく、叔父の家でそんな勉強などしようがなかったと、八栄は誰かに向かって言い訳をする。
自分にしか見えないモノを見て、闇にうごめく形さえ定かではないモノを見て、それを口にするたびに、誰も彼もが胡乱な眼差しを向けてくる。
そして近くには誰もいなくなった。
母も、余人には見えないモノを見るひとだった。
大昔であれば、それなりに畏敬の念を持って扱われたであろうが、いまの時代にはそぐわない。
見えるモノについておいそれとしゃべってはいけないよ、と祖母も母も言っていた。あれはこういう意味だったのかと、ひとりぼっちになって八栄はようやく理解した。
マカミを傍らにこの家に勤めるようになって、まったくと言っていいほどそういうモノを見なくなっていた。
思春期が過ぎる頃になれば見えなくなるかもしれない、と母の言葉通り、見えなくなったのだと安心していた。
(でも、そうじゃないのよね。だってマカミははっきり見えるんだもの。……それに、見えてしまったもの)
ここには八栄が知っているひともいない代わりに、八栄を知るひともいない。
働けば、お金がもらえる。普通と違うおかしなことを言わなければ、みなと一緒に平穏に過ごせる。
ひとりにならずに、すむ。
「…ちゃん。八栄ちゃん!」
「あ、はい!」
「ぼけっとしてないで、お膳の用意して」
「はい、すみません!」
真希は病気だ。きっと岡野医師が治してくれる。
あのとき見たモノは何かの見間違いだと、八栄は自分に言い聞かせた。