リツリの縁
終章
誰彼時だの大禍時だの、その呼び名を考えたひとはよほどの粋人だったに違いない。
「最近、八栄が来んのぉ」
山間に沈む夕日を眺めながら、縁側に座り足をぷらぷらさせていたリツリが、つまらなさそうに口を尖らせている。
矛先が向きそうだとみちるが密かに吐息をついたと同時に、案の定リツリが振り向いた。
「おまえ、気にはならんのか?」
「ならない」
ひと言で応じるや童女は室内に入り込み、みちるの脇に憤然と仁王立ちになる。
「おまえとてかなり熱心にやっていたではないか。なぜ気にならんのじゃ! 八栄が可愛くないのか!?」
「……おまえが日頃当てつけるように、暇だったからだろうな? なぜと言われても困るし、あの娘が可愛いか可愛くないかは、どうでもいい」
「つ、冷たいやつじゃ。八栄は可愛いぞ!」
この童女はひどくあの娘を気に入ってしまったようだ。見えたからだろうか。話せたからだろうか。構ってくれたからだろうか。おそらくそのすべてなのだろう。それらを満たすことができた存在は久しくなかったから。
おまえがそれほど冷血漢とは思わなんだ、と延々続くリツリの非難に、みちるは辛抱強く相手をする。
「佐藤某経由で昭から聞いたろう? 令嬢はよくなっている。あの娘が気に病んでいた問題は解決したんだから、平穏に暮らしているはずだ。どこが不満だ?」
「我は八栄と遊びたい!」
珍しく地団駄でも踏み出しそうな主張に、みちるはひとつ提案をする。
「あの家まで遊びに行けばいいだろう」
「八栄は仕事中じゃ。邪魔をすれば八栄が困ろう。我はちゃんと気を使える!」
拗ねたように両足を投げ出して座り込み、リツリは再び夕空を見上げて黙り込んだ。
下弦に向かっている月は、いまだその姿を空に見せてはいない。
椋鳥の群れが動く模様となり、空が茜色に染まりつつある中、何やら浮かれた気配が溢れはじめていた。
今日は霜月、辰の日だ。
『今宵は夜行日じゃの!』
『行くか!』
『久しぶりに血が騒ぐぞ!』
『むむ、血が流れておるのか?』
『わしには流れておる!』
『ううむ、わしはどうじゃったかの?』
『細かいことじゃ! どうでもよい』
『そうじゃそうじゃ、どうでもよい』
『さあ、行こうぞ!』
意味があるのかないのか、鬨の声にも似たどよめきとともに、その気配はわさわさと動き出す。
「気楽なやつらはよいの」
それを見送ったリツリが、八つ当たり混じりにふんと鼻を鳴らした。
「旧暦でいえば今日はまだ長月じゃ。とすれば、未の日に出かけるべきではないのかの」
「細かいことは気にせずに、楽しく過ごせれば、それが一番なのだろう」
「――ほう。楽しく、のう」
リツリは意味ありげに呟いて、書き物をしているみちるの手元を覗き込んだ。
「そうは言うても、百鬼夜行じゃぞ。止めんのか?」
「うちの連中なら、何をするでもないだろう。どうせ今時、あれを見ることができる者もそうはいない」
「ふうん。で、おまえは我の話も片手間に、さっきからずーっと益体もない書き物に夢中で」
「随分な言われようだな。おまえの話はちゃんと聞いていたし、これはおまえが大層気に入ったあの娘がかかわった妖しの件を書きまとめているんだ」
放っておけば、きっと人間は闇を忘れてしまう。光が増えれば、闇も増える。決して消えることはないというのに、ひとは勘違いをするのだろう。闇を駆逐したと。恐れるものはないと。
それはひどく危ういものに思う。
「今回の管狐の件も興味深い。記憶に新しいうちにまとめておこうと思ってな」
「年寄りくさい事じゃ」
「百年単位で存在しているモノに年寄り扱いはされたくない」
「言うておれ。我も出て来るぞ!」
ぽんと庭に降りて姿を消したリツリの背を、物珍しげに見送り、みちるは再び筆を執る。
とりあえずわかる範囲のことだけになるが、管狐のこと。みちるのもとに二方向からきた話。あの家が管狐を手に入れた経緯。その中に出てくる人物たち。
さらさらと、流れるように文字をつづる。
「……管狐に憑かれながらも、腹違いの妹だと思いこんでいた叔母に危害を加えることを必死に拒んだ結果、寝たきり状態になったと……」
根拠の乏しい憶測でしかないが、なかなかに的を射ているとみちるは思う。そうでもなければ、憑かれてすぐに、憎む相手に襲いかかっていたことだろう。守の狼がいたところで、まったく手出しをしないとは考えにくかった。
「おもしろい……」
登場するふたりの娘は、随分屈折した思いを抱えながら、お互いを大切な存在だと位置づけていたようだ。
「年上のほうが知らないが、年下のほうは色々考え込むきらいがあるようだから、自覚はないんだろうな」
いつかまた機会があったら、教えてやろうかとも思う。だからこそ、この家に辿り着いたのだろうから。
細い肩を震わせて、みちるにしがみついてきた少女。妖しい存在を見るのは己だけではないと、安堵に泣いた少女。救いをもとめて、みちるを怒鳴りつけた少女。
太いのか細いのかわからない神経の持ち主だが、知らないということが命取りになる場合もある。見える目を持つのが自分だけではないというだけで安堵していたが、このままではいささか将来が心許ない。
「……わたしが案ずる義理もないか。あの狼もついていることだ」
リツリにはああ言ったが、気にならないわけではない。ひとと異なるということは、良いことでも悪いこともで、代償が必要になる。けれど見える以外はごくごく普通の少女だ。このまま平凡に暮らしていければ、それが何より幸せに違いない。
縁があれば、またまみえることもあるだろう。
そうして気づく頃には、夕闇はとうに星の瞬きに変わっていた。
どうりで暗いはずだと呟き、同じ体勢を続けていたために強張った体をほぐそうと伸びをしたとき、届いた悲鳴と怒号に嫌な予感を覚えて立ち上がる。
門前に出てみれば、何やら鼻息を荒くしているリツリの横で、蒼白な顔をした八栄がへたりこんでいた。
「……ここで、何をしてるんだ」
「腰が、抜けました」
おそらく百鬼夜行を見たのだろう。
「状況を聞いているわけじゃないんだが……」
「おぉ、我が連れてきた!」
得意そうなリツリに、八栄が言い足す。
「け、桂庵に、行こうと思ったんです」
「桂庵? 職業紹介所か?」
「はい。日本橋のほうには、そういうお店があると聞いたので、そちらに向かっていたんです。でも、マカミが袖を引くので、それについて歩いていたら、リツリちゃんに会って」
いつの間に自己紹介を終えたのか、八栄とリツリはかなり親密そうである。
吉田邸と日本橋とこの家を、線で結ぶと割と大きな三角形ができるし、歩けば相当距離もある。どこをどう通って来たのかは、八栄に聞いたところで答えられはしないだろう。
この恐がりな娘にとっては、幸いなことかもしれない。
「中へ入るがよいぞ、八栄。早う」
童女の誘いに、八栄がみちるを見上げる。
どうぞ、とみちるの唇がため息とともに吐きだした。
どうやら縁を強引に引き寄せたリツリが、勝ち誇ったようにみちるの脇を通り過ぎる。
いつかの機会は、思いの外早くやって来そうだった。
次が最終回になります。
よろしくお願いいたします。