序章
前作に続き、某小説賞落選作品です。
完成度等の諸々の問題はご了承いただけると幸いです。
序章
彼は縁側に座って、見るともなしに外を見ていた。
ここ信州は彼の故郷である。
母を幼い頃に亡くし、継母とはそりが合わなかった。
一代で財を成し従うことだけを命じる厳格すぎる父に反発しながら、それでも長男という立場は変わりなく、彼はその家の跡継ぎのままだった。
結局、継母には子ができず、父が亡くなり財産もろとも家を継いだ。
継母にも不自由のない暮らしをあてがってから、彼は故郷にあるすべてを捨てるように東京に出てしまっていた。
いまではもう、辛うじて血が繋がっているだけの、他人のほうがまだ親しみやすいような縁者しかここにはおらず、さして良い思い出などないというのに、心の奥底で焦がれるのはこの場所だった。
彼が欲したのは、母の優しい腕があり、父の本性を知る前の、穏やかな日々の情景だ。
その望みのままに、手放した生家によく似たこの家を手に入れた。
思い出の通りに里山は四季折々に美しく、中でもこの初夏の頃が一番好きだった。吹き抜ける風は爽やかに、木漏れ日と遊ぶ。薄紫の藤が垂れ下がり、朱色の山躑躅が緑の中に彩りを添え、通草は蔓を伸ばして、足元には白い鈴蘭が揺れる。
それは、憧憬する幼い頃の幸せな時間。
視界に広がる至福の景色に、彼は満足していた。
けれどあるとき、その中に不釣り合いな存在がふたつ割り込んできた。
まずひとつ目は、一見したところ薄汚れた野良犬のようにも思えた。
だが改めて見ると、それは犬ではなかった。白灰色の毛並みはともかく、尖った顔に小さな耳、長い四肢は、狼のものだ。
『よくないモノを持ってますね、旦那さん? この子がこんなに落ち着かないのは、そうあることじゃない』
そしてふたつ目――未婚らしい島田髷に、鼠色の少々くたびれた小紋を着て、二十歳は過ぎているだろう――彼女は、初対面だというのに見透かしたようにそう言った。
不愉快な指摘とともに、彼はたちまち現実に引き戻された。
『ああ、この子が気になりますか? 何も悪さなんかしませんよ。それにほら、白い毛並みが綺麗でしょう? 山の神さまのお使いだと、あたしは思ってるんですけど。でも、鉄砲でいつか撃たれるんじゃないかと心配でね。赤ん坊の頃からあたしが育てたもんだから、いくら言っても山に帰りゃしない』
狼を従えた彼女の荒っぽい明るさには驚きもしたが、次第にそれは好ましいものに変わっていった。
本当はとても繊細で、無理に元気に振る舞っていたのだと知ったのは、随分経ってからのことだ。
『旦那さんは運がいいよ。あたしたちに会ったんだから』
屈託のない笑顔は遠い記憶だが、言われたことは確かにその通りなのだと、彼はいまでも思う――。
◇ ◇ ◇
あの初夏の日はもう何年も前のことだ。
病みやつれているものの六十歳前後とおぼしき男性が、急速に薄暗くなる部屋の中、うっすらと目を開けた。
枕元に四つ足の獣が行儀良く座していることに気が付いて、目元を和ませる。
「……おまえ、そこにいたのかい……」
晩秋の山の夜は早い。あっという間に日は隠れ、あっという間に闇が落ちてくる。
がさりがさりと落ち葉が風に吹かれて散る音が、不吉な迎えの足音にも聞こえた。
伸べられた床に横になったまま、男性はいまだ夢の世界を漂っているかのように淡く自嘲する。
「はじめて会ったときのことを、思い出していたんだよ。……あぁ、それにしても。彼女は運が悪かったな……。わたしに会ってしまって……」
薄暗い中に光る獣の双眸は、その言葉を受け止めて、悲しみに揺れているようにも見えた。
「おまえとも、そろそろお別れか……」
力無く伸ばされた手は、慈しむように白灰色の頭を撫でる。
「おまえたちのおかげで、道を外さずにすんだというのに……。いや、外してしまったのか。彼女は、辛かったろうにな……。あぁ、おまえも、今度こそ、ひとりぼっちになってしまうのかね。あの子も、因果が返ってしまうのかね……」
とたんに生じた不満そうな唸り声に、男性は咳き込むような苦笑を漏らす。
「そうだな……。おまえが見ていてくれたんだった。では改めて頼もうか……。どうか、あの子を守っておくれ――」
数日後、その近隣の住民は明け方近くに、胸が痛くなるような獣の遠吠えを聞いたのだ。
主人公まだ出てきていません。
本日中にもう少し続きを投稿する予定です。
よろしくお願いいたします。