第一話 キメラ
夕暮れの赤い光に照らされ輝く、大きな身体と翼を持つ白い獣。
鋭く光る牙と振り上げられた爪がこちらへ迫る。
そうか、人類はこの化け物に敗北した。
成す術もなく蹂躙されて地上を捨てて空へ逃げたんだ。
しかし、ここでの平和も束の間の休息でしかなかった。
もう逃げることは叶わない。
他に安全な場所なんてどこにも存在しないのだから。
――
神世727年
―天空の大地ヲハニア 西領域 降下地点 上空3000メートル―
早朝、分厚い雲の中。
重力に身を任せ、両手両足を大きく広げ落下する集団。
茶みを帯びた深い緑の軍服で統一され、全員が同色の帽子と分厚いゴーグルを身に着けている。
その数は100を超え、大多数が真剣な面持ちである。
「ふぅ、やっぱり結界の外は少し冷えるね」
降下前列で呟く女性。
軍服は性別による違いがなく見た目に大きな差はない。
しかし、緩くにこやかな表情から察するに幾度も修羅場を潜り抜けたような余裕が感じ取れる。
「総員、錬成用意!!」
女性のさらに前、先頭の若い男が声を上げる。
「なッ…! まだ地上までかなりあるはずなのに…!」
初めて地上作戦に参加する者は実践と教本の違いにより不安に溺れることもあるだろう。
しかし、後列で細く漏れた嘆きが誰かに届くことはない。
「両翼錬成!!」
男の号令に合わせて、各員の背中に翼が展開される。
この翼は様々な鳥類を参考に、人が自在に空を泳げるように設計された翼である。
使用には複雑な操作と練度が必要であるが使いこなすことができれば空を我が物にできる。
翼を形成した”錬成”は自身のエネルギーを練り固めることで様々な物体を創造できる力。
女神から授けられし人類が天敵”キメラ”に抗う力である。
「お”ほッ……!」
翼を錬成した瞬間、女性の声が響いた。
「騒ぐな! キメラの餌になりたいのか?!」
先頭の男が背後へ顔を向けて叫ぶ。
「すまない、今のは私だ。
何度も経験しているはずなんだが降下中の使い始めはどうにも慣れなくてね。
声が勝手に出てしまう、これでもちゃんと抑えているんだよ?」
「では次からは勇ましい声でお願いします。
聞いていられませんので」
先頭の男から見て女性は上司にあたる。
しかし、キメラ討伐隊隊長という立場を任されている以上、規律は守らなければならない。
「あはは、善処するよ」
女性は笑顔で申し訳なさそうに答えた。
雲を抜けると、太陽が山と雲の間から顔を出し、その光で目が眩む。
「ギャオオーーン!!」
向かう先から聞こえる獣の雄叫び。
周囲に緊張が広がっていく。
「今日はキメラも早起きしているようだね」
「そろそろ見えてくるぞ、高層泥群だ」
地上には辺り一面に滞る濃密な霧。
そこからはみ出るほど大きい建物のような泥の塊。
この泥の高さは1000メートル以上、中は空洞で幾千ものキメラが生活する巣の役割をしているとされている。
「注目!!」
先頭の若い男は180度回転し、高層泥群を背に向けた姿勢で叫ぶ。
「地上奪還のためにはキメラどもを絶滅させなければならない。
これは我々の目的であり、人類の悲願だ。
これより東西南北4つの部隊に分かれ、それぞれ4頭のキメラを討伐、計16頭の駆除を目標とする。
新兵諸君はこの任務を完遂し生還した者のみ王都ゼントルム近衛兵の一員となれる。
我こそが王を守るに相応しい兵士であると、命を懸けて証明して見せよ!!」
「「「はッ!!!」」」
気合と覚悟のこもった返事を確認すると姿勢を戻し、続けて、
「総員散開、作戦開始!!」
竜巻のように整列していた集団が四方に分裂する。
翼を目一杯広げ全身で風を受けながら前の人を追いかけるように滑空していく。
「グルゥガアアア!」
北部隊の進む先、高い泥の建物から1頭のキメラが飛び出す。
そのキメラは黒い狼を素体として、鋭いヤギの角、固いワニの鱗、長いサソリの尾を併せ持った最も個体数が多いとされる種である。
相対するは、降下前列で緩い表情をしていた女性。
分厚いゴーグルと帽子を外すと、長い髪が団子のおさげでまとめられているのが分かる。
さらに軍服を脱ぎ捨てて、
「換装」
そう呟くと錬成により生成された鎧が彼女の体を覆った。
鎧は胸元と背中が大胆に開いており白い肌が露になっている。
左手には彼女の身長と同じ程度の大斧があり、それを振り上げて右手で支え構えた。
風に舞った軍服は後方の部下の男が手際よく掴み回収する。
「あーはっはっは! この解放感たまんない!」
先程までの柔らかな雰囲気は消え去り、口調表情ともに荒々しく変化した。
キメラはワニの鱗で覆われた右腕を、女性は錬成した大斧を、両者大きく振り被り肉迫する。
「ガァアアアッ!!」
「うらぁああッ!!」
接触の直前、一瞬光が差し込んで見えた光景は美しい絵画のよう。
キメラの振り上げた腕は肩で切断され、振り抜いた大斧は一回転。
女性は体勢を整えて、キメラの太い首を目掛け二撃目を叩き込んだ。
――
―天空の大地ヲハニア 南領域 第3肥育場―
空をぼーっと眺める水色の髪の少年。
手にはゴワゴワした毛のブラシを持ち、ゆっくりと上下に動かしている。
そのブラシで気持ちよくなっているのは足元に転がる巨大な芋虫。
宝玉と呼ばれるその芋虫は全長は1メートルを超え、横幅も丸々と太っているため、14歳の少年よりも遥かに大きく見える。
「コラッ! ユルトどこ見てるの、もっと丁寧にやりなさい!」
「…ッ!」
背後からの大声で手に力が入る。
手に持っていたブラシが宝玉の柔らかい体に深く食い込んだ。
「ブゥーー!!」
「うわッ」
宝玉は体をうねらせてブラシの持ち主に白い粘液を噴射した。
顔にかかった粘液は首を伝って衣服の内側をベタベタにする。
「クソッ、何すんだよ!」
「ユルトが適当にやってるからでしょう?」
「母さんが大声を出すからだよ!」
背後に立っていたのは長い黒髪の女性。
右手には餌袋を抱えている。
丁寧にやってほしいなら伝え方があると思う。
白い粘液でシャツがベタベタして気持ちが悪い。
「こんな仕事よく真剣にできるよ。
訳の分からない芋虫を育てるなんて」
この宝玉と呼ばれる芋虫。
食って寝てを繰り返してぶくぶくと太っていく。
育てたら何かの役に立つ訳でもなく、王都で納品したらそれで終わり。
最終的には、かつてこの天空の大地を創造した女神の末裔である女王様に届いて、大変喜ばれるとのことだが、やりがいはあまり感じられない。
「これは女王陛下から承った大切なお役目。
ホウギョクのお世話ができるというのはとても光栄なことなのよ」
母のその話は何度か聞いたが結局のところ女王様のためというだけ。
この仕事に明確な理由があるわけではないので理解も共感もできない。
「どうでもいいね、そんなこと。
それよりも――
休みの日に訓練した錬成で剣を生成し、両手で構える。
「俺はキメラの討伐作戦に参加して戦果をあげる。
王都近衛兵として英雄の一人になるんだ」
その方がカッコがいい。
地上に興味あるわけじゃないけれど、キメラと戦っている。
人類のために行動している自分の姿が気持ちいい。
「あなたキメラを見たことあるの?」
剣は手を離すと崩れて消えた。
「さぁね、でもとにかく強ければ何も問題ないだろ?
自分が強くなるんだったら今よりも努力できる」
女王様が喜んでくれるなんて、そんなのは報酬と言えない。
努力したらその分だけ強くなれる。
これだけ分かりやすい成果がある仕事にこそ、やる気は出るというものだ。
母は左手を腰に当てて溜息を吐いた。
「翼も生やせないのに何言ってるの。
ホウギョクのお世話も完璧じゃないのに近衛兵が務まるわけないでしょ」
こうやって馬鹿にしてくるところが嫌いだ。
この程度の仕事は慣れれば誰にだってできる。
集中すれば完璧にできる。
不機嫌を顔に出して仕事に戻る。
右手でブラシを拾って、先程よりいくらかは丁寧に宝玉のブラッシングを再開した。
「リリーおばさん、掃除と給餌と、あとは体調確認、全部終わったよ」
肥育小屋の向こうから歩いて来たのは二人。
一人は白い粘液でべたべたに汚れたワンピースを着た黒髪の少女。
もう一人は安い服をカッコよく着こなし汚れ一つない癖毛と切れ長が特徴の少年。
それぞれ木のバケツと折りたたんだ餌袋を手に持っている。
「お疲れ様、フラマは水浴びしてらっしゃい。
ハーレンはいつも通り綺麗ね、家に帰って休んでいいわよ」
ユルトの母、リリーは笑顔で二人に声を掛ける。
「またかよフラマ、手に付いた汚れは水場ですぐに洗えただろ」
フラマがその汚い手で持っているバケツ。
あれはフラマ専用というわけではない。
他の誰かが使う可能性もある。
もしベタベタの持ち手を掴んでしまったなら、最悪な一日の始まりだ。
「とっておいたの、これ甘いんだよ?」
フラマは白いドロドロの粘液が付いた指をしゃぶり始める。
指先から根本まで口に含み、恍惚の表情でその粘液を舐めとった。
「あーおいし、水浴びしよーっと」
フラマは向けられた視線を気にすることなく真っ直ぐ家に向かう。
ハーレンも後をついて行った。
「あれ、食べて大丈夫なの?」
衝撃的な出来事で一瞬思考が停止していた。
多少美味しそうに見えたが。
「害はないわ、栄養もないけどね」
リリーは歩く二人を見ながら軽く答える。
「こんな芋虫を貰って嬉しいなんて、女王様も変わってるね」
宝玉の白い粘液が目的だとしても、いやそうじゃなくても独特な感性を持っていると思う。
「そうかもね、でも感謝の気持ちを忘れてはいけないよ。
ヲハニアが地上と変わらない生活ができているのは全て女王様のおかげなんだから」
これはいつもの決まり文句だ。
気温がどうで、水があーで、贅沢な生活がどーのこーの。
王都で見かけるおかしな宗教と変わらないことを言っている。
「はいはい、ジョオウサマバンザーイ、だろ? わかってるよ」
「ふふふ、それじゃあ残りの仕事を片付けて、みんなで昼ご飯にしましょ」
顔に付いた宝玉の白い粘液。
気になって少し舐めてみたが無味。
何の味もしなかった。