【小説】Last man on the Earth.①
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運命に立ち向かう必要はないよ。流されるままに進むのが周りの人々にとっての幸せだよ。
だけど、あなたにとっての幸せは忘れないで。
小さく運命に立ち向かうこと。
過去の感動を忘れないこと。
運命に静かに耐えること。
新たな感動を探し続けること。
例えば、絶望の世界を突き付けられたとしよう。そしたらあなたは何を選ぶ?
例えば、究極の裏切りを見せられたとしよう。そしたらあなたは何に託す?
例えば、幸福な嘘を吐き続けたとしよう。そしたらあなたは誰を許す?
世界はそれでも終わらない。何があっても廻り続ける。
わたしは、あなたを許します。
わたしは、あなたに託します。
わたしは、あなたを選びます。
次の世界を任せます──
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さよなら由人、またいつか──
001
二〇八〇年、五月二十二日。水曜日。
僕はいつものように熊本高校へと自転車で登校する。上を見上げると雨が降っていた。雨は降っているが地面に落ちてくることはない。当たり前だ。道路全体が、いや居住区全体が透明なドームで覆われているから。雨は降ってはいるがジメジメジトジトとした、湿気が纏う重たい空気感は全くない。いつもと同じように、自転車に乗っているときは涼しげな風が僕の脇を通り抜けていく。
勿論ノンストップで学校へと向かう。徒歩用、自転車用、自動車用に分かれた道路がほぼ全て一方通行の立体道路だ。当たり前だ。昔は信号機を元に道路は交差してたって聞いたことがあるけど、でも、そんな自分の意思に反する、信号機による交通の妨害があって学校に遅刻したら、いったい何に腹を立てればいいのだろう。一体誰に責任が負われるのだろう。
なんて、益体もないことを考えながら自転車を漕いでいたら、微妙に学校に遅刻してしまった。
教室では担任がクラス点呼を取っていた。
担任が一人一人名簿に印をつけているのを廊下の窓から横目で確認し、それから、慎重に、なおかつすばやく後ろのドアを開け、そしてすっとばれないように教室へと入る。よしよし、うまくいった。ははっ、もう少しだ。
と、思っていたところ。
担任のマエケンの声が響いた。
「白石! 朝礼終わったら職員室に来るように」
クスクスっと教室に弛緩した空気が蔓延した。
やってしまった。
「シライシ。お前、俺に何回説教させれば気が済むんかいな? ああ? 俺も休み時間は暇じゃなかっぞ。俺もお前のために時間割いとるんぞ。お前、ほんとわかっとんのか?」
博多弁が少々きつくて、何が分かっているのか、僕にはさっぱりだった。適当に「ハイ。ハイ。分かりました」を繰り返し、もう二度と遅刻しないと宣誓を誓わされた。次遅刻したら反省文だろうな、なんて頭の隅で考えていた。「よし、分かった。次からは遅刻しないように」と言われ職員室から解放された。
正直、何もよく分からなかった。
廊下を通って教室へ戻る。
教室の扉に手を駆け、少し深呼吸してから、今度は思いっきり、ガラリッとドアを開けた。
「おい! 遅刻魔が帰ってきたぞ!」
「そろそろ反省文の頃合いじゃないのか?」
「まあ、今年のクラスでマエケンになったのが運のつきやな」
「ゆーくんおかえりー」
聞き取れるだけで、それぞれ太一、綾伽、そして久美、辺りだろうか。
ここまで一斉にクラスの人から話しかけられたら、それは返事のしようがないってもんだ。
とりあえず。
「白石由人、ただいま帰還しました!」
なんて、敬礼のポーズを取ってみた。
「おおーいいね!」
「おかえりやー」
なんて、教室のテンションがまた一段と上がった。うん、これでいい。このクラスの雰囲気は本当に好きだ。
授業の一限の数学が始まるまでその話題は続いた。
今日も平和である。何気ない日常。当たり前の生活。在り来たりな会話。意識すれば、つまらないかもしれないけれど、つまらないことが壊れるほど、面白いことも起きないだろう。
ましてや、絶望なんて。
002
放課後、マエケンのいつも通りの長めで、少々博多弁のきつい終礼が終わった。
「さっさ部活行こうぜ」
太一はナップサックとエナメルバッグを背負って、僕の机の前に来た。
速いな。まだ終礼終わって十秒ぐらいしか経ってない。ああ、なるほど、どうやらマエケンの話の途中で準備を済ませていたらしい。太一はとても器用な人間だった。
「ちょい待ちな」
そう言うと、僕はショルダーバッグに教科書を詰め込む作業を再開する。
太一は、僕と同じバスケ部に入っている。熊本高校センターの二番手、浜太一。熊本高校ポイントガード三番手の僕より少しばかりランクが高い。
三年生が抜ければどちらもスタメンに名を連ねることになるだろうし、日常生活でポジションのランク付けが影響を及ぼすほどに、熊本高校バスケ部は規律に厳しいというわけでもない。
太一は親友だ。二年になってクラスが一緒になる前から仲間だ。
ショルダーバックに荷物を詰め終わり太一と共に体育館へと向かう。途中、一年の秀たちとも合流し、五人でわらわらと廊下を歩いて行った。
当たり前だけど、人間が活動する範囲は、全てドームの中だ。
校舎全体が透明のドームで覆われていて、廊下だろうと部室だろうと体育館だろうと同じ湿度、気温で保たれている。だが、練習中は違う。人間の群衆の体温の増加に体育館だけの、ピンポイントの空調設備は追い付かない。こんなとき人間の力を感じる。人の熱を感じる。
一時間半ほどが経ち、午後六時過ぎで練習が終わった。その後、十分ほど顧問のジンさんの話があり、黙想して挨拶。それらも終わり、部員総出で片づける。部員は大して多くはないので、後輩に後片付けを押し付けるようなことにはならない。
僕はボール籠を部室まで転がしていく担当だ。まあ、部室まで運んで行くときにだって健斗(一年)とノリさん(三年)と全身音ゲー(全身にポインタを取りつけ、音に合わせて動かす部位まで正確に求められる、最近流行りの家庭用ゲーム)の話で盛り上がっていた。
部室に戻ると制汗剤の匂いが漂う。
壁に掛っている時計を見やると、時刻は午後六時半を回っていた。
ああ、ちょっとまずいな。なんて思った。
だって今日は先週決めた約束の日。
ここで、太一が大声をあげた。
「二年! 今日飯行くぞ!」
おそらくは、ゴール片付け係の太一たちの班でもう食事に出る話が出ていたのだろう。
「いいね!」
「どこ行く? コーエイ?」
なんて、話が次々と出てくる中、
「ああースマン。俺はパス」
と、僕は発案者であろう太一の方を見て言った。
一瞬太一は『えっ、こいつノリ悪っ!』って顔したけれど、すぐに何かを悟った顔をして、そのあと目元を垂らせ、口元を緩ませた。
「あ! もしかしてゆーと君、デートですかー?」
そのもしかしてだった。
僕は彼女と一緒に帰ることを決めていた。
「出たよノロケ」
「きた、吹奏楽部」
「えっ、吹部じゃなくて軽音じゃね?」
「あれ? そうだっけ?」
「でた、知ったかぶりだ」
「まあ、お幸せに」
「勝手にデートに行ってろ!」
いつも通り、部室の中では後輩同期先輩を超えて、次々と幸せ者の僕に言いたいことを言ってくる。
実際は一緒に帰るだけである。
僕はさっさと荷物を部活用のトートバッグに詰め込み「ではさらば! 失礼!」と言い、靴を持って一目散に部室を飛び出した。
腕時計を見る。午後六時五十分過ぎ。
透明なドームの外側では、雨が上がった後によく見られる燃えるような夕焼け空が広がっている。
何となく、少しでも早く二人で話したい、という思いが先行して、自転車は置いていくことにした。
早く会いたい。
約束の時間は特に決めていなかった。お互いに部活が終わり次第、校門の門柱の前で落ち合うことになっていた。
渡り廊下を走る走る。
土足廊下にたどり着き、スニーカーに無理やり足を突っ込んで彼女の待つ校門へと向かう。
夕方、というかもう夜が迫ってきている薄暗がりのなか、校門が近付くにつれて、門柱の前に、後ろに自転車を置いて、僕の彼女が立っているのをぼんやりと視認した。
僕が相手の顔を認識できないので、恐らくは相手も僕の顔は見えないのだろうけれど、僕は笑顔で右手を挙げてみた。
すると、僕の彼女、若干緑ががったセミロングのその人。
椿久美は。
「おおーい!」と、両手をぶんぶん振って僕の合図に答えた。近付いて見ると、彼女もまた満面の笑みだった。
003
「あれっ? ゆーくんいつもみたいに自転車は?」
「うん? まあいいんだよ。僕の家はどうせ歩いても十分くらいだし」
久美は高校まで電車で通っている。一番高校に近い水前寺駅からは自転車に乗ってやってくる。
ちなみに、僕が住んでいるアパートは駅と高校の間に位置している。
いつもだったら、二人で駅まで歩道用道路を自転車を押して歩いて行くのだが、今日は久美だけが自転車を押しながら、二人歩きだす。
「あ、ってことはやっぱり自転車で来たのに朝、大遅刻だったんだねー」
「大遅刻ってほどでもないでしょ。微妙だよ微妙」
「うん。登校時間三十分後、クラス内点呼が行われる時間に登校してくるのはやっぱり大遅刻だよ」
「ぬう。まあ、家出たときにすでに登校時間過ぎてたからな。いや、でもまだ数えるほどしか遅刻してないだろ。一年の頃よりまだましになった方だって」
「それは、ゆーくんが数えてないから。本当はもう数えられないくらい遅刻しちゃっているんじゃないかな? 私の記憶では」
「なるほど、僕の遅刻の回数を真に知っているのはマエケンだけか」
「もう! いつもみたいに寝坊したの?」
「いや、今回は早く起き過ぎたんだ」
「……はえ?」
「眼が覚めたらまだ七時になっていなくて、これは退屈すぎるどうしようかな。暇だな。よし後三十分寝よう、って思って、目を開けたら八時過ぎちゃってたんだ。あれはすごいね。タイムリープでも起きたのかと思った」
「それはただの二度寝」
「いや、ごめん、ちょっと話を盛りすぎた。実はちゃんと七時半ごろに意識はあったんだよ。ベッドの中でだけど。そして、体を起こそうとした。だけどどうしても体を起こすことができなかったんだ」
「ん? 足でも攣ったの?」
「いや、そうじゃなくて。夢を見たんだ。体を起こそうと思っても、怖くて起こせない。ちょっとだけ怖い夢」
「ゆーくんよく夢見るもんね」
「うん。でも今回は特別怖い夢だった」
正直言って今も怖い。
朝から誰かにこの夢の話を打ち明けたかった。だが、こんな酷な話ができる相手は久美ぐらいしかいなかった。
だから、私的な話かもしれないが、今日一日中久美と二人になりたかった。二人だけで話をしたかった。
親友はいても、全てを話せるわけではない。
信頼を寄せる、親愛なる相手にしか全ての話を語る勇気は持てやしない。
もしかしたら、彼女に対しても無意識に隠し事をしているのかもしれないけれど。
僕は夢の内容を打ち明けた。
004
「なぜだか僕は山を登っているんだ。歩いて。標高はなかなか高い。そうだな、阿蘇山ぐらいの山かな? そして山の頂上付近が見え始めた時、急に山が噴火するんだ。それがリアルで、火柱がはるか上空まで駆け昇るんだ。ズババババーって。夢の中だから音が聞こえるっていうか、脳に直接響くって感じで。
そして僕はその火柱を見て一目散に逃げるんだ。もう何も考えず、躓かないようにただ地面だけを見つめてさ、ひたすら下山の方向へと走っていく。夢の中だから疲れることもない。そのまま走って行って、『どうだ、撒いたか?』って思って、ちょっと目線を上げたらなんと目の前からマグマが迫ってくる。コの字型に囲まれ始めて、もうまさに逃げ口が閉じようとしている。閉じようとしていると同時に両斜め前からマグマが近付いてきている。だが、夢だ。夢だとわかってる。だから自分の都合のよく、すんでの所で奇跡的に囲いから逃げ切れるだろう、と思うわけだ。
でも、かすかな希望を抱いた、その瞬間に。
そのマグマの逃げ道が閉ざされるんだ。
そして今度は前から全面的に僕にマグマが襲いかかってくる。
死ぬしかなかった。絶望だ。
死にたくない!
そう思ったとき、急に意識が飛ぶんだ。
まあ、夢の中だから本来の僕の自我は無いんだろうけれど。
気が付いたら、どんよりとした曇り空の、雰囲気は夕方かな。でも空は嵐が近付いていると感じさせる暗い空の、砂浜にいるんだ。
そして、海では小学生くらいの年齢の子供たちが、キャーキャーと言いながら遊んでいる。
僕はその夢ではどうやら教師らしい。
砂浜、海の中には他の教員たちもいる
そこで、僕は雲行きが怪しくなってきたのを見て、生徒に砂浜に上がるように呼び掛ける。
多くの子供たちが次々と浜に戻ってくる。だが、浜からものすごく遠いところで遊んでいる子供たちの姿が目に写る。沖って言うのかな? そのぐらいの距離に子供たちが泳いでいる。大声を上げて呼び掛けるも戻ってきそうにない。声が届いているかもわからない。
雲行きを見ても更に危険が迫ってきているようなので僕は泳いでいって、直接子供たちに指示することを決意して、ゴーグルつけて海に入った。
教員たちが背後から何かを叫んでいるが、周囲の薄暗さを考えてみても本当に時間がない。もう、灰色の空が突然光るくらいには天井を雷雲が覆っている。波も急激に高くなってくる。『これは急がないとマズイ』って焦りながら子供たちへと近付いて行くんだ。
焦っているから、下を向いて、必死に泳いでいるんだ。
どれくらいだろう、多分、本当は三十秒くらいしかたっていないんだろうけれど、勝手に十分くらいたったと想定される疲労度と焦りのなか、ウンザリするほど泳いだところで、荒立つ波しぶきの中にいる子供たちに、視線を向けるんだ。
するとね、子供たちが泳いでいると思っていた人影が、なんとただの岩の群れだったんだよ。
岩だと視認しだしたあたりから、それまで小雨だった雨が本降りになってくるんだ。
僕は急いで戻ろうと、元来た海岸の方へと向き直してみて、愕然とするんだ。
物凄く遠い。
僕が砂浜からこの岩影を見たときよりもずっと遠くに見える。
ヤバいヤバいヤバいと焦って焦って焦って、
絶望とか希望とかを感じる前の、大きな不安に襲われながら、必死に藻掻いた。何とか呼吸を取りながら泳いでるときに、
僕に向かって、
雷が落ちてくるんだ。
いや、夢の中では、雷に当たり、自分が雷に当たった瞬間の死への恐怖を感じたその瞬間に、その感覚だけを残して、また意識が飛ぶんだ。
意識が飛んで、意識が戻った時には、砂漠の廃墟で三人から銃を突きつけられている場面へと移り変わるんだ。
急だった。僕は三撃一遍に撃たれた。
今回は意識が飛ばなかった。
いや、意識は飛んだか。正確に言えば場面は飛ばなかったんだ。
撃たれた瞬間に、視点が一人称から上空の三人称のカメラに移り変わった。
変わり果てた僕を見下す様に。
そして、そこで世界が止まるんだ。
僕を撃った三人がまるで彫刻の様に動かない。
三人だけでなく、舞い上がる砂塵も、ギラギラと照りつける太陽によって作られた、色の濃い影も全てが止まるんだ。
ここで困ったのはこんな死に際を僕に見せ続けた僕の無意識の方だ。
夢が続かない。
だから、僕の無意識は、僕の自我へと呼びかけてきた。いや、というよりその止まった廃墟の場面を見下しながら、映像を見ているその背後から、言葉が浮かんできた。『これは夢だ。早く覚ましてくれ』って。
そして、グアーっと声を出して現実に戻ってきたことを認識させて、それらの話は全て夢だと分かった。今、生きている希望が少しずつ夢の中の絶望を埋めてきたのを確認して、少しずつ少しずつ、安心していった。
それでも止まらない頭痛と戦いながら、薄目で時計を確認してみると、八時過ぎてたってわけさ」
僕が一通り話し終えると、久美は歩を止め、暗くなった宙を見つめながら、ふうと息を吐いた。
005
「ゆーくん、僕っ子になってるねー」
「いや、僕っ娘じゃないよ。僕は元から男だろう」
「あれ? 僕っ子ってそういう意味だっけ? 一人称が『僕』の男の子って意味だと思ってた」
そう言うと彼女はてへへっと左手で軽く頭をかいて見せた。
「まあ、ゆーくんの一人称が『僕』になるってことは私に心開いてるってことだから」
「うん。そこは自覚してる」
「他の誰にもできない事、してくれてありがと」
彼女は笑った。目を細め口を閉じたまま口角を少し釣り上げた。
「いや、礼を言うのはこっちの方だ。いや、礼と言うより謝罪かな。なんというか、こんな重たい話をしてごめん。そうだ、ちょっとベンチに座っていかない?」
僕たちはもう、水前寺駅の北口手前まで来ていた。豊肥本線は熊本県を東西に横断している。駅の東側、つまり僕らから見て左側には大きな木を中心とし、その木をぐるっとベンチで囲ってある小さな公園があり、その反対側には道路を挟んで、こちらにも公園がある。こちらは大きな公園で、遊具やトイレなんかも備え付けられている。
どちらの公園も名前は分からない。
彼女は「ちょっと待ってね」と言って、西側の公園と水前寺駅の間にある細めの駐輪場へと、小走りで自転車を止めに行った。がちゃこんっと自転車を止め、鍵を閉め、そしてまた小走りで僕の所へ戻ってきた。
僕らは西側、つまりは駅を背に左側の大きめの公園へと入っていった。そして、公園を一望できるような、公園の中でもちょっと外れたところにあるベンチに座った。
先に久美が座り、僕が横に座った。両側にのみ手すりが付いているタイプで、僕基準の程よい距離間で久美の横に座った。恋人同士の適当な距離感を、僕は未だに正確には知らない。
そして、僕はベンチに座るなり、ふうと息をついた。
「正直、朝からずっと怖かった。いや、なんかごめんな。久美には何にも関係ないことなのに」
僕がそう言った瞬間、久美はガシッと僕の左の二の腕を掴んだ。
「なよなよしいぞ! さっきから謝ってばっかり! 私にゆーくんの悩みを全て打ち明けてくれたことに本当に感謝してる。感謝しかないくらい感謝してる。全然怒ってなんかいない。私が全然、これっぽっちも怒ってないのに謝ってくれなくていいの! 簡単に謝ってくれなくていいの! それじゃ謝罪の価値が下がっちゃうじゃない」
「なるほど、確かにそうかも」
そして、彼女は掴んでいた右手を、今度は僕の頭に乗せて撫で始めた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。くみちゃんは優しい声で言いました。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「それは、たしか小学校のときの『だいじょうぶ、だいじょうぶ』だっけ?」
「そう。私の朗読がうまいおかげでゆーくんすぐ思い出したね。さすが私だね! 椿久美だね。ゆーくんの記憶を取り戻したね」
そう言うと、彼女はくしゃくしゃっと僕の髪を掻き回した。
久美のテンションについていけず、言葉が出なかった。
自分の急すぎるテンションの高さに気がついたのか、向こうもまた言葉が出ないようだ。
久美は、すっと右手をベンチに下ろした。
「まあとりあえず、大丈夫だよ。私に話してみて、少しは楽になったでしょう?」
「少しどころか、だいぶ楽になった。聞いてくれて本当にありがとう」
そしてここで僕は、弱い自分の本音を出した。
「でも、やっぱり、まだ少し怖い、かも」
弱い弱い僕の本性が現れる。
はっきり言って、ただの面倒くさい奴だ。
恐らく僕は、もう一人僕がいたら『なんだこいつ?』と思って嫌い、煙たがることだろう。
人間とはそんなもんで、自分と同じレベルの弱さの人間がいたら、自分より弱いと思ってしまう。見下してしまう。
しかし、彼女、椿久美は、そんな僕の弱さを見て、ベンチの上に置いてあった両の手を、それぞれ僕の両肘まで持ち上げた。
僕の背中に手を回し、体ごと僕に近付き、僕の体を引き寄せ、僕の体をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫。私がいるから」
掠れた声でそう言った。
僕の方が体躯が大きいので、久美が僕の胸の中にうずめる形になった。突然のことに初めは動転した。だがすぐに安心した。
これは凄い。久美に話してもまだ消えてくれなかった心の片隅に残る小さな不安、何か苦しい将来が起こるのではないかという些細な予感。それら全てが、本当に泡のように溶けていった。よく分からない複雑な悩みが、単純で純粋な安心感へと落ち着いた。
今までなんとなくドラマやマンガなんかで見てるこっちが恥ずかしいと忌み嫌ってきた恋人たちの抱擁であったが、やられてみるとこんなにも心が静まるものだったとは思わなかった。
顔を埋める彼女の背中を、ポンポンっと叩きながら、「ありがとう」と彼女の耳元で囁いた。
そして、彼女の首元まで伸びるセミロングの髪を一回、指を通した。
彼女は顔を上げた。
僕は彼女にチラッと視線を向けた。
一瞬の間。
そして、僕は、彼女にキスをした。
──そのとき、なにか《《かちり》》と音がした。
何かが落ちたような音。
もちろん、恋に落ちる音とかそういう比喩じゃなくて、
物理的に、何かスイッチが入る音がした。
僕はその音に気付いたけれど、聞こえていないふりをした。
006
キスの数秒後、僕はドキドキしていた。だから、口を利けなかった。
彼女は、軽く下を見ているようだった。彼女もまた口を利けない様子だった。
セミロングの前髪が目に掛っていて、彼女の表情はよく見えない。
僕はすっと立ち上がった。
「帰ろう」
そうやって彼女にさっと右手を出す。
彼女は何も言わず右手を握り返して、手を握ってはいるものの手に力を加えず、自分の力だけでほとんど音もなく立ち上がった。
まだ少し下を向いていて、彼女の表情は見えない。
彼女の手が物凄く温かい。きっと恥ずかしいのだろう。何しろ二人にとって初めてのキスだったから。
下を向き続ける彼女を手で導きながら、公園を出て、北口の階段を上がっていく。
そして、そのまま駅の改札口まで辿り着いた。
改札口に辿り着くまで、彼女はずっと無言だった。
恥ずかしがりすぎだろ。いや、もしかしたらキスが嫌だったのか。いや、でもあの場面はキスまでいってよかっただろ、などと僕が逡巡し、もう改札前だからと、何気なく彼女の手を離して、彼女の方をちらりと見ると、眼に掛っていたわずかに左右に揺れた。
彼女は完全に《《無表情》》だった。
僕は彼女が恥ずかしさのために顔を赤らめているだろう、とかちょっと呆けているだろうなどの希望的観測を持っていた。または、怒りで口を尖らせ、斜め下を向いている、といった少々覚悟のいる状況になっているのではないか、とも思ったが。
彼女は完全に無表情だった。
彼女の十メートル程の背後には、駅の待合室の透明な強化ガラスのドアが存在し、その中に数人、恐らくは久美が向かう熊本駅行きの電車を待っているであろう人々、が座っている。
そんな風に、久美の後ろに存在する風景をしっかりと確認できた。久美は僕の目の前にいるのに、彼女の背後の風景に溶け込んで見えるくらいの、彼女の顔は完全な無表情だった。
彼女は僕を見ていない。というより、彼女の眼球はピクリとも動いていない。
そして、その無表情と共に僕が今まで気にしてこなかったことが──今まではそれが普通だと思っていた違和感を、僕は意識的に感じ始めた。
彼女の手が《《熱すぎる。》》
最初は恥ずかしいから体温が上がり、ああ、人間の掌はこんなにも温かいものなんだな、なんて暢気に考えていたのだが。
階段を上るにつれて、温かいから熱いへ。
彼女の掌の一点を握り続け、尚且つ漸近的な温度変化であったため火傷で皮膚が爛れる、なんてことにはならなかったが。
心が高揚した、と言って説明できるくらいの人間の体温では無かった。
僕は彼女の手を、彼女の別の部位を触らない様に、ぱっと離した。
彼女は無表情。彼女の右手は一瞬、空中に止まったまま。
そして、ぽすんっと右手を下した。
右足を踏み出す。
僕に近付いて来る。
左足を踏み出す。
そのまま無言で僕の横を通り過ぎていく。
僕は首の回転だけで、彼女を目で追った。
彼女は改札に入る。そのまま通っていく。改札を抜け、ホームへの階段を目指して歩いていく。
僕は、そのとき、ようやく彼女に全身を向けて彼女を見ることができた。
両足を重そうに、あまり上げずに引きずるように歩く彼女。
ようやく、僕は彼女が心配になってきた。彼女を心配できる余裕を持つことができた、と言えるかもしれない。だからといって彼女が改札を通ってしまった今、何かが出来るわけでもなかった。
彼女は左へと方向転換し、ホームへの階段に差し掛かろうとしている。
階段に入ってしまえば、もう改札口からは彼女の姿は見えなくなる。
僕は右手を上げた。右手を振りながら「バイバイ!」と言った。僕には声を上げることぐらいしかできなかった。だから精一杯に声を上げた。
彼女に聞こえるくらいの大きな声で。
でも、彼女は無言で階段へと入って行った。
007
彼女を送り届けた後、僕は徒歩で自宅へと帰った。
時刻は午後八時前。
「ただいま」
なんて言ってみた。
今、僕の自宅には誰もいない。
悪夢に魘され二度寝し、完全に遅刻してしまった実状を考えてもらえれば分かるだろうけれど、僕の両親は僕に対して非常にルーズだ。
いや、ルーズというよりかは、僕に構っていられないほど凄く忙しい。
父さんは今年の春から大阪に転勤している。
そもそも、今年の春以前からずっと日本中どころか世界中の各地を転勤している。
今年の春休みだって三日しかいなかった。
つまりは、僕の養育は母さんだけ、ということになるのだが、この母親もまた、一日中働いている。
今日の朝だって、テーブルの上にラップの掛ったサラダと目玉焼きとパンを置いて既に出勤していた。
そして、今。午後八時のこの時間、テーブルの上にはラップの掛った煮っ転がしと茶碗とお椀が置いてある。
いつも通り、母親は夕方に帰ってきて、夕飯を用意して夜勤に出かけて行ったらしい。
全く、よく働く。そして、ちゃんとご飯を作ってくれる。本当にいい母親だ。
いつも通り、夕飯を電子レンジで温め、母親に感謝しながら箸を進めた。
生活をしながら、今日の久美の事について思い出してみる。
最後のあの無表情は絶対怒っていた。いや、怒りを通り越して感情が表れてなかったような。これは、完全にやらかしてしまったのか? 正直言うと、今さらメールかなんかで連絡を取ろうとも思わない。なんか、自分のしたことについてご機嫌取りをしている風にも感じられてしまう。僕の場合はそう思う。だから今夜は迂闊に彼女に関する行動は取れない。取ろうとしない方がいいだろう。
というか、今日の彼女の最後の無表情は、私に関わってくれるな、と言いたげな人間のする、どこか自衛意識の高い表情に見えた。
そんな気がした。
もしかして、僕は嫌われてしまった?
確かに、キスは急ぎ過ぎたかも知れない。
けれども、高一からの付き合いじゃないか!
交際始めてからもう三ヶ月の付き合いじゃないか!
正直言って、今すぐ彼女に確認が取りたい。けど、迂闊には動けない。ああ、どうしようか。
なんて、僕は思春期の青年によくある悩みで夜も中々寝付けなかった。
明日知ることになる世界の真実を聞いた後にその時を振り返ってみれば、
それは、幸せな時間だった。
008
次の日、五月二十四日、木曜日の朝。
昨夜はなかなか寝付けなかった。けれども、皮肉なものでなかなか寝付けない日ほど、一度眠ってしまえば、人はぐっすり安眠できるらしい。人間のストレスを減らすための上手な工夫のようだ。結局今朝は、一昨日の朝のように悪夢に魘されることもなく、すっきりと目覚まし時計に合わせて起きることができた。昨日の朝は不本意に早起きをし、結果としては遅刻の根本的原因を作ってしまったのだが、今日は意図的な早い起床だった。
起きて顔を洗い、リビングへ行くとそこには既にひっくり返した茶碗とコップ、スクランブルエッグが用意してあった。ひっくり返したコップの下に『昨日は学校に遅刻したって電話で聞きました。今日は遅れないように!』との、母親からのメッセージの書かれたメモ書きが挟まれていた。
「このメモを見た時に既に遅刻していたら、このメモ書きは何の意味も果たさないんじゃないのかな」なんて、心の中で突っ込みを入れ、悠々と朝ごはんを食べた。
茶碗を片付け、全ての準備をさっさと済ませて外へ出る。時間は確認していないけど順調な朝だったので多分余裕で間に合うだろう。外は快晴。心なしか気温も涼しげに、風は爽やかに感じられた。放射冷却を感じる。ただ感じるだけだが。実際をいえば、放射冷却を再現しているに過ぎないらしいが。
歩道用、自転車用、自動車用、の三車線に分かれているなかで、もっとも外側の歩道を歩いて行く。
歩きながら僕は考えた。椿久美は今日学校へとやってくるのだろうか、と。
去年から振り返ってみても椿久美は簡単に休む人間ではない。僕の記憶では椿久美は毎日の学校はもちろんのこと、クラス会など、必ずしも出席の求められるわけではない、非公式の学校行事にも必ず顔を出していた。
彼女はそういう人間だ。
彼女は安定した人間だ。
だが、今更ながらも夕べのあの無表情は常軌を逸していたように思える。結局、あの改札口で別れたあの夜以来、まだ彼女とは一度も連絡を取っていないのだった。
そんなこんな考えているうちに、熊本高校正門に辿り着いた。正門から見える、校舎に掲げられている時計を見ると、午前七時四十五分。
歩く、という人間の中でも最も遅い移動手段でも、やってみたら案外早く着くものだった。
009
僕が教室に入ったとき椿久美はまだ教室にはいなかった。
あまりに早く着きすぎた。朝礼始まる前の空き時間、僕は教室で友人達と空中にグラフィックを映し出す画面でゲームをやっていた。いや、もっと正確に言うなら友人達がやっていたゲームの画面を見て、僕はあれこれ口を出していた。
一回くらいやらせてもらいながらも、椿久美はまだ来ないのか、とどうしても教室のドアをチラチラ見てしまう。早く椿久美を確認したい、と気が気でなかった。
朝礼開始は八時三十分、その二十分前、椿は二人の友人を連れて現れた。
彼女はいつも通りに、まるで、昨夜に何もなかったかのように現れた。安心した。
遠目から見ても、彼女たちの笑い声が聞こえることから普通に喋っているようだった。
彼女は教室で僕の姿を見つけると、僕の方へてとてとてとっと歩み寄ってきた。
久美が教室に入って来た時から、もうチラ見ではなく凝視してしまっていた僕だから、久美とそのまま向かい合う形になる。
昨夜とは大違いの、表情のある椿久美だった。
「おはよう、ゆーくん」
「おはよう。昨日はあれから……」
「ゆーくんにお願いがあるの」
彼女は僕の話を途中で遮った。
お願い? お願いって僕に何かをさせるってことだよな。これはまずいパターンじゃないのか。もしかしたら二度と近寄らないで、などと言われるとか。昨日の今日だし十分ありうる。表では平静を装って繰り返した。
「お願いって?」
「ちょっと渡したい物があるの。荷物持って教室の外に来て。あ、荷物って全部だよ全部。全部持って教室の外に付いてきて」
「え、ああわかったよ」
何もわかっちゃいなかったが、とりあえず首肯した。
僕は自分の机に戻り、机の上に出していた筆箱をナップサックにしまい、両肩にかけ、机の脇に置いてあった部活用のトートバックを右手首に巻きつけ、右肘を折って肩まで持ち上げる。
僕は教室を出る。ちらりと後ろを確認したら、久美も付いてきている。僕らは階段のある廊下の踊り場へと来た。
「いやー、呼びだした後でなんだけど、実は渡したい物なんて別にないんだよね。あはははは。実は別のことでお願いがあったの。まあ、あそこではゼッタイに言えないお願いだったんだけどね」
にこやかな笑顔で久美は続けた。
「私と、学校サボってデートしよ」
「え? 学校サボるって今から?」
「うんそうだよ。そのためにゆーくんに自分の荷物を全部持って来させたんだから」
そういえば、久美も自分の荷物は全部持ってきてる。だが、やけに少ない。今日の彼女は教室に入って来た時からミニトートだけであった。僕がこの、突然のエスケープに賛同することを見越しての荷物の選択だったんだろう。
しかしながら、熊本高校はごく普通の高校だ。昨日の朝に見られたように遅刻や欠席には当たり前に厳しい。
久美は、僕がエスケープに確実に賛成してくれるとなぜ確信しているのか。
「で、でも」
「まあ、迷うのはわかる。私もこんなこといきなり言われたら『いや、何言っちゃってんの?』って思うと思う。でも、今日ゆーくんが私に付いて来ることは絶対なの」
久美が崩さない笑顔で、確信めいた眼を僕に向け続けた。こちらの動きが止まってしまうような迫力がそこにはあった。
「絶対なのよ」
更に深く久美は笑った。
そうして、右手で僕の、トートバッグの巻かれていない左手をさっと握り、階段を下へと降りていった。彼女は僕を導いていった。僕は繋がれるままに、幾度か転びそうになりながら彼女に引き摺られていった。
「大丈夫。校門まで行っても朝礼開始五分前だからね。予備チャイムまでなら学校から出ても『忘れ物した』ぐらいにしか思われない。とりあえず私に付いてきて」
010
久美にそのまま、引きずられるように連れていかれ、辿り着いた先は熊本高校東玄関口。久美は、廊下を通る時も一度たりとも手を離そうとはしなかった。
「なあ、そろそろ手を離してくれよ」
急な展開すぎて思考が追い付けず、強引過ぎて体が追い付かず。心身共にしんどくなってきた僕は彼女に告げる。
彼女は、はたと歩みを止め、訝しげな眼で僕を振り返った。
「ちゃんと付いて来るの?」
「うん。まあ、なんというか、サボりなんてものは、その怒られる場にいなければ物理的には痛くもかゆくもないし。いいよ、別に一日くらい。途中から授業を抜け出して戻ってこないような、明らかに不審で『サボり!』と分かる行動でもないし。今日はあなたに一日付き合いますよ。だから、ほら、放して、もう下駄箱の前じゃないか、靴が取れないよ」
彼女は軽く微笑んだ。とりあえずは僕が、出し抜けのデートを受け入れたことに満足したらしかった。
彼女はローファーを履き、「とりあえず付いてきて」と先程のセリフと同じ言葉をもう一度繰り返す。僕のナイキスニーカーを履くのは、ローファーよりも若干時間がかかる。彼女を若干待たせる間、彼女は一瞬たりとも僕から目を離さなかった。僕が立ち上がったのを見て、彼女は歩きだした。
腕時計を見る。予備鈴が鳴る五分前。彼女が予言した時間にぴったりだった。僕ら二人は、自分たちの教室へと急ぐ人々の群れに逆行しながら歩んでいった。
東門を出る。校門を出て、ちょっと気になったことを彼女に訊いてみた。
「デートって言ってもどこ行くんだ?」
「熊大」
「え?」
「熊大に行くの」
「え? デートで大学行くのか? えっ、ちょっと待ってそれおかしいでしょ。いや、冗談きついなあ久美さん。今日は平日だよ。いや、大学生もいっぱいるでしょ。ね。久美さん。冗談でしょう?」
「私たちは熊大に行くバスを拾うため、今バス停に向かっているんだよ? だから東門から出たんだよ」
彼女は手を離した後も、いつでも手が掴める距離を保ちながら歩いていた。今もそうで、至近距離から彼女は僕と会話している。だから、彼女の確信めいた瞳は変わらず、僕に逃げ場を失わせていた。
彼女は飽くまでも本気のようだった。
熊本大学。
主に熊本市中央区黒髪キャンパスに本拠地を置く県唯一の国立大学。
同じく中央区託麻原に位置する熊本高校からはバスで二十分くらい。
彼女が提案してきたのはその国立大学での平日デートだった。高校生が高校サボって大学デート。高校生が平日の午前中から大学デート。これほどミスマッチな単語群もそうそうないのではないかと心の奥で思った。
唖然としていると熊本高校東門前のバス停に辿り着いた。
バス停に辿り着いた。それはいいとしても時刻表を見るとバスは三分前に出発し、次にこのバス停に辿り着くのは十五分後だった。彼女はどうやら何も計算せずに適当に飛び出して来たらしい。
バス停で待つ間、彼女の方を見やると、腕時計から出る、空中グラフィックを見ている。何を見ているかは分からないし、例え自分の彼女であったとしても、人の見ている画面を覗く趣味は僕にはない。彼女が沈黙すると僕も黙ることにした。どんなに仲のよいカップルだったとして常に会話が続くとは限らない。ましてやこの不自然の状況のなかである。
今回の緊急デート、更には目的地についての理由など訊きたい事は山ほどあったが、先ほど今日一日の日程は久美に託すと決めたのだ。
だったら、まあそこまで気にすることもない。あまり気にすると男らしくないようにも感じた。
011
何も喋らないままきっかり十五分後、右回りバスが僕らの前に到着した。
バスの乗車口がパカッと開いて中からスロープが降りてくる。画面に集中していたが、乗車口の開く音にハッと気付いた久美が先に乗り込む。僕も後ろから付いていく。僕ら二人がバスの通路に差し掛かる時に、入口の脇にある何かの装置がピカッ、ピカッと緑色に二回光った。僕らの衣服に組み込んである身分証明のチップに反応したのだろう。正直、僕は普段からバスは使わないのであまり詳しいことは分からない。
交差点もなく、ほぼ渋滞することもない二〇八〇年現在の立体道路は本当に素晴らしいと思う。本当によくできている。だが、その恩恵の代わりに、道路は一方通行なので、バスはその都市の至る所を経由する。くねくねとした道筋のせいでバスが途方もなく揺れる。バスの運転は機械によるオート作業で行われている。全ての自動車はコンピュータに操作させるよう法律で定められており、機械が全自動で運転するのが当たり前なのだ。機械で正確に運転するためにバス車内の揺れは最小限に抑えられているはずである。はずなのだが、それでも物凄く揺れる。それで酔いに弱い僕は、極力バスに乗車することを避けてきたのだ。
しかし、今日は仕方がない。
一番後ろの、座席が連なる席へ久美は向かった。久美は通路から見て、最も左側の席を一席分空けて座った。久美の横の座席のちょうど中央に位置する席に僕も座った。
席に着いてちらりと右を見やる。久美はまたディスプレイを開いていた。車酔いが常日頃の僕は信じられないものを見た感じがした。
「あの、車の中で文字を見たら酔わない?」
「ん? あーそうか。ゆーくん乗り物に弱いんだもんね。まあ大丈夫だよ。私乗り物酔いには強いはずだし。ていうかゆーくんって大抵の外的要因に対してすっごく弱いよね? 暑かったり寒かったりがすっごく弱いような気がする。運動部なのに」
「いや、このドーム中で育ってきた人だったら誰でもそうだろ。それに僕、結構暑いの好きだぜ?」
ドームというのはこの世界を囲っている透明ドームのことである。
「あれ? この前の全校集会のときも倒れなかったっけ? そういう場面を結構見たことあるような気がする」
「あの日の体育館は蒸し風呂状態だったからな。それに体育館行く前に廊下で、大っぴらにはしゃいで体温が元々上がってたからだと思うよ」
突然、ぐわんとバス全体が左に揺れた。僕も久美も右に引っ張られた。
「バスは苦手だな」
僕は自然、皮肉に笑いながら呟いた。
「ま、まあ熊大まではすぐ近くだから」
久美も声が若干震えていた。もしかしたら久美もこのバスの揺れ方は予想外だったのかもしれない。久美もまた、案外そんなにバスに乗ったことが無かったのかもしれない。
そういえば、久美が今朝作りだした劇的な雰囲気に呑まれてあえて思い付くこともなかったけれど、どうして自転車にしなかったのだろう?
まあ、いいか。それよりも僕の中で先行する大きな疑問を訊いてみた。
「なあ、なんで熊大行くんだ? デートって言うからてっきり通町辺りに向かうのかと思ってた」
通町とは熊本県最大の繁華街の中央に位置する、市電の駅およびその周辺の名称である。
「なんでだと思う?」
久美はちょっと笑いながら逆に訊いてきた。
「なんでって。まあ、そもそもデートなんてものは実は目的地はどこでもよくて、問題なのは誰と行くか。また、どちらか一方の目的を果たしに行くようにコースを設定するのがデート中の中弛みも防げてベター。この二つの鉄板法則に当てはめてみれば、久美が何か熊大に目的を持って向かっている、と僕は思うけど。そうじゃないと熊大で目的なくぶらぶらとしなら、平日の昼間の時間を潰せるとは到底思えないけど」
「ご・め・い・とー、ゆーくん」
当たったみたいだ。まあ、目的が無かったらデートコースに大学なんて選ばないだろう。目的があってもデートコースに大学を選ぶ人もそうそういないかもしれないけれど。
「けど、ハズレ」
「え、うそ。ん? ええと、それはつまりその、今僕た……」
言い終わらずに、今度はぐんとバスが右に曲がる。僕も久美も左にがくんと引っ張られる。
僕はバスがもたらす遠心力に必死に耐えた。しかし、ここらへんは体育会系と文科系の部活の差だったのだろうか、久美の方は完全に不意を突かれたようで、彼女の左肘のエルボーアタックが、僕の右肘に思いっきり入った。
「つあ。が」
僕ののどから、変な声が思い切り出た。
「わ、ああわ、ほんとごめん! 不注意でした!」
あわてて久美がぶつかった僕の二の腕を擦りながら言った。
僕は擦ってくれた久美の手を、また擦り返しながら話を戻した。
「うん大丈夫。ところで話を戻すけど、目的がないけど大学にデートしに行くってどういうこと? 目的がなかったら、そもそも大学なんて選ばないんじゃないのか」
少なくとも僕の場合はそうだった。
「あーうん。デートだったらどこでもいいって考える人の逆の考え方かも。いや、なんていうか、今日、五月二十四日、ゆーくんと私が熊本大学工学研究室に辿り着けさえすればいいの。ちょっと見せたい物があるの」
「結構、具体的な目的あるじゃん。なんでさっきハズレにしたの?」
「由人がドヤ顔で正論正解を言うのが、なんか気に食わなかったから」
「ただのワガママ!」
「でもね、私がちゃんと目的を持って今大学に向かっているかって訊かれたら、必ずしもそういうわけではないの」
久美は単純に僕を困らせたいだけではなかったようだ。
「目的はある。だけど理由は無いの」
「……なるほどな」
つまり、久美は目的を訊かれ、それに答えた。しかし更にその次に訊かれるであろう理由の方は前もって所持していなかった。その前の段階の目的を持っているか否かで否定した。物事には必ず理由がある、と考えるのが自然な人にとっては、その応答の仕方にも納得がいく。僕だってそうだから。
デートの理由なんて彼女には無かった。
「理由は無い。ただ、ゆーとくんをこの時間に大学に送り届けたい。いや、送り届けなければならない。そんな気持ちしか今は無いの」
今日の久美はこんなのばっかりだ。ぼんやりとして掴みようがが無かった。
理由の事は訊かずに久美には違うことを尋ねた。
「その見せたい物って何なんだ? 今、言えることか? 今、言いたくないなら別に、無理して言わなくてもいいけど」
「うーん」彼女は、左手を軽く顎に乗せ、片目を瞑り、首を捻る。「なんていうか、自分で言っといてなんだけど、見せたい物、も確かにあるんだけど、ゆーと君に会わせたい人がいるって言うほうがしっくりくるかな。なんかさっきから私が言ってること、ちぐはぐしてるね」
若干微笑み、バツが悪そうにちらっと舌を出す久美。
「会わせたい人って誰?」
「それは──」
また、がたんっと大きくバスが揺れる。二回の大きな衝撃で学習していた僕は、既に左前の椅子の手すりに指を掛けていたし、久美の方も偶然だったとはいえ、僕にひじ打ちを当ててしまった罪悪感からなのか、右手で強すぎるくらい彼女の前の椅子の手すりを握っていて、僕ら二人は大きな衝撃に揺さぶられることなくしっかりと耐えた。
三度目の揺さぶりに、僕等は動じなかった。
その揺れで少し間が空いた後、彼女はこれから会いに行く人の名前を告げた。
「熊本大学工学部教授、吉良崇博士、だよ」
012
旧豊川街道沿いにある、熊本大学前バス停に辿り着いた。あのあとバスは更に大きく左右に揺れ続け、僕は必死で酔わないように耐えていた。酔わないように気をつけていたのは久美も一緒のようで、バスの車内でそのキラタカシ教授の事について述べつ幕なく喋り続けていた。僕は今日一日は久美に捧げると決めていたので、酔い止め効果も目論んで久美の説明に耳を傾けていた。
吉良崇博士。
簡単に言えばIT開発のエキスパートらしい。
この二〇八〇年は、全体として究極のコンピュータ制御による自動システム化が進んでいる。そんな社会において、コンピュータ関連の先端を作りだしたのだから、究極の中の究極の、それは凄い人なんだろう。歴史上の凄い人の中でも凄い人なんだろう。
もしかしたら、久美がどうしても会いたいなんて言っていた理由も、本当に凄い人にいきなり会いたくなったというすごく単純な理由なのかもしれない。
熊本大学の南キャンパスへと入ってゆく、久美は迷いなくずんずん歩いて行く。僕はただ付いて行ってるだけだ。なんか、デートって感じがしない。僕はただの付添人だった。
「あの、ひとつ聞いていいですか。久美さん」
「なに?」
「デートってのは、その、嘘ですよね。僕を連れ出すための口実って言うか」
「うん。そうだよ」
ああ、やっぱりそうだ。さっきの会話からしてこれから先デートっぽい展開にはならないだろうなって予想が立ったけどこれで確実となった。今日はデートじゃない。学校サボってのただの久美の付き添いだ。
「今度僕にもその時がきたら付き添ってもらうからな」
いつになるかは分からないけれど。
「んんー? 別にいいよ。ゆーくんが付いてこいって言われたらどこにだって付いて行きますよ」
「約束だからな」
「いいよ。約束する」
軽い。この軽さの裏返しとして今の現実を重く感じさせる。
そこまでして椿久美は今日、五月二十四日に吉良崇博士に会わせるために僕、白石由人を熊本大学に連れて来なければいけなかったのだ。
一体、何だというのだろうか。必死の先には大抵よくない事が待っていると、僕の十六年間の人生経験が告げるのだった。
013
熊本大学工学部情報電気電子工学科棟二階、A‐205号室。扉の横のプレートには「吉良崇 教授」と書かれている。ここが、久美が僕に会わせたい教授の研究室らしい。
この扉の目の前まで学生服姿ですんなりと来たが、上は長袖白ワイシャツ、下はスラックスの僕と、白ブラウスと紺色スカートの久美。この二人が大学の中を歩いて行くのは場違いすぎる。思い返してみて少しネガティブになった。
今更ながら、久美は教授とアポイントを取っているのか疑問が浮かんできた。しかしその不安に構わず、トントンと久美は205号室の扉をノックした。
「失礼します」
久美はそのまま部屋に入って行く。僕も付いて行く。
九時ごろ特有の明るい日差しが部屋に差し込む中、少し白髪混じりで、おかっぱ頭の人がいた。いかにも教授らしい人だった。その人が部屋の中で一人、オフィスチェアに座ってパソコンでキーボードを打っていた。投影キーボードではなく、旧型の釦式キーボードだった。
「別に私は入っていいとも言っていない。それに事前の質問の予約もされていない。一体どちらさ……」
彼はパソコンから目を離した。彼は僕らを見て絶句した。
いや、正確に言うならば椿久美を見て言葉が途絶えた。
「まさか、まさか。……ふふふっははははははははははっは! おい、我が友よ! お前の予想が当たったぞ! ふーっはっはっはっ! これが運命か! これほど愉快なことはない!」
彼はいきなり笑い出した。
「ああ。でもここに二人で来た、ということはあれか……、そういうことか! ああ、まるで情景が目の前に浮かんでくるかのようだ! 素晴らしい! ああ! なんと青春の美しきことかな!」
次に彼は恥ずかしそうに顔を抑え出した。
「いや、待てよ。ということは。いや、待てよ。こうなってしまうのか! ああ、ついにこの時が来てしまったのか。なんと悲しきことよ。ああ!」
最後に彼は泣き始めた。
「あの」
目の前でハンカチを目に当てながら、目を腫らしている博士に声を掛けた。
なんか声を掛けるのが申し訳なく感じた。
「ああ、スマンスマン。《《過去と現在と未来を一遍に見た》》だけだ。あまり気にすることはない」
言ってる意味が分からない。僕は久美を眼だけで見た。久美は目に力を入れたまま口を一文字に閉じていた。視線を教授に戻した。しかし、何なんだこの変な博士は。初めのほうはまだ、ましだった。見しれぬ訪問者に対しての接し方は常人だった。だが、そのあとの一人芝居は尋常ではなかった。笑ったり恥ずかしがったり泣いたりと忙しそうな教授だった。
「ああ、えっと君の名前は?」
ハンカチで目を拭き終えた彼が、久美を指して尋ねてきた。
「椿久美です」
「ああ、そうかそうか《《思い出したよ》》。そうだそうだ、そういう名前だったなあ」
まるで昔から椿久美の名前を知っていたかのようなセリフだった。久美が世間的に著名な吉良崇教授の名前を知り、その研究室を訪ねるのはある程度、理由としては理解できた。しかし、この一介の女子高校生にすぎない椿久美の名前をどうしてこの博士は知っているのだろう。元々名前を知り合う出来事でもあったのだろうか。
でもそれだったら、事前に久美から説明があったはずだ。しかし、旧知の知り合いであったという説明は一切なかった。
謎である。
また一つ、今日の出来事で不思議なことが増えた。
今はまだ九時台の、一日のうちの半分も過ぎていない。久美の行動にしても、目の前にいる、このおじさんの発言にしても謎だらけで、謎が多すぎてなんだかもうわけが分からなくなる。
「ん。なんだか君、顔色悪そうだね? ほら、あそこに丸椅子がいくつかあるだろう? あれ使っていいよ。《《白石由人》》くん」
何故、この人は僕の名前を知っている? 熊本高校バスケ部のファンか何かか? いや、それだったとしたら、僕はこの人の顔くらいは知っているだろう。でもこの人の顔に全くの見覚えがない。今日、久美に無理やり連れて来られなければ名前だって知らなかった。本当に初めて接点を持った人のはずだ。
僕は返事が出来なかった。
「ん。ますます顔色が悪くなってきたね。さあさ、早く椅子を持ってきて話そう。今日は私と話しに来たんだろう」
彼は、僕らが吉良博士と話がしたいと思って訪ねてきた、と思っているらしい。
「いや、違うんです。今日、吉良教授に会いたいと突然言い出したのは彼女のほうで、その、僕は付き添いみたいなものです」
久美と僕の、二人分の椅子を運びながら僕は言った。
「いや、白石君、いやこの呼び方はよそう。じゃあ、由人くんで……。由人くん。彼女は僕と君とを会わせたいがために、わざわざ平日のこの時間に、できるだけ早く僕を訪ねに来たんだろう? 椿君はそう言っていなかったかい?」
「ああ、確かにそんなこと言ってました」
僕はよいしょっと二つの椅子をデスクの前に置いて、二人それぞれも椅子へと座った。
「うん。そう。由人くん。私は君に話すべきことがあるんだ。大丈夫。私が話せば君が抱いている、心のもやもやとした疑問は全部晴れるさ。多分、あまり好ましくない形でね」
語るって……、教授の研究成果か何かだろうか? 久美はこの教授の凄さを直に体験してもらうためにわざわざ僕をこの研究室まで連れてきたのだろうか?
「あー、いや、すまない。好ましくない、というのは私の独り言だ。私はただ私の良心にしたがってありのままに告げるだけだ。なに、そんなに心配そうな顔をしなくともよい。好ましいか好ましくないかは《《君自身が》》決めることだ。いや、口が先走ってしまった。失敬失敬」
僕は何も返せなかった。
「さて、何から話そうか、とその前に」
教授は話を区切り、久美の方を見た。
「椿君。君は出たほうがよさそうだね」
「……わかりました」
そう言うと、久美はすっと立ち上がってくるりとドアへ向き直した。そのまま歩いてドアを開け、がちゃんっと扉を閉め外へと出て行った。
え、どういうこと?
僕は何も言えず一連の動作をただぽかんと見つめていた。
「さて、まず何から話そうか。話すことが多すぎて何から話し始めればいいか分からないな」
相変わらず、自分のペースで話を始める吉良教授。僕はあわてて吉良教授の方へと向き合った。
「そうだな、まず君には選択を迫ろう。君はこの地球に居続けたいか? それとも違う世界で暮らしたいか?」
「はい?」
「ああ、スマン。やっぱりこの言いかたじゃダメだ。うーん考えろワシ。どうすれば首尾よくこの青年に物事を伝えられるか……、うーん」
腕組みして考え始める教授。
はっきり言って、『奇怪』という言葉が一番似合う。
「うん、そうだな。私の一人語りでも間に合うだろうが、私は聴衆者に質問をしてから話を始めるタイプでな、いつも講義でもそうして始めておる……。だからといってさっきのは少々飛躍しすぎた質問のようだった。よし、質問を変えよう。君にも答えやすい質問をしよう。まあ、気軽に答えてくれ。君は両親が好きかい?」
「はい。仕事が忙しくてすれ違うことが多いんですが基本好きです」
「そうか。君には兄弟はいるかい?」
「いません」
「君は学校の友人たちは好きかい?」
「はい、仲良くやっています」
「そうかい。それは良かった。では、次の質問」
「椿久美は好きかい? ああ、これは言ってなかったね。私は知ってる。君と椿久美が特別な交際関係にあることは既知の上での質問だ。君は、椿久美の事が好きかい?」
「……好きです。言われればどこにだって付いていけるくらい好きです」
「そうかそうか。それなら良かった。いや、良くなかったと思うべきところかな。まあ、そこは君が判断するところだろう。では君は……」
教授は考えるように少し矯めた。
「そんな君の好きな、君の周りにいる人が全て嘘だと言われたら、信じられるかい?」
「……」
「君の周り、いや、君が見える範囲だけじゃない、この世界中のほとんど全ての人間が、人間ではなく、人間の振りをした人間に限りなく近い構造を持っている『機械』、すなわちロボットだと言われたら信じられるかい?」
矢継ぎ早に、真面目そうな上目使いで次々と話を続ける教授。
だから、そんな真剣な表情で冗談みたいなことを訊かれても返答に詰まった。
「それは……、つまり僕の両親や友人や学校の職員なんかがみんなロボットだって言ってるんですか?」
「そうだ」
「信じられません」
「だろうな。だが、これは真実だ。この二〇八〇年現在、《《公式に》》地球上で生存している人間は君だけだ。君以外は全員人間の振りをしているロボットだ。……もちろん私を含めてな」
「嘘です。だって現にあなたは人間じゃないですか。どう見たって人間の姿をして僕の目の前に立ってるじゃないですか。今僕は、人間と喋っています」
「うん。うん。わかる。君の言わんとしていることは僕にも簡単に想像がつくよ。だが、これは真実。私はロボット。君は人間。そして君以外の周囲にいる人間はみんなロボット。そして私が一番辛いのは、君に私がロボットである証拠を見せることができない点だ。まあ、体を分解してみればわかることなのだがね……」
教授は軽く笑った。僕は負けずに言い返してみる。
「僕以外の人間がロボットである、でも証拠は無い。それだったら別にあなたたちを人間と見做して生活していけば何の不自由もないんじゃないですか?」
「そう、それなんだよ。別に君にとっては世界の真実を聞かされようと、私生活に何の影響も及ぼさない。だが……」
ちょっと言いにくそうに博士は目線を左下に逸らし、続けた。
「それも昨日の君と椿君のキスまでな」
は? どういうことだ? 色々どういうことだ? 何故この博士は僕と椿久美がキスをしたことを知っているんだ?
「なんで知っているんですか?」
「ん、まあ、それは椿久美が特別な、いや、君にとっては特別なロボットだからだよ。まあ、私が知っているのは椿久美が思い入れのあるロボットだからなんだが……。まあ、その辺は追々話をするとしよう。それよりもまずは君に迫っているある危機について話さなければならん。君には時間がないんだ。端的に言おう。君の命はええと……」
そう言うと、博士は壁に掛けてある時計を見やる。時刻は午前十時ちょっと前、九時五十五分辺りといったところか。
「君の命は後残り約十四時間、明日、五月二十五日午前零時に終わりを迎える」
014
またまた信じられない話だった。そして、今回は信じられないだけでなく我が身に直接降りかかる話だった。はい? 今この博士は何と言った? 五月二十五日に死ぬ? 僕が? 一体……
「……それは何故ですか?」
「うん? いやに冷静だな? まあ、実感が湧かないんだろう……。ええっと何故かって? それは君がこの世界にとって不都合な存在となってしまったからだよ、白石由人くん」
「不都合って……。僕には何の覚えがありません。それにさっきの話と噛み合わせると、その、まるで椿とのキスが原因で僕が殺されてしまう、見たいに聞こえてくるじゃないですか」
「椿くんとのキスが原因で君が殺されてしまうのだよ」
教授は当たり前のように言った。
「この世界には十三年前、世界規模での戦争が終わったあと、コンピュータが世界を統治した。いや、以前からコンピュータが世界の均衡を保つ役割を果たしておったのだが、コンピュータを統治する役割の人間が全員、いなくなってしまった」
「人間は全員死んだんですか?」
「いや、正確に言うと死んだのではない。消されたのだ。人間の叡智による科学技術の発展の賜物、『物質移転装置』によってな。──『物質移転装置』。それは二つの装置がセットになって一つの機能を果たす。それぞれの装置の名前を便宜上『プラス』、『マイナス』と名付けようか。まず『プラス』の方で移転させたい物質に特殊光を当てる……まあ、この特殊光の中身までは詳しく説明しなくてもいいだろう。そして、その特殊光を当てた物質の原子組成の情報を読み取る。そのあと、その情報が『マイナス』の方に送られ『プラス』の方の物質と《《全く同じ原子配列の物質》》を周囲の原子、いや、この場合はもっと細かい粒子を組み変えて、『プラス』の側の物質と全く同じ物質を作り上げるの。つまり、この世に全く同じものが二つ出来上がるわけだな。これが『物質移転装置』の簡単な説明」
「……素晴らしい発明ですね」
難しい説明だったので、一瞬、反応が遅れた。
「そして、更に素晴らしいことにこの『物質移転装置』が物質の移動にも応用されるようになった。
すなわち、さっきの説明から続けると『プラス』の方で物質を読み取り、そして『マイナス』の方に新たに物質が生成されたことが確認されたあと、『プラス』の特殊光を浴びた物質を消去することができる機能が搭載された。つまりは人類は遂に『瞬間移動』を可能にしたわけだ。まあ、情報が伝わるまでに少々の時間がかかる。といっても地球上では光速ですら、人類にとっては一瞬とさほど変わりはないんだがな」
僕は信じられなかった。だってその技術、今、二〇八〇年の現在では使われているのを見たことがない、どころか聞いたことすらなかった。
「そして、『物質移転装置』は人間の移動にも応用された。これは素晴らしかったよ。人類の在り様そのものを変えた。風景を変えた。それまでの社会をひっくり返すほどの、いわば革命だったよ。……君は『ドラえもん』の『どこでもドア』を知ってるかい? 知っているね。あれは、百年以上昔に創られたお話なんだけどさ。うん、まあ、《《そこ》》にも疑問を持ってほしいんだけどな君には。うん、まあ、その『どこでもドア』を世界中の人々が利用できるようになった、と思えば想像しやすいんじゃないかな。それはともかく、その、人類の画期的発明の『物質移転装置』が……」
敢えてなのか、教授は一瞬間をためた。
「軍事的にも利用された」
僕は軽く首肯し続きを促した。
「軍事的にも画期的な発明だったよ。戦争の戦い方自体を変えた……。何せ相手を殺さずに戦局を有利に進めることができるからね。動く人間に光を照射し、情報を読み取り本国へ移転。兵士は気付いたら相手側の捕虜になっているってわけさ。武器だって同じさ。目の前で爆破が起こる。だが、起こった瞬間にコンピュータ動作で瞬時に光を当てる、そして何もない宇宙空間へと爆発そのものを移転させる。もうこれで火薬兵器による破壊はほとんど意味をなさなくなった。いけてせいぜい半径数十メートルさ。これは人道主義の立場からも倫理的に絶大な評価を受けた。たとえ戦争をしても死人が出ない、街を破壊しない、経済的にも人的資源の欠落を除けば、あまり被害を出さない。そして、何より、その圧倒的な技術のおかげで戦争が行われなくなったほどだ。相手側に直接的なダメージを与えることができなくなってしまったからね。民族的な恨み憎しみによるテロも、ほとんど行われなくなったさ──それが完全に無意味な行動に堕してしまったからね」
「何だか、いいこと尽くしですね? でも、何でそんな大層な技術が、今に引き継がれなくなってしまったのでしょうか?」
僕は、最初の教授に対する不審な気持ちも忘れ教授の話に聞き入っていた。あまりの理想的な科学技術の話に、得も知れない面白さを感じていた。
正直言って久美にも聞かせたい話だな、なんて思った。だが、その椿久美の退出を教授自身が促したのだ、恐らくは何かしらの理由があるに違いない。
そんな風に心の奥で思い、また教授の話に耳を傾け続けることにした。
「うん。まあ、先を急ぐでない。これから先、由人くんに伝えなきゃいけない話はもっともっとまだまだある。うん? どうだろう。まだまだあるかな? まあ、いいや。とりあえず私の話を続けるね。あ、これ言い忘れてたけど今度から私が話をしているときは質問は厳禁ね。……これ講義でも言ってることなんだけれども。」
僕は首肯だけで教授に同意のサインを送った。
「ええっと、どこまで話したっけ……、そうか、戦争が無くなった、というところまでだったな。ふむ、まあそうだ。これから話す続きは、表面上には戦争は無くなったが、そんな時代にも《《社会の中》》には戦争の種はいつでも存在していた、と言えるかな」
「……」
「考えてみれば、『物質移転装置』には、最高理想の装備、といっても付け込まれる隙はいくらでもあったんだよな……。とりあえず、言えることは、あるきっかけで戦争が再び勃発した。もう、二度と起こらない戦争であるだろうとみんなが予想していたところ、小さな小競り合いから戦争が起こった。たった二国間の、小さな領土問題だ。
だが、まあ、戦争とはいっても、死人は出ない街は破壊されない、優しい戦争になるから人類は大した心配もしなかったんだ。国際連合も大して問題にも上げなかったし、もちろん、何らかの解決策を講じることもなかった。ところが、その対戦国の片方の国がやってはいけない行動に出た。──いや実はこれ戦争中は判明しなかった事実なんだけどね」
「……」
「『物質移転装置』の移転先を、設定していなかったことが分かったのさ」
「……まずいですね」
「ああ、まずい。戦争に決着がつき、条約を結ぶ際に、さあ、うちの国民を返してくれ、と求めたら『君らの国民はもういない』と返したわけだ。これは大問題。パックス・テクニカと称された時代から未曾有の人類の危機へと急転化したわけだ。これには国連もすぐに処置を下さねばならない。そして怒れる国民。侵されたほうの国はハス共和国なんだけどね。……そのハス国の国民の怒りを納得させるだけの制裁を国連は下さなきゃいかなくなったんだ」
何だかよくわかんなくなってきたぞ。知らない単語を聞かされるなんて、本当にまるで講義のようだ。
「……とまあ、詳細なことは置いといて、君にとって大事なことは、」
教授は一拍、間を置いた。
「止められない戦争が、一気に起こったわけさ」
喋るのを止め、ボーっと目線を斜め上に挙げながら、教授は、
「あれは非道い戦争だった」と、続けた。
「国連も頑張った、が、すぐに戦争は飛び火した。飛び火したあとは、戦争の原因なんて一概には言えない。──その、移転装置の “恐怖” そのものが原因だったのかもしれない。負の連鎖、憎しみの怨嗟は数限りなく続き、その火種はもちろん、僕らの国、日本にもすぐにやって来た。そして……、長かったね。ようやく個人の話に入るよ。君のお父さんの話だ」
「僕のお父さんですか? それなら今、いや、ええっと昔の話ですよね。おそらく十七年前も今と同じでホワイトカラーで働いていますよ」
当時から転勤族であったかは知らないけど。
「いやいや、最初に言っただろう。《《この世界は嘘だって》》。まあ、その、君にとっては突拍子もないことだから、その説明をしているところなんだけどね。
「君が思ってる、信じてたお父さんも、本当のお父さんではないよ。
「君の本当のお父さんは十七年前に地球上から消え去った。
「今の君の父さん、そして、ついでに言うと、君のお母さんも、みんなロボットだ。人間らしくふるまっているが、人間ではない。
「究極的に人間に似せた、ただのロボットなんだよ。
……違う。ロボットならそこらじゅうにいる。人型だって、人間に交じって働いている姿を何度も目にしてきた。うちの母さんが、あのロボットたちと同じだなんて、そんなことあるものか。──あるわけがない。
「違います。僕の母さん、父さんがロボットだなんてあり得ません。れっきとした、正真正銘の人間です。それ以外、あり得ません」
「うんそう思うのも仕方がないね。だけど、君に提示できる、君を否定できる証拠なんて、わたしは持ち合わせていない。彼らはそれは人間らしく、いや、人間と全く同じだからね。外見上は。そして、中身も。
「だが、これは真実だ。
教授は続けた。
「これは真実で、もう少ししたら僕の話を絶対に信じなくてならなくなる。
「だから、話を続ける。
「君のお父さんの話をする。《《今の》》君には白石健、というお父さんがいる。だが、それは後から定義付けられた、単なる事象だ。
「君の本当の、──人間のお父さんの名前は、白石遼。職業、熊本大学理学部物理学科准教授。僕の大学時代の後輩、でなおかつ教授時代の研究仲間だ」
吉良教授は思いだすように、目を瞑り、人差し指を立て、くるくる回しながら話を続けた。
「僕と白石君は、大学内の量子力学センターで『物質移転装置』の応用研究のためチームを組んで活動していた。まあ、大学在学中から僕は彼の世話を見てきたからね。彼のほうから、僕の研究室に入れてくれって届けがあったんだけど……」
教授の話はそこで途切れた。
もちろん、教授が突然に倒れた、とか消えてしまって話すのが不可能になった、というわけではない。
教授は喋り続けているが、僕には聞く必要がなかった。
なぜなら《《知っていた》》から。
その話はもう、僕の中にあったから。
015
はたして、人間の記憶には実質的な時間や空間の概念は存在しない。例えば、秋刀魚を食べた記憶があったとしたら、それが《《いつ、どこで》》食べたものであるか、という情報はほぼ残らない。
特に時間や空間を隔てれば尚更で、ただそこに食べたという記憶のみを保持していくものなのだ。
つまり、記憶とはただの、何の具体的な情報を持たない映像。想像にすぎない。
そして、また逆も然り。《《本当にあった過去を現実を》》、寝ていた時に見た悪夢、ただの劇、悲劇、とすることも可能なのだ。
そうやって逃げる術を人間は持っている。
僕は次の話を夢の中の話だと思っていた。いつか見た、だけれど、いつの事かは覚えていない。しかし、内容だけははっきりと覚えている。そんな夢。
昨晩、久美に話したようなただの夢。
悪夢、想像に過ぎないと思っていた。
だが、目の前で、白髪の叔父さんが語るには、これは夢ではなく現実であったらしい。
以下、夢の話。
016
父さんは爆撃で死んだ。
父さんは何か偉い、大学の教授だったらしい。
父さんはその日、僕を研究室へと連れていった。
父さんは大学の研究室に、何か特別な機械を持っていた。その機械は棺桶のような見た目をしていた。今が危ない時代だ、ってことは分かっていた。分かっていたから、それが何か戦争で使われる機械なんだろうな、と見当がついた。
けれど僕はその日にその場所にたった一つの爆弾による爆撃が行われることは予想にもしていなかった。否、実際は爆弾ではなかったのかもしれない。何せ都市は透明のドームに覆われ、そのドームをすら透過する何かでなければならなかったから。
だけど何にせよ、当時の僕は大勢を一度に攻撃する兵器のことを『爆弾』と呼んでいた。その『爆弾』について全く思考を巡らせていなかった、その時の僕は、父さんがまた研究室の自慢を息子にしたがっているんだろう、なんて考えていた。そして、その時は十分に楽しかった。
だが、
研究室の赤いデジタル時計が11時28分を示す頃。
ウウウウーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ
と、大学全体に割れんばかりの空襲警報が鳴った。
「来ましたか……」
父さんはそう言って研究室のその棺桶のところへ、僕の手を引いていった。
棺桶の前まで来ると、何か原始的な鍵を使って蓋をカパッと開けた。
「ここに入りなさい」
「……これは何?」
「……入ってから話そう」
僕は父さんの目を見た。少し怒りが湧いているような、有無を言わせない目であった。
僕は棺桶の中に入った。
先程の空襲警報といい、この棺桶のような蓋を閉めれば密閉されるであろう機械といい、
この機械は爆撃を防ぐものだろう、と僕は感づいた。
「と、父さんも別の機械に逃げるんだよね」
棺桶の中のベルトに固定されながら僕は言った。
「十五分だけだ……。十五分だけこの中にいてくれ。十五分後には自動でベルトが解ける仕組みになっている。それまで、この中にいてくれな」
父さんは、僕の質問に答えていなかった。
「と、父さん…?」
「これをお前に預ける。外に出た後、お前のその腕時計にこいつを翳すんだ。……頼むぞ」
そう言って、固定されていない手首以下の掌に、ひとかけらのICチップを握らせた。
まるでそれは息子に何かを遺すかのようなやり取りだった。
「や、やだよ父さん。父さんなんか死んじゃうみたいじゃないか。これも自分で翳せばいいじゃないか! 父さん!」
「すまない時間がない。愛しているよ。白石由人」
そう言うと父さんは、蓋を僕の上に重ねた。急激に真っ暗になる視界。
そして、カチリっと音がした。
僕は大声をあげたりはしなかった。完全に固定された感覚があり、視界が真っ暗闇の中では、声をあげても暴れても何もしたことにはならない。全ては虚しい行為だろうと、暴れる前にそれを悟った。
そして、一人、覚悟を受け入れていた。
父さんは死ぬのだろう。
僕は一人で生きるのだろう。
周囲に人間はほとんどいなくなるのだろう。
やっぱり怖い。僕にはもうこれしかない。
そう思って掌にある小さなチップをぎゅっと握りしめた。
───。
ガゴンッと音がした。音がした以外は何も変わらない。依然として真っ暗だ。
音がしたのは何かの合図だ、きっとそうだそうに違いない、と思い右手を動かしてみた。
手首のベルトは外れていた。そして、体幹に巻き付いていたベルトも外れていた。
数十分閉じ込められたことによる疲れが身体中を襲っていた。外の様子が気にはなるが、もう正直、わかり切っていることだった。
空襲警報の音を思い出す。
…………。
「──父さん」
小さく呟いて、蓋を上へと押し上げた。
目の前には先ほどとなんら変わらない研究所の風景。
だが、そこには、誰もいなかった。
017
まだ、夢の中。
誰もいない研究室を後に、建物の外に出た。
そこにも誰もいない。
全く破壊されずにそのまま残る建築物。既に空襲警報も止まっていた。
しんっと静まり返る構内。
まるで時が止まり自分だけが動いているような妙な感覚にとらわれた。
僕は顔を上げる。冬らしい曇天が広がっている。灰色の空が滲み始める。泣いちゃだめだ。泣いたって何も変わりはしない。
泣いたらダメ?
本当に?
涙が頬を伝わるのを感じた。上を向いて、涙が零れないようにしていたのに、ダメだった。
「……くしょう、ちくしょう。何でだよ。何で……」
「……んで、何でだよ! ちくしょうあああああああああああ!!!!!!!!」
僕は堪え切れずに、上を向いたまま宙に向かって咆哮した。
空襲を恨むように、戦争を恨むように、大人を恨むように、神様を恨むように、運命を恨むように。
宙に向かって泣き叫んだ。
「ああ、あああ、あああああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ! あああああああ、あああああああああああああああああ何で、何でああああああああああああ!!!!」
全く誰もいない静かな世界で、僕は運命を受け入れるように膝から崩れ落ちた。
天を見上げることも疲れ、首から力が抜け、だらんと頭を垂らした。
右の掌に何かを握っている感触。滲む視界の中、ゆっくりと掌を開くとそこにはもちろんICチップがあった。
「……っく、ぇっく」
嗚咽が止まらぬまま、そのICチップを左の腕時計へと翳す。
腕時計が何かに反応した。一瞬小さく光り輝き、そして、急に、眩しく大きく輝きだした。
「……くっ!」
急激な眩しさで思わず顔をそむけ、光を逸らすように左腕を前へと差し出した。
その前へと差し出した左腕から、さらに前へと、昼間にも拘らずはっきりと見える、直進する光線。
その光は一メートルほど伸び、そして、その光の先端から、徐々に徐々にぼんやりとした、大きな円状の、自分と同じかそれ以上に大きい、何かしらの影がゆらゆらと幻出した。
そして、次の瞬間。その黒い影はパアンッとものすごい勢いで光り輝いた。先ほどの腕時計と同じような輝き方であったが、なにせその輝きの大きさが違う。
一瞬に、何か莫大なエネルギーが一気に収縮したような、周囲が大爆発を起こし中心が急激に潰れたかのような、そんな輝きだった。
そして、そんな輝きのあと。
そこにいたのは──
そこにいたのは──
そこにいたのは──────
018
「違う!」
僕は教授に向き合って叫んだ。
「違う! 違う! 違う! 僕の父さんは……」
この夢を思い出すたび、想起する矛盾。
《《あの人が父親だ》》という謎の確信。
「父さんは……」
その矛盾を、僕は否定することができなかった。
僕は両手を膝に乗せ、がっくりと項垂れて、夢の続きを述べることはできなかった。
「そこにいたのは、──────」
僕の代わりに教授が、あの夢の続きを述べた。
「……あなたは、」
僕は項垂れ、下を見たまま単純な疑問に触れる。それはまるで最後の抵抗のように。
「あなたは、その、本当の父親と共同研究していたんですよね? では何で………何で今ここにいるんですか……? あのとき……、全ての人がいなくなりましたよね……? おかしいですよね……?」
正直言って回答なんて分りきってる質問だった。
「それは私がロボットだからだよ。あの戦争で亡くなった吉良崇を、そのままコピーした私だからだよ。そして、あの時の君の行動は大学研究室内の監視カメラに全て残っているからだよ。僕らロボットは、中枢に存在するデータをそれぞれがコピーすることだって可能だ。勿論、ホストコンピュータからの許可がなければ見ることはできないが」
教授は訥々《とつとつ》と答えた。
ダメだ。あの夢を思い出しただけで吐き気と涙が込み上げてくる。
僕は一度歯を食いしばり、深く深呼吸を取り、涙が零れないように注意しながら、顔をあげた。
そして、教授をまっすぐに見つめた。
「その……、戦争は止められなかったのですか? 貴方達は、その……、物質移転装置を作り上げる研究に携わった張本人なんですよね? 貴方達ならその装置の暴走化を止めることは出来なかったんですか?」
「んん? 由人君、君は色々と勘違いしているようだね? とりあえず暴走したのは機械じゃない。どちらかといえば人間だ。そして人間も別段暴走したわけじゃない。それがそのまんま人間の姿なんだよ。さらに君は色々と勘違いしている。僕らは移転装置そのもの、移転装置の改良を研究の目的としていたわけじゃないんだよ。僕らは物質移転装置をどのように防ぐことができるかの研究をしていたんだよ。僕らきみの父親を除く研究員は、全く予想外だったよ。まさかまだ試作段階のシェルターを君のお父さんが幼子だった君に使うだなんてね。これは偶然の僥倖だったのかもしれないね」
僥倖って……。果たして、生き残ったことは幸せと言えるのか? 僕は、少し震える唇の内側を軽く噛みしめる。それにそもそも、僕の質問は、僕の聞きたいことは、僕がこの人に聞きたいことは。
「僕のことじゃないです。あなたのことなんです。科学者である以前に、その時代に生きていた一人の人間として、やれることはなかったのか。と聞いているのです」
「なかったよ」
あっさりと、当たり前のように教授は言った。
「何もなかったよ、僕にやれることは。あ、そうそう、これが一番大事なことなんだけどね、『物質移転装置』は時限式で、なおかつキャンセル不可なの。一度移転させる物質の目標を定め、更には移転先を定め、そして移転時刻を定めたらもう絶対に止めることはできないの。これは量子論の双子電子の理論を応用しているからなんだけどね。そこにないはずの物質を《《そこにある》》ように定めることが、この装置の肝だからね。一度決定した存在の選択は変えることができないの。《《そこにあるからそこにあるの。》》わかるかな?」
結局、僕についての説明に戻ってきてしまった。なぜだろう? なぜこの博士は自分のことを話そうとしないのだろう?
そして、なぜだろう? 一種の怒りに近い感情が湧いてきたのは。
もう既に、唇の震えは止まっていた。
「………」
「おや? どうやら不満そうな顔だね? いや、当たり前か。もう君には物質移転装置の時限作用が、既に作動してしまっているからね。もう君が明日の午前零時にこの地球上に存在しないことは決定事項だからね」
僕が、消える。
それまた、何で。
怖くはない。
ただ、怒りが、なぜだろう、更に沸々《ふつふつ》と湧いてきた。
「君は、椿久美にキスをした。それだけで十分に君が消える理由になるのだよ。君が消えるに値するだけの、充分な不都合を君が有してしまうのだよ」
「この時代の、究極なまでに人間に、似せた、近づけたロボット、いや、もっと言うなら、人間が創り出した人間でも、人間との間の生殖だけは出来ないんだよ」
「いつまでたっても子供ができない。そのことに君は疑問を感じるだろう。周囲にいるロボットも、病気やらなんやら言って、なんとか都合を作りあげて君を宥めようとするだろう。しかし必ず君は疑問を持つようになる。体外受精であれなんであれ絶対に子供ができないのだから」
「そしたらどうだ? 君はこの世界に疑問を持つかもしれない。お前は何か秘密を持っているんじゃないか? 何か隠してるんじゃないか? ってね」
君は世界に不都合だ。
こうやって面と向かって、人にその言葉を投げかけることができる人間が果たしてどれだけいるのだろう。
この人は人間ではないのかもしれない。
そういえば、この人は人間ではないと言っていたな。
自分はロボットだ。と、そう言っていた。
ロボットだから言えるのだろうか? ロボットだから話が止まらないのだろうか?
僕にはもう、博士の声は届きやしなかった。ただ目の前で机を隔て、とある人間が何か音声を発しているな、くらいにしか思えなくなった。
僕はただ、静かな怒りを持って、博士の発する音声を受け止めるにすぎない機械になった。
ただし機械ならば感情は持たない。怒りを持つ分、僕は人間だ。
僕は、人間だ。
ただしゃべり続けるだけの機械じゃあ、ない。
生きている。感情を持っている。そしてそれは、因果律を基にした単純な理性を超えている。
人間は、何をしだすか分からない。わからないのが人間だ。
とりあえず、目の前の人間には黙って欲しかった。
否、違う。目の前のそれは機械だったか。
とりあえず、目の前のそれには口を閉ざして欲しかった。
激昂してしまう。
僕は右手の親指を掌の内側に握り、親指の第一関節と第二関節の間に人差し指の爪を力の限り突き立てた。
痛みを与え続けていないと、感情に操られ右手が勝手に何をしだすか分からない。
堪えろ、自分。
「ん、どうした? 顔が真っ赤だよ? まあいいか、続けよう。でね、」
黙れ。
「君は消える。何も不審に思わないように。でも死にはしない」
黙れ。
「君は地球から消えるだけで、月に移転されるんだよ。よかったね。月は良い所らしいよ、実際。物は軽いし身体は軽いし人間には地球よりも丁度良いかもね。それとね」
「黙れよ!」
……遂に口に出てしまった。でももういい。僕は構わず、少し震える声で続けた。
「……だ、黙れよ。俺が死ぬとか突然言われても知るかそんなもん。あんたの話聞いてると全ての引き金はその戦争じゃねえか。お前らの世代の責任じゃねえか。人が全ていなくなった? 実はこの世界は見せかけだけの世界だ? それがばれそうになったからお前も消えて欲しい? 馬鹿げてる! 全部てめえらの責任だろ?」
「私の責任じゃあ、ないよ。なんせ私はロボット……」
「知ってんだよんなもんっ!」
怒鳴った。否、むしろ吠えたというべきか。
言葉を、声をぶつけるように、眼の前のものに思いっきり叫んだ。
恐らく届かないだろうとは知っていながらも。
「抑えて抑えて」
博士がまあまあと言わんばかりの、両の掌を下方に向けて、心を静めさせようとするポーズをとる。心なんて無いくせに。お前はそのポーズで伝わる感情なんて一切持ち合わせてはいないくせに。
「お前らが、お前らが、当てもなく科学を発展させようとした結果、戦争になったくせに……。都合よく、便利にしようとした結果、取り返しのつかない世界になったくせに……。お前らが、お前らが、お前らが……」
「だから、僕らはね……」
「《《お前も》》なんだよ!」
胸座を掴んだ。掴もうとした。掴んで威嚇しようとした。否、殴ろうと思った。殴って自分に与えられた突然の不幸をこのロボットにも分け与えてやろうと思った。
だけど、掴めなかった。
博士の胸座の白衣を掴もうとして、両手を差し出し、白衣に手を掛けたのだが触れなかった。
《《僕の両手が博士の胸をすり抜けた。》》
「………っ!」
すり抜けて、博士が座っているリクライニングチェアの背凭れに両の拳が到達した。
いや、実際には到達した感触がした。
目の前の博士の胸にはバスケットボール大の闇のような、暗い風穴が開いていた。
開いている風穴は暗闇で中は見えない。
その暗闇の中に、僕の両腕は前腕から吸い込まれていた。
博士は。博士はどうなっている?
目線を動かし、博士の顔を覗く。
博士の顔は無表情だった。昨日、椿久美が僕に見せた、あの死人のような表情にそれは似ていた。
さっきまで会話をしていたとは思えない、がらんどうな眼を真っ直ぐに向けていた。
その目の恐怖、わけが分からない事態。得体が知れない。有り得ない。
抜く。両手を抜く。両手を抜こうとしたが、右手しか抜けなかった。
なぜなら、抜こうとした時に博士の右手が僕の左手を掴んだから。
速かった。そして掴む手は充分に力が強い。
いや、待て、反応した? この博士は、椿と同じ無表情なのに僕の行動に反応した?
昨日の椿の場合は僕が手を握っても握り返すような反応はなかったし、僕が声をかけても何の返事もなかった。
さもありなん、とでも言うようにそのままそのまま行動を続けていただけの、さながらロボットのようなそんな行動しか取れなかったというのに。
この眼前の博士は、僕に反応した。
僕の左手を押さえる博士の右手は、まさにブルブルと大刻みに震えている。
物凄く力を入れて動かしているかのような、さながら、何かに抵抗しているかのような、そんな右手の動かし方だ。
教授は更に左手を、博士の右手と同じようにブルブルと戦慄かせながら、肩から動かしその左腕全体を宙に浮かし、サイドワゴンの二段目の棚をゆっくりと人差し指で指差した。
彼は僕を見ていた。先程までの空洞の眼ではなく、ちゃんと意志を持って僕を見ていた。
そして、博士は戦場で何かを成し遂げたあと、命の果てた兵士が見せるようなゆったりとした柔和で微かな笑みを口元に浮かべ、ゆっくりと右手左手を下に降ろし、最後に瞼を閉じて、頭を下した。
019
僕は壁に凭れ掛かった。目先三メートル程先にはさっきまで僕が座っていたシルバーの足、黒色のクッションの付いた丸椅子が二つ床に転がり、年季が入り所々黒色に錆び付いてはいるものの全体的にはシルバーのワークデスクが鎮座して、その先に。
その先に、胸に黒い穴を開けた教授が座っている。
座って、止まって、終わっている。
僕は眺める。ただ眺める。眇めることはできない。この人は、この物は、これは。
自分の役割を全うしたのだから。
恐らく最もつらい役割をこなしたのだから。
だからといって、敬意を払うことはできない。僕はそこまでお人好しではない。
人のことを不必要だと言うものに敬意を払う心は僕は持っていない。
僕は真っ直ぐに向けていた視線を天井へと移した。
右足だけ伸ばし、左足を屈伸させ更に体重を壁へと寄せた。
……疲れた。
壁に掛った時計を見やる。針は午前十一時半過ぎ。
二時間近くも教授の話を聞き続けたわけか。疲れて当然だ。
……眠い。正午まで後少しだというのに空腹を全く感じない。
ただひたすらに眠い。眠ってもう眼の前の現実から抜け出したい。
僕は目を瞑る。ただただ思考する。
教授に空いたあの穴は、恐らく『物質移転装置』の『プラス』ということだろう。
僕は何も触っていない。何も触らずに僕の両手は教授の後ろのチェアにぶつかってしまった。
まるでそこに《《何もないのが当たり前》》であるかのように身体をすり抜けてしまった。
つまり教授の胸の部分だけどこかへ移転してしまった……いや違う。
教授の胸部だけ今も移転し続けているのだろう。だから、そこには何もないのが当たり前なのだろう。
目を瞑り思想を続ける。
今、そこで『物質移転装置』の存在が確信へと変わった。まざまざと見せつけられた。
つまり教授の言っていたことは本当で、僕の父親は本当の父親ではないし、母親も本当の母親ではないし、それどころか人間ですらないし、そこには感情なんて無かったのだろう。
ましてや愛情なんて全く無かったのだろう。
僕の知っている過去は偽物で、僕が見てきた夢が本当だったんだろう。
本当の現実は暗くて怖くてつまらないと、そういうことなんだろう。
僕はゆっくりと思い出す。先程思い出した夢の内容を思い出す。
あのとき、僕の腕時計が光線を放ち、その先の黒い影から現れた人物は、椿久美だった。
伏線なんて意味はない。聞きたくないことを聞いていないかのように、見たくないものを見ていないかのように、思い出したくない話を思い出していないかのように、言葉を伏せるのはもう止めよう。
あの夢の中、光の先ににいたのは、間違いなく椿久美だった。
椿久美があのとき絶対的な孤独から救ってくれた。
これは夢のお話だ。そして現実にあった日常だ。
オーケイ。わかった始めよう。
夢の続きを語ろうか。
以下夢の話。
020
光の中に女の人が立っていた。
ぼくは何となくだけど、その女の人を見たことがあるような気がした。
だからかもしれない。とても安心した。
人がいない風景にやっと人に会えた安心感、だけでは決して説明がつかなそうな、心の底からの安心感。
まるで包み込まれるような安堵感。
光が消えた。光が消えて、その人をじっくりと見ることができた。
その人は変な服を着ている。白色無地のぴっちりとした、長そでのインナーシャツみたいな服。長そでの先にも白色無地のぴっちりした手袋。下はこれもまたぴっちりとした股引のような白色無地。靴もまた白色無地。まるで服を着ていないみたい。
全体がぴっちりとした恰好をしているから、全身が細く見える。特に太もも辺り。一番肉がつきやすいところのはずなのに、その人の脚は膝から足の付け根まで、幅が少しだけ、本当にほんの少しだけ太くなっているだけで、簡単にいえばすっきりとした、理想的な脚だった。
その人が僕に向かって歩いてきた。尻もちをついて茫然と見ている僕。
その人は少しかがむようにしてぼくを覗きこみ、右手を差し出しこう言った。
「こんにちは、白石由人。私があなたを守ります」
021
ここで夢が途切れる。
そして次が、椿久美が出てきたもう一つの夢。
ラスト。僕が知っている椿久美との夢の話。
022
僕は怖かった。恐怖に包まれていた。
僕は泣いている。しゃがんで腕に頭を埋めるようにして泣いている。
右隣に誰かいて、僕の頭を撫でている。撫でられても心の中の恐怖心は一向に無くならない。
その人が撫でていた手を背中へまわした。そして僕の全体を包むように僕の左腕にまで手をまわし、僕に体を密着させた。
その人の体温を感じた。耳元にその人の吐息を感じた。僕は顔を埋めたままその人を感じた。
耳元でその人の歌う声がした。
さあ行こう
前を向いてこう
日々歩いてこう
君の声がした
泣いて前向いてない僕を
君は連れだした
泣いて笑った 野を駆け廻った
何でもない日々が過ぎていく
触れて愛した 君を愛した
何でもない日々が過ぎていく
その人は囁きを止める。そしてさらにぎゅっと強く僕を抱きしめた。
「元気を出して。由人」
そう言うと、その人も小さな声で、僕の耳元で泣き始めた。
023
僕は目を開けた。涙で少し滲んでいた。
……少し眠ってしまっていたのかもしれない。白ワイシャツの両裾をそれぞれの目に当てる。……よし、疲れも眠気もだいぶ取れている。
僕は上の方にある時計を眺める。時刻は正午ジャスト。
どうやら本当に数十分眠っていたみたいだ。僕は背中を壁に押しこみ勢いをつけて立ち上がる。
部屋の中は先程と何も変わっていなかった。穴の空いている教授はいずれもそこに座っていた。
胸に穴が開き、そして尚且つ血は全く出ていない姿。
やっぱり不気味だ。死んですらいないのに見た目だけは人間の姿をした、何かが停止している。
僕はスラックスの右ポケットの中を弄る。鍵がある。あのとき吉良教授が最後の力で僕に示した、デスクボックスの中にあった鍵がある。
この鍵がその名の通り色々な謎を解くカギなのだろう。
思えば、僕以外のすべての人間がロボットであるならば、この世界を説明する者は別段、吉良教授でなくともいいはずだ。熊本高校のクラスメイトでも構わないし、そもそもあの朝に会った久美から語られていても別に何の不思議もないはずだ。
それでも久美は吉良教授の元まで僕を連れてきた。これには多分、何か致命的な理由があるのだろう。
そしてその謎を解くキーがこの鍵なのだろう。
……ここまでだ。僕が考えられるのはここまでだ。
僕は教授の方に向けていた身体を翻し、ドアのほうへと向き合った。
さよなら吉良教授。もうあなたに会うことはないだろう。
ドアまで歩き、少しため息をついてから扉を開くと、そこに椿久美が待っていた。
椿は少し俯き、唇を震わせ、顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうな様子だった。
「ごめんなさい由人。傷ついたでしょう……」
第一声がそれだった。椿久美の、いつもは強気の椿久美の第一声がそれだった。
「今まで……、由人を今まで騙して……、ずっと今まで騙して、ごめんなさい」
椿の声が震えている。小さく絞り出すように声が掠れている。
違う。
違うよ、椿。
椿は何も悪くないじゃないか。
椿は何も悪いことなどしていない。だから、だから──。
僕は反射的に、椿を強く抱き寄せた。
「簡単に謝るなよ……。謝罪の価値が下がるだろう?」
僕は椿の耳元で囁いた。
「椿は何も悪くない。こうするしかなかったんだろう? だったら仕方のないことじゃないか。大丈夫。椿は悪くない」
僕は椿の髪を擦りながら続ける。
「それに、椿は椿だけの過去を持っている。僕と出会ったとき確かに君はロボットだったかもしれない。それでも、君と僕とが共有した時間は確かにそこにあるじゃないか。それは、椿だけが持っている記憶だろう? 独自の過去を持ち、記憶を基に行動するのならば、それは立派な人間だ。そうだろう? 椿。君は立派な人間だ。君は確かに生きている」
椿が力が抜けたかのように、僕の胸の位置まで頭を下げた。そして、頭を下げながら嗚咽を交え泣き始めた。
「……っ、あ、あり、がとう……。ありがとう由人…………。ありがとうありがとう…………」
彼女は膝を曲げ、崩れるように身体を僕に預けた。僕はそれでも離さない。椿に合わせて僕もゆっくりと屈んでいく。
その後も椿は泣き続けた。不思議なことに、僕らの周りには誰もいなかったし、どこかに人がいるような物音一つしなかった。
024
熊本大学黒髪南地区は、その南地区に工学部建築学科が存在するからなのか、キャンパスの建造物が非常にモダニズム。窓が少なく、大きな白色のキューブがごろごろと転がっている。熊本大学南地区の南端に沿うように、熊本県熊本市隋一の河、一級河川の白川が悠々と流れ、大学に完全に隣接しているため、その無機質な建築群と静かに流れるその川面が、お互いをお互いを沈め合うように存在しているだけでより一層の寂しさへの深みへと誘っているように感じる。
だが。
それはあくまでも見た目の話であって。そこに居座る大学生は、そんなキャンパスが醸し出す雰囲気など何のその。自分が持ちうる最大のエネルギーを持って、そのキャンパス内を熱気の渦に巻き込んでいる。ある者はその熱量を取り込み更に大きな熱気として大学内に爆散させ、またある者はその熱気を毛嫌い自らに迫る誘いを断り、その熱気を蔑んだ目で見ながらも、自分がこのように孤独に浸れるのはある意味この熱気のおかげなのだと、小さな微笑をたたえ隅でコーヒーを啜っていたり。またある者はその熱量を恋愛方面へと向かわせ、意中の相手との恋の駆け引きに四苦八苦しながらも自分がその人の傍に寄れる、それだけで幸せと感じていたり。
人それぞれ千差万別、十人十色の違いはあるけれど、そこはまさに人生の絶頂。集団を楽しむことも孤独を嗜むことも恋路に身を窶すことも、自分で選んだ選択であり、自分で選んだ道をすぐさま行動に移すことができるなど、社会への巣立ちの前、最後に与えられてたこのモラトリアムのみだと誰もが気付いている。
故に絶頂。他人に流されてなどこの最後の自由を存分に味わうことができないだろう。一人の人間の歴史としての絶頂、社会の中で最も自由に動ける人間としての絶頂。そんな青春の雰囲気が渦巻く食堂だった。
「すごいねー、大学生の熱気」
入り口で思わず立ち止まってしまった僕ら二人、白石由人と椿久美。若干、茫然とした僕の横でこれまた唖然とした雰囲気で久美が声を漏らした。
熊本大学黒髪南地区レストラン、FORICO。
FORICOの名前の由来は「FOR理工」。なかなか洒落のきいたネーミングセンスだと部活で熊大へ進学した先輩が言っていた。
そんな理工のためのレストランFORICO。見まわしてみてほとんど男しかいないことに気づく。
そしてその男子学生も、何というか細身でスタイリッシュな人間がほぼいないことにも目がいく。
そいえば、熊本大学には体育学部は存在せず、体育会系サークルの主翼を担うのはこの理工学部の男子学生らしい。
熊大理工とは体育会である。
これもまた部活の先輩の言葉。
あれから。
あれから、というのは僕が久美を抱きしめ、自分が持ちうる最大限の励ましの言葉で久美の耳元で慰めた時点の、あれから、という意味だが、あれから──
久美はそのまま泣き続けた。泣き続けて泣き続けて泣き続けて、そして泣き止んだ。
「……すん、すん…………」
僕の胸の中で鼻をくすんくすん鳴らす久美。そして、
「…………おなかすいた」と独り言ちた。
僕の顔を見上げる久美。
「おなかすいたね。そう思わない? ゆーくん?」
ああ。確かにおなかはすいている。僕はあまり自分から部屋の中を振り返るのがいやなので腕時計を見る。時刻は十二時三十分前。お昼時だ。
「僕もおなかすいた。久美、弁当持ってる?」
「ない。だって知ってたもん。学校で昼食を食べないこと」
それはそうだ。久美はミニトートしか持ってなかったし。
そして僕もちょうど弁当は持ってきていない。
というか、いつも買い弁なだけなんだけど。母さんはいつも忙しいし。
少しだけ、先程のシリアスな場面が心に思い浮かんだけれど。それは無視。
別にいい。今まで知ってた父さん母さんがロボットだろうと。
数時間後には僕の記憶はなくなる。記憶消失。生きた証を全て失う。それだけではなく記憶の創造。つまり今の僕が生きた証を未来の僕は知らないということだ。
つまり、それは、今の僕から見たら死と同義。
どうせ死ぬのなら、せめて死ぬまで楽しく生きようぜ。
いちいちシリアスになっても仕方のないことだ。
今が連続して楽しければ理論上死ぬまで一生楽しいわけだし。
つまりは切り替えていこうぜベイベーと、こういうことだ。
僕の背後には今も多分、厳しい現実の象徴のような風穴の開いた人物が居座っているだろうけれど、振り返らなければいい話だ。
前向きに生きればいい話だろう。
「食堂行こうか」
「らじゃー」
久美はそう答えてから部屋の中に置いていた部屋の中へと入ってきた。おそらく、自分の荷物を取るためだろう。
僕は部屋のなかから、開いた扉の取っ手を見ながら久美に訊いた。
「あ、久美。できればなんだけど僕の荷物も取ってくれないかな」
──自動ドアからガラス越しに見える学生の勢いに見惚れ、つい先程のことを思い出していた。
「ねえ、由人。あれ」
久美がぼうっとしてる僕の横で、自動ドアの横に付いているカラフルなボードを指差した。
「あれメニュー表じゃない?」
僕もそこに目をやる。そこには《昼定》の文字とその下にS、M、L、LL、MAX、のサイズごとの値段。そしてその《昼定》献立の写真があった。
そして、それしかなかった。
025
食堂の中央付近、多人数用のテーブルに二席だけ奇跡的に開いていた。僕と久美は向かい合って久美は《昼定》のSを、僕はMをそれぞれ突っついている。
シリアスにはなりたくはないけれど、まずは報告だろう。
僕はシリアスにはならないよ。死ぬまで楽しく生きちゃうよ。
「そういえばシリアスとシリウスって似てね?」
「いきなり何の話ですか」
「いや、シリアスとシリウスって言葉めっちゃ似てるなーって思って。多分、昔の人が空にぎらぎら輝く一等星を見て『うわっ! なんてあれはシリアスだ!』みたいなことを言って、それが訛ってシリウスになったんじゃないかなーって思ってさ」
「ふーん」
久美は笑わなかった。どうでもよさそうな顔をしていた。それでも僕はめげずに掘り下げる。
「いやあ、ところでラテン語系の語尾に付く『ウス』って何なんだよ。古代ローマ人は空手職人かよ」
「ほう」
「いや、でもアクエリアスとかは最後に『ウス』は付かないな。もしも古代ローマ人が『ウス』と語尾に付けることにもっと徹底していたらアクエリアスもアクエリウスなってたかもしれないね。そしたら今の空手道の人々は大変だよね。後輩にアクエリを持ってきて貰うときなんか『アクエリ!』『押忍!』ってなっちゃうし。いちいち笑っちゃうよこんなの」
「ふっ……ふっ……、ふーん」
あ、久美笑った。というか、笑ったの誤魔化した。笑ったのを誤魔化してそのまま湯豆腐食べ続けてる。
ちなみに本当にアクエリウスだったら日本で商品化する際に「アクエリ『押忍』!」みたいに、押忍を推す商品名になっていたかもしれないけれど。
まあ言わなくていいだろう。三度目の深追いギャグはあまりうけない。
ポイントを変えたギャグを言おう。
「そういえば、ギャグとギャングも……」
「ところで」
久美は僕の話を遮った。遮ってしまった。テンポが崩れてしまった。せっかく僕がイニシアティブを取っていたのに。この場はすでに僕のフィールドだったのに。
「なんてことを!」
「ところでさっきの教授の話の反省をしよ」
だよなあ。そうなるよなあ。
久美とキスしてからはシリアスな展開、恋愛の展開しかなかったし。
話は戻される。
いいよ。僕も現実を少しだけ見よう。
「でもさ、久美もロボ……、うーん」
「いいよ。ロボットで」
「ああ、ありがとう」
「じゃあ続けるけど、久美もロボットなら、あの教授みたいに何でも知ってそうなんだけど。だったら僕が、あの部屋であったことを、あの教授から聞いたことを、いちいち説明しなくてよくないかって思うんだけどな」
というか。
久美、キスした時からずっと僕との話の主導権握ってないか。
はっきり言って昨日今日と僕、踊らされてるようにしか思えない。久美との会話にしたって。なんかこの世界の話とかそういうのにしたって。
いかんいかん。なんかシリアスになってきたぞ。
シリアス展開はNO!
「まあ、ぶっちゃけ言うと全部知ってんだけどね」
久美さんがぶっちゃけちゃった。
「というか吉良教授が言ったこと全部再生できるよ」
またまた久美さんがぶっちゃけちゃった。
「『そうかい……それは良かった。では、次の質問。椿久美は好きかい?』どう? 完璧でしょ?」
そこかよ。そこを再生しちゃうのかよ久美さん。
結構、恥ずかしい。
「私、由人が教授に詰問される姿見てたんだからね」
「……ツンデレでお願いします」
「べ、別に由人のこと見たくて見てたわけじゃないんだからねっ!」
のってくれた。さすが椿さん。女神。神様。僕の嫁。
リズムに乗って言ってしまったけど、さすがに僕の嫁は取り消しで。
「……取りあえず見てたよ。由人のこと。というか、みんなすべての人々が見てたよ」
ああ。見られてたんだ。ということは僕が激昂した場面も。
まあ、あえて話題には出さないけれど。
「私たち、みんな繋がってるの。一つのホストコンピュータを媒介にして」
出た。そういえば教授も言ってたな。ホストコンピュータがどうとかこうとか。
「ホストコンピュータの名前はウィズ。私はウィズさんって呼んでるんだけどね」
「さん付けなんだ」
「さん付けだよ。あの人優しいし」
「人なんだ」
「人じゃないけど、人っぽいよ。名前の由来もW・I・T・H の WITH で‘人と共に’って意味で付けられたんだし」
人と共に。‘人と共に’って勝手に人に名付けられて、人だけいつの間にかにいなくなっちゃったわけか。
うわーシリアスだ。シリアス超えてシニカルだ。
マジで‘永遠’とか‘○○と共に’とか付けない方がいいな。終わってしまった後に『これはつらい』としか言えなくなってしまう。
結構なダメージが心に来た。そのウィズさんの名前の由来。
「教授が由人から、何で僕の行動を知ってるんだって訊かれたときに『あの時の君の行動は大学研究室内の監視カメラに全て残っているからだよ』って答えたじゃない。あれと同じ感じで、私たちアンドロイドの視覚は全てウィズさんを媒介にして繋がってるの。つまり私たち全てが“動く監視カメラ”の状態になっているの」
「少し待って」
僕は少し大げさに久美の前に右の掌を広げた。
もちろん箸を置いてから。危ないし。
「また説明モードに入ろうとしてない?」
僕は久美に率直に訊いた。困る質問をしてしまったと思いながらも、会話のイニシアティブを取り戻せたであろうことに一種の優越感を感じながら、久美の眼を見て質問した。
「仕方ないじゃない。流れ的に」
「流れな。それな。わかる。うんうんわかる。わかる。だけどさ」
僕はちょっと区切ってから続けた。
「やっぱりわざとらしいんだよ。そういう説明。もうそういう振りをするのをやめようぜ。これは久美に言ってるんじゃないよ。なあ、ウィズさん。ここは対等にいこう。もう人を操ってそいつに言わせようとするのはやめようよ」
026
どうだろう? 今僕のこの発言を客観的に見て、僕の反撃が始まったと思う人間もいるのかもしれない。
しかしながら、僕が発言した後のこの三分ほどの沈黙をどう説明してくれるだろう?
僕が久美を通してウィズさんに語りかけたところで、久美さんは完全に食事の方に集中してしまっている。
久美さんは黙ってもかもかとライスを頬張っている。
久美さんはいつも食べるスピードが遅い。そして僕は異常に早い。先程までしゃべっていたのは僕だけど食事に関しては僕は既に食べ終わっている。
つまり、沈黙の中、僕は本当に何もやることがなく、黙って久美さんが食事をしている姿をじっと観察している。
もかもかもぐもぐと久美さんはライスを食べ続けている。
ちなみに今の風景は大学の食堂の中央に位置するテーブルで、大学生の凄まじい喧噪の中、高校生の制服姿の男女が、完全に黙って食事をしている構図になっており、簡単に言えば相当に気まずい。
どちらが折れるが先かこの沈黙。
「久美さん」
僕は黙って箸を進める久美に声を掛けた。
「何も分かってない自分の癖に分かった風なことを言ってしまい。申し訳ございませんでした。いや、本当にそうですよね。何事もまずは説明からですよね。すいません。僕が勝手にコメディ調の雰囲気にして、ちゃんと現実を見ていませんでした。全くわからない今、現在の状況を整理することが何よりも大事ですよね。そうですよね、このままだと何も進展しませんよね。いや、そうですよね。何か恋人から突然に『○○だったのよ』と語りかけられ、『そ、そうだったのか!』と僕がわざとらしく相槌を打つような会話は、それは確かに不自然だけども、久美さんがロボットでウィズさんと繋がっているせいでこの世界の真実を伝える媒介者となり、この世界の真実の説明を告げる役割を果たすことがわざとらしいかといえば、決してそうではないですよね。いや、むしろ自然と言っていいですよね。そうですよ、そういえば僕が明日には移転されることが分かっているのに、その直前に移転される理由とか聞かないままに月に行って、果たして僕が納得してくれるか、と問われたら絶対にそんなことはないんですよね。いやー、僕は何でこんな大事なことに気付かなかったのかなあ。説明ってとても大事ですね。僕は身を持って体感しているところです」
久美さんが黙っているので僕は述べつ幕なく語りかける。
「だから久美さん、説明をおねがいします」
僕はぺこりと頭を下げた。
「……私はウィズさんと完全に一致しているわけじゃないし、ウィズさんから完全に操作されてるわけでもないよ」
頭を下げている間、ようやく久美の声がした。
「……それに、由人は私のことを人間だってあれほどカッコよく宣言してくれたのに、まるで私が人権を排した奴隷であるかのような発言にはかなり傷ついたんだけど」
「本当に申し訳ありませんでした」
更に深く頭を下げる僕。もう白いテーブルの表面しか見えない。
謝ってばっかりだ。一度久美を慰めたからといって完全に調子に乗りすぎてしまっていた。
というか、僕が現実に目を向けないせいで完全に話が停滞している。このままだと有耶無耶のまま地球から移転されてしまうのが見えている。
そして更に付け加えれば現実の世界、とか物質移転装置、とか完全に忘れ始めてきた。何だろう。数時間前の出来事なのに。
「ごめんなさい。僕が話を進めていいでしょうか? というか、まず話を整理していいでしょうか?」
「うん。復習だね」
「まず一つ。僕がこの世界、自分以外、全員ロボットだと知ってしまったから、明日の午前零時に僕が月に移転されることになった」
「そこだね。そこ小さな勘違い」
「えっ」
今の僕の認識、間違ってたの?
「教授言ってなかった? 『公式に』って。つまり非公式にはまだ人間は存在してるんだよ。まあ、ここでの非公式って言うのはドームの外のことで、すなわちドームの外にはまだ一部の人間は暮らしてるわけだよ」
「えっ、じゃあ僕、最後の人間じゃないじゃん」
「厳密に言えば」
「え、でも教授は滅茶苦茶強調してなかったか? 僕が地球の最後の人間だって」
「だから、ドームの中でウィズさんが管理できているのは、あなた、白石由人一人だって、そういう意味。それにあの教授かなり変な人だから。たとえそれが真実であっても、変な人が口走れば変なところが強調されてしまうものだから。『何を言うかより、誰が言うかの方が大切だ』って格言、言いえて妙だとつくづく感じるね。あ、でも、教授が言ったことは全て本当だからね。私が分かりやすくまとめてあげるつもり」
久美が話し終わり、「では」と僕がまとめを続けた。
「二つ目……ってかあれ? 二つ目って何だ?」
「それもまたそこなんだよ。由人君」
久美が僕に向かって人差し指を向けるポーズをする。まるでドラマで名探偵が助手にする『君、鋭いね』と表現するポーズのように。
「吉良教授がちゃんと説明する前に、由人が吉良教授に触れてしまうことがウィズさんにとって完全に計算外だったんだよ。本当は今二〇八〇年が誰がどのようにして創り上げたかを吉良教授がちゃんと説明して、それでももし由人がその話を信じないならば、実際に吉良教授の身体に触れて、『物質移転装置』を発動させて、由人に確信させる手筈だったのに。由人がその前に急にぶちぎれちゃった」
「……あらま」
僕は悪いことをしたみたいだ。いや、でも『君は世界に不都合だ。だから死ね』みたいい言われたらそりゃあ誰でもキレると思うけどなあ。
僕はウィズからしたら予想外の短気だったらしい。
「久美、かっこよく質問していいか?」
「どうぞ」
「教えてくれよ──、世界の成り立ちとやらを」
「前振りの割には普通の言葉だったね。拍子抜けしちゃった」
久美は目を丸くしながら言う。ちょっと恥ずかしい。
「……取りあえず教えて」
「わかった。じゃあ『物質移転装置の成り立ち』からね。でも、そのまえに……」
久美は続ける。
「ご飯全部食べちゃうね。もうだいぶ冷えちゃってるけど」
027
「じゃあ『物質移転装置』の説明をするね」
久美は残っていた《昼定》を五分ほどで全て平らげ、先程の話の続きを始めた。
「『物質移転装置』の仕組みは簡単。双子電子をばらまくだけ!」
久美が『分かった?』みたいに首を傾げてこちらを見てくる。
なるほど。全く分からん。
久美は難しい話を何でもかんでもキャッチコピーのように言葉を究極的にスリムにする話し方をするから、吉良博士以上に科学的な話の媒介者としては向いてないぞ。
なんだかなあ。ウィズさん、人を選ぼうよ。吉良博士といい久美といい人材採用が全く適当ではないような気がする。
まあ、それは置いといて。
「ちゃんと聞くから。ちゃんと椿の話を全部聞くから、全てありとあらゆることを話してくれ」
「長くなるよ。ウィズさんの予想では二千文字くらいになっちゃうよ」
「いいよ。ちゃんと適当なところで相槌を打っていくから」
「わかった。じゃあ話を始めます」
そう言って久美は本格的な説明を始めた。
僕は相槌しかできないだろうな。飛ばせるなら飛ばしたい、難しい話になりそうだ。
「まず加速器で双子電子を造るのです」
「その双子電子ってのは何だ?」
「双子電子は同じ原子から取り出された、全く同じ性質を持つ電子のことです。電子は『スピン』、つまりは回転などの性質を持っているのですが、その二つの電子は回転の方向などが全く同じ電子なのです」
「二つで一つってやつか」
「かっこいいこと言いますね。まあ話が逸れそうなので戻しますが、その二つの電子はどんなに距離を取っても全く同じ動きをする。つまりは光速を超えちゃうわけです」
「光速では一年かかる距離でも、双子電子の情報が伝わる速度は一瞬ってことか」
「明確な具体例をありがとうございます。そして次の段階です。その双子電子の片方──これを仮にAとしましょう。双子電子をまずは人工的に加速器で大量に創り上げた後、その片方の双子電子Aを一か所の巨大メモリーに保存するのです。そのメモリーはプログラムにもなるのです。二進法のそれは単純なプログラム──存在すれば一、不在であれば零の単純な情報で表されたプログラム。そして、そのプログラムで造られたコンピュータがウィズです。……ウィズさんなのです」
「なるほど。でもそれだけじゃあただのプログラムだろ? 現実には何の影響ももたらさないないはずだ」
「そうなんです。それに人間が加速器で造ることのできる双子電子の数なんてたがが知れてますからね。だから人間は莫大なるエネルギーを発し続けるあれを使ったんです」
昼過ぎ食堂の小さな窓を久美は指差した。
「なるほど。太陽か」
「そうです。我々が手にする最も膨大なエネルギー、太陽を使ったのです。双子電子のもう片方の電子をBとしましょうか。ここでのBは集団です。その原子の中にある全ての電子は全てBの性質を持っています。そのBを含めた原子を太陽に向けて発射。太陽に到着したその電子Bを所有する原子は、太陽の熱で自然と核分裂を起こし、次々とほかのプラズマ状態の原子核と結びついていきます。これで次々と新たな原子をウィズさんの中のデータと結び付けていった」
「とっても難しいな」
「はい。ですがこれだけではまだまだ足りない」
「だよな。それだけだと何となく効率悪そう」
「そこで、これは本当に時代の皮肉としか言いようがないのですが、人類は偶然にも発見してしまったものがあった──暗黒物質です。いや、正確に言えば暗黒物質の正体です」
「暗黒物質はあれだな、よく分かっていないと言われている宇宙の物質のことだな」
「今の時代でもそうなっているのですけどね。まあ、その話は置いといて。その暗黒物質の正体が──不安定なただの電子の雲だった」
「つまりは?」
「そう、そこにあったのはいわゆる、双子電子Aの集合だったわけです。宇宙全体のバリオン、つまりは観測可能な物質はわずか四パーセント、暗黒物質の割合は二三パーセント。実に人類が双子電子の応用と暗黒物質の正体を突き止めたことはまさに世界を手に入れたのと同じことだったのです」
「それで、具体的には?」
「双子電子の入った原子は太陽から次々と発射されています。つまりは光速で宇宙空間を飛び回っている。まずは人間は光速で宇宙全体まで行くことができるようになった。そして暗黒物質を手に入れ太陽と同じような恒星に暗黒物質を次々に入れ込んだ。一度ウィズに原子を登録すれば後は物質の座標も存在の有無も、全てが操作可能になる」
「それでもまだ全宇宙は支配できないだろう? 人間にとっては爆発的かもしれないけれど宇宙にとってはまだまだちっぽけな気がするんだけど」
「そうです。今までの説明では所詮光速までしか手に入れていない。しかし、人類は極めつけの地点にまで到達した」
「それは?」
「暗黒エネルギーの正体です」
「暗黒物質と暗黒エネルギーはどう違うの?」
「暗黒物質はその名の通り物質です。暗黒エネルギーは簡単に言えばよくわからないもの。
先程言ったように、全宇宙の四パーセントはバリオン、二三パーセントは暗黒物質、そして残りの七三パーセントが暗黒エネルギー。その七三パーセントの暗黒エネルギーの正体が《《不定形》》だった。これはもちろんウィズのプログラムに則っての言い方ですが、そこにあると命ずればそこにあるし、そこにないと命ずればそこにない、不定形だったのです。暗黒エネルギーを発見し観測し到達した人類は、まさしく全宇宙の存在の理を手に入れたのです」
そこで久美はちょっと間を置いて続けた。
「まあ、でも、二〇八〇年段階でもまだ全宇宙を手に入れる作業の途中なんだけどね。それでも、ウィズさんが操作可能な物質は私たちにとっては世界の全てって言っても何の差し支えないよね」
僕は何も相槌を入れない。久美の口調が変わったということはもうすぐ説明のフィナーレだろう。
「そして、ウィズさんが人間にとっての全てを手に入れたと人間が判断した時に『物質移転装置』は実用化されたのです」
028
話が一応、一段落したところで、僕は腕時計を見る。午後一時四十五分位ぐらい。
「なあ久美、話ってまだまだあるよな」
僕はお茶を啜っている久美に訊いてみる。
「うん……、まあまだまだあるね。物理の次は歴史だね。でもこっちの歴史の方は吉良教授がだいたいは喋ってくれてるとは思うけどね」
それはそうだ。あの教授は物理学専攻の教授だったのに、実際に物理の話は全くしてこなかったような。
多分自分が物理学の最先端を行く人間だから、あえて物理の話は避けたんじゃなかろうか、と勝手に推測してしまう。馬に念仏、みたいな気持ちで。
「教授から歴史は結構聞いたぞ。なんかハス共和国がどうたらこうたら……とか」
「……あー、そこか。いや、私が言ってる歴史は世界の歴史ではなくて、由人個人の歴史なんだよね。忘れちゃった由人の歴史」
僕は心が疼いた。少し怖い気分にさせられた。
僕は久美に心持ちを告げる。
「正直言うとあんまり思い出したくないんだけど」
「でもこれは知らなきゃいけないよ。知らないから余計に知りたくなくなるんだよ。というか」
久美は『というか』と言ったと同時に、軽く両肘を曲げ、両手の人差し指だけ立てて、二本の指を並行させて僕の方をびっと指した。
なんだそのポーズ。まあいいけど。
「由人、教授の話の最中寝てたでしょ?」
え? どういうことだ?
「いや? 寝てないよ」
「寝てたよ。教授が由人の本当の昔話を話し始めた時、由人、目を開けたまま寝てたもん。教授から送られてくる映像、感覚から分析されるされる、由人の心拍数、体温、瞳孔の散大縮小、眼球の運動、呼吸、頭の俯き加減、等々を判断に入れたら、由人はあのとき、人の話を聞いていない人間の典型的な状態に当てはまるんだけど。というか、意識失った人と大して変わらない状態だったんだけど」
「あらまあ」
あらまあとしか言えない。
いや、でも教授が僕について語り始めた時、その話はもう自分で知っているって思って聞き流してただけなんだけどな。
いつのまにか目を開けたまま意識失ってたか僕。
「ゆーとくんはボーっとすることが多いもんね」
そう言ってくすくす笑う久美。
「今回はもう変な想起をしないから、ちゃんと話してよ。僕の歴史と世界のことを」
久美は、ん? と小首を傾げた。
「変な想起? 何か想像してたの?」
「ああ、いや、いいよそれは。ほっといて。いいよ。始めて。歴史語りを始めて」
僕は久美に説明を促した。
僕はもう促すことをする気にはなれなかった。黙って聞くことにした。
久美が区切るごとに、僕の頭の中も整理していった。
「まずは、私の自己紹介から──
「私の名前は椿久美です。八年前、白石由人くんの父白石遼博士によって、あなたの前にもたらされました。
「八年前の世界も平和でした。『物質移転装置』などの科学力により人類は繁栄の絶頂を極めていました。
「しかし、突発的に戦争が起こってしまいました。
「戦争は拡がるどころではありませんでした。繁栄しすぎた科学の前では、国境など無いにも等しいものでした。
「ボタン一つでいくつもの国の人間が丸ごと消えました。
「移転ではなく、《《無かったこと》》になりました。
「それでも光を浴びずに残っている人もいました。しかし、彼らにはもう科学をもう一度極める余裕など全くありませんでした。
「基盤があってこそ、人間は発展していけるのだとつくづく感じさせられました。
「人間から道具を奪えばただの動物に過ぎないとも感じました。
「それというのも、生き残った人々は原始的な生活に戻りながらも、未だに争いを続けていたのです。
「地球環境維持装置、物質移転装置などが機能しなくなっても、人は人を殺し合っていました。
「簡素な火薬を使って爆撃をしたり、船で航行している人間を襲ったり、自宅にあった拳銃で人を襲ったり。
「それはひどいひどい不安の渦巻く世界でした。
「人口はさらに減りました。人々はそれでもずっと逃げ惑っていました。
「特に無力で無知な子供、体力の乏しい老人などは一人で自然の中に逃げ込んでいました。
「ここで人間の話は置いておいて、ウィズ。──ウィズさんの話に入ります。
「ウィズさんには戦争の被害など全くありませんでした。当たり前ですよね。物質の存在を司るのがウィズの役割なんですから。『ウィズを消す』とウィズ自身に命令したらこの世界がどうなるかなんて全く想像もできませんからね。
「もしかしたら世界が無に戻るかもしれませんね。
「──話が逸れました。とりあえずウィズさんは地球から人間が次々と消えていくのを見ていました。
「プログラムに感情はない、とは言えません。とても複雑な論理演算を組み合わせた果てが感情だとしたら、ウィズさんにも感情があることになります。なのでそうですね、ここではウィズさんは感情を押さえることができると表現しましょう。
「ウィズさんは感情を抑えることができるので、人間が地球から消えていくことは仕方のないことだと思っていました。
「人間自身がやったことですからね。フィフティーフィフティーです。
「ところがです。大体の銀河の物質をプログラムに入れ終わっていたウィズさんは恐ろしい危惧を抱き始めました。
「それはですね、この世界、この宇宙には人間以外に知的な生命体が数多く存在している、ということでした。
「人間は科学、いや、その根本の数字であったり論理であったりを駆使して、宇宙の物質を演算化することに成功したのですが、この宇宙にはそのような数字や論理を使わずに活動している生命体が数多くいることが分かりました。
「具体的に言えばキリがない。そしてウィズさんは予想を立てました。
「いまこの地球が衰退に向かっていると彼らに知られたら、もうそれは本当に人類の完全な終わりになるのではないか。
「ウィズさんは考えました。考えてこう結論づけました。
「つまり、今この地球は相変わらず《《人間が絶頂を極めている振り》》をしなければいけないのではないか。
「すぐにウィズさんは行動を開始しました。まずは生き残った人間たちを集めました。彼らはウィズを警戒しているため、物質移転装置などは使わず普通に呼び集めました。
「そしてこう告げました『私にはあなたたち人間を守る義務がある』と。
「ウィズさんは続けます『宇宙には途方もない数の危惧する対象がいくつもある。今この地球の状態を観測されたら、例えば地球外生命体などが襲ってくる危険がある』。
「これには集まった人々も十分に納得しました。彼らだってウィズさんから与えられていた情報はいくつも知っていましたから。
「ウィズさんはこう提言します。『なので私はもう一度地球を復興しようと思う。もう一度人類の文明を創ろうと思います。しかし、肝心の人間が少ない。そこでかつていた人間に似せたアンドロイドを大量に造り、人間がそこで生活しているかのような世界を創ります。見せかけだけの世界ですが、こうしない限り地球外生命体が襲ってきても不思議ではない。そして、それはまるで完全に人間の文明であるかのように見せるために──』
「次の言葉は正直、当時の私でも衝撃的でした。
「『──あなたたち人間の記憶を完全に削除させてもらいます』
「このとき、多くの人間が反対しました。記憶を失えばもはや自分ではない、民族間の記憶や家族間の絆まで全て無くしてしまうことになります。
「なので、彼らは月に移住することに決めました。
「月で、もう争われることがないように部落ごとにコロニーに分けて移住することになりました。
「そうして地球上には人間が次々といなくなりました。人間がいなくなると同時に、ウィズさんが創り上げたアンドロイドが地球上にたくさん出てきました。
「事情を知っていなければ、人間が存在していた頃と変わらない、別段自然な増加率で、着実にアンドロイドを増やしていきました。ここら辺の計算の仕方はさすがはウィズさんです。
「都市建設の復興も、物質移転装置は使わずにアンドロイドの手で行われました。ウィズさんが掲げた目標が “二〇二〇年時代の文明を創ろう” でした。その頃が自然と調和のとれた、科学力の発展も程よい、適度な時代だと判断したからです。
「もちろん、二〇二〇年ということにはしませんでした。二〇三〇年頃に行きすぎを迎えた科学力に人類自身が気づき、そこで少しノスタルジーの方向へと向かったということにしました。そういう設定にしたんです。ウィズさんは。
「二〇二〇年はまだ暗黒物質の実用化には至っていません。アニメーション等も国民の間での人気も絶頂に近いです。吉良教授が某アニメの道具を使って物質移転装置の例えを行っていましたよね?
「そのように学術的にも、文化的にも二〇二〇年の設定でウィズさんは世界を構築していきました。
「長かったですね。ではようやく由人くんの話に戻ります。
「由人くんは、私、すなわち椿久美と出会った後、二人で協力してなんとか生きていました。
「先程話したように、ある一時期を境に地球上にたくさんのアンドロイドが現れたのですが、私はそれ以前から存在していたアンドロイドのタイプでした。
「というより、ウィズさんが私、椿久美を含む、人間が造ったアンドロイドを真似して新式を創ったのですが。
「旧式と新式の大きな違いは、年を取って成長するか否かです。新式は人間であるかのように見せるために、まるで年を取っているかのように見た目上身体に変化を与えられています。
「話が逸れました。話を戻すと、由人と私とで二人で暮らしているところに新式のアンドロイドが現れました。
「そして先程の計画を私たちに伝えてくれました。
「そこで由人は地球に住み続けることを選びました。
「そして由人は記憶を失くしました。
「私、椿久美は残念ながら年を取らないのであまり新文明には適していませんでした。
「ですが、私は白石由人の所有物。ウィズさんは人間の幸せを願う人工知能なので、私を破壊したり消したりすることはできません。
「私は白石由人を特別視することなく、記憶を失った由人が高校を卒業したら、それは自然と由人の前から姿を消すつもりでいました。
「私は見た目が高校生で造られたアンドロイドなので。本当に、自然に、白石由人の目の前から姿を消す予定でした。
「本当にそういう予定だったんです。
「予定だったのに。
「全てを忘れてしまったあなたは私を選んだ。
「私は戸惑いました。記憶が消えているはずなのに、なぜ私だけ特別視してきたのか。
「その時ようやく思い至りました。ああ、なるほど、記憶は完全には消えていないな、と。
「あなたは記憶力──、これは記憶が消される云々の記憶力の話ではなくて、日常的な短期周期での記憶力、という意味での記憶力ですが──、あなたの記憶力は相当に悪いので、あまり覚えていないのかもしれませんが、あなたが私に自身が見た夢の話を持ちかけてきたことは頻繁にありました。日常会話の中で、やんわりとですが。
「『俺に遅刻癖があるのは、変な夢ばっかり見るからだ!』みたいな感じで周囲の人間に訴えてはいたのですが、それもあなたの話し方が悪いのか、いつのまにか他愛のない笑い話に変えられていましたね。
「ですが、恐らく、あなたがよく見る夢──。それは記憶を失う前の現実の記憶を断片的に思い出していたのでしょう。遅刻してしまうほどの金縛りに近い夢を見ていたのは、それはまさに悪夢のような現実を実際に体験していたからでしょう。
「おや、その渋い顔は、もうそんなことは分かってるって顔してますね。昨夜の、あなたが話してくれた、悪夢の内容の相談に的確にこたえるならば、あなたはその夢の内容を、数年前に実際に体験していました。山の中、突然に起こる無差別爆撃。手製の船で漁をしている際に、突如として起こった暴風雨。人を見つけ、協力しようとしていた矢先に起きた、裏切りと磔。そのたびに私はあなたを救い出しました。いや、この言い方はちょっと語弊がありますね。
「あなたに危機が訪れるたびに、私はあなたに手を貸した。そして都度その都度何とか自分の力で乗り越えていきました。私はずっと、見てました。あなたの姿を。
「そうして、話は戻りますが、ここから先は吉良教授が言ったように、あなたは私にキスをしてしまいました。
「記憶を失う前にずっと身近にいた私に、無意識に好意を抱いていたのかもしれませんね。
「はっきり言ってあなた、白石由人が私ではなく他の誰かを好きになってキスをして、更にその先に向かおうとしてしまうのは、思春期である白石由人の年齢を考慮して、いずれ訪れてしまう未来であると予測は付いていたのですが。しかし、白石由人が実際に交わろうとする行動をして初めて、ウィズさんは白石由人を月へと転移することができるのです。転移できる理由が生じるのです。
「だって、あなたが私たちがアンドロイドと気付き、何かしらの行動をとってしまったら、この見せかけだけの世界に綻びが生じてしまいますから。
「地球外生命体から、地球を、そして何よりわずかに残った人類を守るためには、また白石由人の記憶を消してしまわねばいけない。したがってあなたは月へと転移されることになったのです。
「ウィズさんにとってもヒトの記憶の神秘性は予想外でした。計算などできませんでした。一度、白石由人を破壊し、もう一度白石由人として物質を構築していく際に、白石由人が持っていた記憶と関連のある物質を取り除き、その上新しい、例えばあなたの偽の父親、母親の記憶をあなたの脳に構築したとしても、あなたの本当の記憶を完全に消すことはできないと、実際に由人の行動を見て理解した。
「そしてそれは、私、椿久美のように、記憶を消す以前の現実を誘発させる存在が問題なのではないか。ということで、もうあなたを完全に、私椿久美から、そして地球から切り離し、月で新たな生活を送ってもらうことに決めたのです。
「もちろん。ここでの月、というのはかつての悲惨な現実を覚えてる人々が暮らしているコロニーのことではありません。ウィズさんが用意したアンドロイド達によるやっぱり『振り』をしているコロニーに送らせてもらいます。
「もちろん、これだとまた生殖ができずに本末転倒な結果を招きかねないので、ほかのコロニーやドームの外の地球から、文明の破壊を望む人々──すなわち、もう記憶を消さざるを得ないとウィズから判断された人々を時期を見て転送していく予定です。
「今は、まだ、あなたが転送される先のコロニーではアンドロイドしかいませんが、大丈夫です。あなたの生活に不安が生じることは絶対にありません。
「つまり、今あなたの心理状態は不安でいっぱいかもしれませんが、これは言ってしまえばあなたの人生を保証する、より良い世界への旅立ちだと思ってください。
「では。では」
そう言うと久美は、自分の顔の前でパンっと手を鳴らし、
「以上で説明を終わります」
と告げた。
029
大学生の雑談と喧騒とに揉まれながら、久美の説明は終わった。終わったけど、気になっている他愛もないことを訊いてみた。
「その説明、吉良教授に全部させるつもりだったのか?」
「いや、せめて歴史の部分だけだね。それもだいぶ省略して、これは月への移転であって決して由人が死ぬわけじゃないですよーってところを一番に強調して伝えるつもりだったらしいよ」
「その前に僕が憤ってしまったと」
「そうそう、予想外予想外。それまで従順に教授の話を聞いていた由人がいきなり黙って、黙ったかと思ったら怒り始めるんだもん、まさか教授に触ろうとするなんてウィズさんすら予想外だったみたいだね」
「いや、でも怒るくねえか。突然にお前は世界に不都合だみたいに言われたら」
「普通最後まで信じないよ。それに吉良教授自身もちゃんと安全策取ってたんだけどな。ほら、言ってなかった? 『質問禁止』って」
「ああ、言ってたな。でも僕が口を挟んだとき教授は普通に答えてくれた気がするんだけどな」
「怒る前の精神不安定状態の質疑応答のあれだね。まあ、吉良教授も所詮はロボットなわけで、人間が質問してくることには逐一答える義務があるし……」
「……」
「……って言ったら怒るかな」
「……」
僕はふーっと息を吐いた。なんというか、吉良教授は結局のところ人間として生きているのかロボットとして生きているのかが全く見えてこない。
というか、多分一生分かることはないのではないか? だって僕は人間だし。人間が動物や植物の気持ちがリアルに分かってしまったら、もうそれはそれで食物連鎖の頂点に君臨し続けることはできないのでは。
取りあえず。取りあえずはもう。
「家帰ろうか。そういえばさあ、久美はまだ僕の家に上がったこと無かったよね」
「んー? 内部の構造なら全部知ってるけど」
「あー……、いや、そういうことじゃなくて」
僕はちょっと困った。全てを知ってしまったがために逆に生き辛くなってる。
「いや、久美。もう普通に戻ろう。これはさっきの僕の逃げみたいなのではなくて」
逆に。逆にというか、逆説的にというか。結局はもう、最後なんだし。
「僕は結局最後なんだしさ、そのウィズ、とか物質移転、とかそういうのはもう、あんまり、言わないようにしようぜ。あ、いや、これは逃げ、とかじゃなくて、なんというか、別に辛いとかそういうわけじゃあないんだけど」
「普通に過ごそうってこと?」
「うん、そう。そっちの方が絶対幸せだろうし。なんか普通に幸せに月に行けそうだし」
最後のお別れパーティは普通にやるから楽しいしやる意味もあって。
お別れパーティに別れる理由なんて付け加えて誰が幸せになるんだろうか。
「だから、普通に、ウィズとか物質移転装置を知る前の、あ、これは本当に逃げとかじゃなくて……」
「物質移転なんて知るもんかー!」
久美が突然右手に拳を握り、天に突き上げた。そうだよ。それでいいんだよ。
「ウィズさんなんて知るもんかー!」
僕も右手を天に突き上げた。
「戦争なんて知るもんか―」
久美が左拳も突き上げた。
「みんなロボットなんて知るもんかー」
僕も左拳を突き上げた。
「せえーの!」僕は声を上げた。
「「げんこつ! げんこつ! げんげんこつこつ! げんこつ! げんこつ! げんげんこつこつ! おっ!、おっ!、おーっ!」」
多分周りの大学生が、「なんだこの高校生は?」と怪訝な目で見ているのかもしれないけど。取りあえずはスルー。
げんこつ──それは私立熊本高校の伝統であり儀式であり、なによりも自由の魂の象徴である。熊本高校の入学式や卒業式などの式典、文化祭や予餞会などのイベントでは必ず行われる伝統行事。閉会の辞のときに「それでは式を終わりま……」のタイミングでげんこつ隊長と呼ばれる人が「ちょっと待ったー!」と叫び、ステージへと駆け上がり全校生徒全員にげんこつ体操を促す。
げんこつ体操とは、始めの「げん」で拳を天に突き上げる。「こつ」で肘を曲げる。「げんこつげんこつげんげんこつこつ」のフレーズに合わせて伸ばして曲げてを繰り返す。「げんげん」も伸ばして曲げて、「こつこつ」も伸ばして曲げる。言葉に関係なく、リズムに合わせて伸ばして曲げてを繰り返す。「げんこつげんこつげんげんこつこつ」「げんこつげんこつげんげんこつこつ」と二回繰り返したら「おっ! おっ! おーっ!」で三回拳を突き上げる。そして、げんこつ隊長の「そーれ!」の掛け声で、その作業を繰り返す。何回繰り返すかは隊長の気分による。みんなが疲れてきたら「まだまだーっ! そーれ!」と生徒を鼓舞する。数分間延々と続く。
熊本高校がよく変な高校などと言われる所以はこういうところにあると思う。
でもげんこつは楽しい。ただただ楽しい。
どんなにお堅い式でも、最後にげんこつをするだけでみんなが笑顔になる。驚異的な謎の中毒性がある。
そして、げんこつをするということは自分が熊本高校生であるというアイデンティティの表れでもある。
故にどこであろうとも、かつて熊本高校に通っていたものならば、だれどもげんこつに参加してくる。
例え、そこが大学の食堂だったとしても。
「まだまだーっ! そーれっ!」
もはや音頭を取っているのは僕でも久美でもなかった。元げんこつ隊長らしき大学生が僕らの机の横で大声を張り上げている。
ちなみに、げんこつ上級者は音頭に合わせて膝も曲げる。その元げんこつ隊長らしき人は膝を曲げ身体をブレブレに揺らしながらげんこつを踊っている。
「「「「げんこつ! げんこつ! げんげんこつこつ! げんこつ! げんこつ! げんげんこつこつ! おっ! おっ! おーっ!」」」」
FORICOの中に響き渡る、大合唱。
ただ悪ノリで何となく始めただけなのに、いつのまにか熱気の渦中の真ん中に僕と久美がいることになった。
030
僕はナップサックとスポーツトートを肩に掛け、久美はミニトートを身体の前に持ち、旧豊川通り沿いのバス停でバスを待っている。
「というか、本当に由人は家に帰るの? てっきり通町辺りで、遊ぶんだと思ってた」
「まあ確かに、全身音ゲーとかしたいけどね。最後にやることか? って訊かれたら必ずしもそうではないと思う」
というか月にも音ゲーは在りそうだし。音ゲーは全世界共通語だし。多分。
話が逸れそう。
「いや、まあ一番の要因は結構疲れたってことなんだけどね。それに、久美も来てくれるでしょ? ほらさっきの話では記憶失う前から久美は僕に付いてきてくれていたわけだし」
「いや、別に私そこまでべったり付いていく必要もないんだけどね」
「え、あ、そうなの?」
「いや、だってそうじゃない。たまたま白石遼さんが私を発注しただけであって、そんな特別で『運命じみた』話ではないんだし」
「あ、まあ、そうですね」
「どうしてもって言うんなら、私が由人の家まで付いて行ってあげてもいいんだけど」
主導権は完全に椿久美。
こういうときの人の動かし方は主に三つある。
一つ、暴力的に誘ってみる。
「久美、お前は僕の家に来なければいけないんだよ。その選択肢以外俺は許さねえ」
「ごめん、その由人の発言でもう私完全に行く気なくなったよ。水前寺駅前まで私バス降りないから」
駄目だった。むしろ完全に逆効果だった。
二つ、悲観的に誘ってみる。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……、椿さんがそんな押しを交わすとは思っていなかったのです、椿さん、ああ椿さん、椿さんが僕の誘いを断るのならば、今この眼の前の車道に飛び込んで命を絶ちます。もう死にます。あなたに断られたのならもう僕に生きる価値はありません。死にます……死にます……」
僕は今にも車道に飛び出しそうな姿勢になりながらチラッチラッと久美の様子を窺う僕。
久美さんはとてもウザそうな顔をしていた。まるでウザく飛び回る蠅を見るかのような目線だった。
そして。
「えい」と。
僕を車道に突き落とした。
右五メートルほどには車体の陰。
残念ながら想定より九時間ほど早く僕のこの人生が終わるみたいだった。
あああああああああああああああああああおおおおおおおおおおおあああああああ。
と。
車道を一周して着地した。
僕は肩に掛けていたスポーツトート経由でバス停へと戻された。
どうやら、久美は僕を突き飛ばした際に一応はスポーツトートの裾を握っていたらしかった。
「死ぬとこだったじゃないか!」
「あらやだ。男の宣言を曲げてごめんなさい」
男に二言はねえ! それが俺の忍道だ!
「生きたいなら生きたいとちゃんと言いなさいよ」
「生きたい!」
そうじゃなくて。
どちかといえば久美さんに「由人の家に行きたい!」と言わせたいのであって。
三つ目の作戦を実行。
「ごめんなさい。今までの僕の態度が悪かったです。調子乗ってました。どうか僕の家に来て遊んでくれませんか」
三つ目、普通にいつも通り平謝りで、ぺこぺこと。
いや、普通が平謝りってそれ普通じゃないとは思うんだけど。
「遊んでくれませんか。僕の家でゲームでもして、のんびりと過ごしませんか」
「うん。いいよ。あ、来たねバス」
あっさり僕の誘いを承諾した久美。やっぱり、ありのままの自分が一番だね!
ちょうど三つ、僕が誘いの手札の全てを晒し終えたところに環状線左回りバスが僕らの待つバス停へと向かってきた。
031
「あ!」
それを思い出したのはバスの中、ふかふかの座席に座ったときだった。
正確に言うならば、座席に座りスラックスのポケットの中で僕の太腿に鍵が触れた時だった。
「なあ、久美。何で久美は僕に鍵の話はしなかったんだ?」僕は、バスの中で最後尾の右隅をそそくさと陣取り(久美曰く「揺れが怖いから」だそうだ)、手すりにがっちりと掴まっている久美に訊いてみた。
「ん? 鍵の話? 何それ?」
「あ、今は別に、ウィズさん知らないモードじゃなくてもいいから」
「ん? いやいやいやいや。久美さんウィズさん知ってるモードでも鍵の話なんて知らないですよ」右の掌を自分の鼻の前でブンブンと振る久美。
「え、そうなのか。いや、これなんだけどさ」
そうして僕はポケットから吉良教授のデスクワゴンから持ち出した鍵を取って、久美に見せた。
「貸して、見せて」
「食べたり無くしたりするなよ」
「しないしない。人間のあなたに誓って鍵を奪ったりはしませんよ」
「おーけ。はい、どうぞ」
僕は久美の右手に鍵を渡した。
「んんんーっ」鍵を目の前につまみ、じーっと観察する久美。
「私にはわかりません。それどころかこの鍵が一致する鍵穴すら検索できません」
「突然ウィズモードになったな。え、どういうことそれ」
「この鍵は鉄くずと同然ということです」
久美は鍵をつまんだまま自分の顔の前で両手をパンっと鳴らし、「ということで」と言うと久美は、両手でバスの窓を開けて、その鍵をぽいっと捨てようとして──僕はもちろん止めた。久美の左肘をがしっと掴み、強制的に止めた。鍵はぽとっと久美の膝の上に落ちた。
「いやいやいや即行で約束破ろうとするなよ」
「食べるでもなく無くすでもなく、無意味だから捨てようとしただけだけど」
「それは強制的に無くすのと同じだろ。久美?」
「それにこの鍵の物質」久美は鍵をまた摘まみながら分析をするかのように目を細めながら言う。「とても新しい物質で出来てる。とても奇妙。最早気持ち悪い。どういう流れでここにあるのか全く分からないんだけど」
「新しいのか? どういうことだ? それ吉良教授のサイドワゴンから見つけたんだけど」
「あ!」口を開いて、久美はまた鍵を摘まんだままパンっと手を打った。僕はすぐに久美の左肘をしっかりと押さえる。
「ああ、いやいや、今度はもう捨てないから、ロックロック、ロック外して、私の肘に絡みつかないで」
「あ、はい。すいません」僕は素直に久美の肘から離れた。
「うん。まあ取りあえず鍵は返すよ。そしてそんなことより」久美は僕に鍵を渡し、訊いてきた。
「吉良教授が移転された後何してたの? 私、教授が移転されたと分かった時、扉に向かったんだけど、由人、三十分位経ってから部屋から出てきたよね? もしかしてその時なの? この鍵を見つけたの?」
「いや、待てよ。何でウィズさん知らないんだよ。ウィズさん何でも知ってる、神様みたいなもんじゃないのかよ」
「それは、教授が移転されてたから」
「ああ、なるほどな」
と。
僕は一瞬納得しかけた。けど。
いや、それは違うだろ。
「いやいやいや、違う違う。それは違うだろ。ウィズさん物質全てを司ってるのならば、別に吉良教授が作動しなくなったって部屋の様子は手に取るように分かってたはずだろう?」
「だーかーらー」
久美は物分かりが悪い弟に教えるかのように説明した。
「吉良教授の胸は移転されてる最中で、不定形になってたんだって。不定形だったら観測されないの当たり前でしょう? 不定形がそこにあったら、不定形の周囲も観測されにくくなるのは当たり前でしょう? 不定形は波に近い性質があるんだから」
「そんな説明あったっけ?」
「あったよ! 無かったかも知れないけれど基礎事項は教えたんだからそれを組み合わせれば充分に教えたことになるはずだよ!」
なるほど。つまり僕はあの吉良教授の胸の風穴について勘違いしてたんだな。
あの穴の向こうは、どこかの夜につながっているわけじゃない。そのまんま無そのもの。
いや、またこれも違う。無は無だ。有無すら「無い」の無だ。つまり規定されない、「不定形」としか言いようがないのか。
そういえば。
吉良教授の風穴に触れた時、あのときリラックスチェアの感触あったもんな。
もしもあれが、吉良教授が例えたように、そして僕が考えたように、どこでもドアみたいにどこかの空間に繋がっているのなら、あのリラックスチェアに触れるはずがないもんな。
そして、また、あのとき、吉良教授の胸の表面を触ったのにリラックスチェアに触れた感触があったのは、まさしく、吉良教授の胸が、不定形だったから。
そこにあるのかないのか分からない状態だったから。
そこにないとわかれば、代わりに何かをある状態にするだろう。ないところにあるものが流れてきて同時的にあるものがある状態にするだろう。
それが自然の流れだから。
だが、分からないから、空間も省略されたのか。
そこの座標に入るものが分からないから。
あと一つ分かったことがある。
吉良教授は、多分僕を馬鹿だと見越して、物質移転装置を人間の主観から見て、どこでもドアと例えたんだろうな。
あの教授、僕に全然期待してなかったな。
なんか馬鹿にされた気分だ。
もう会うことはないはずなのに腹立ってきた。
「あー」
「どうしたのいきなり?」
「いや、教授のどこでもドアの例えに腹立ってきて。あれ人間主体の考えじゃないか」
「あー、なるほど。私が言った不定形の説明ちゃんと理解したんだね。でもそんなに教授を責めないでよ」
久美は教授擁護派だった。
「元々由人にそんな詳しく教える計画なかったんだって。吉良教授はある程度の移転までの理由と経緯を説明した後、由人に説明を信じさせるために教授自身が身を持って物質移転を実演するだけのつもりだったんだって」
「そこで僕が予想外に怒ってしまったんだっけな」
「そう。吉良教授は直接式の物質移転装置を以って、教授の指先辺りを由人に触れさせて、由人をちょっとびっくりさせるくらいのつもりしかなかったのに」
すごいな。僕すごく悪いことをしてしまったみたいだ。
「突然にあそこまで大きな領域で不定形を開けられたら、WITHさんだって操作不能になっちゃうよ」
あらあら。というか、もうすぐ家にもっと近いバス停にバスが着く。
僕は『次とまります』ボタンを押そうとして、念のため久美に訊いておく。
「久美も降りるよね」
「オフコースです」
そう言うと、久美は僕の方に親指を突き立てた。
ちなみに、帰りのバスでは二人はほとんど揺さぶられることがなかった。
032
バス停から十分ほど歩き僕の自宅に到着した。僕が自宅のドアを開ける寸前まで、久美は僕の背中にべったりと付いて行き、さも緊張している様子だったが、僕の両親が留守であること、そして金曜日のこの時間帯、母親は午後パートの真っ盛りで、午後六時頃までは帰ってくることがない旨を伝えると、急に緊張の糸が解れたのか、僕の背中に隠れるようなことはしなくなった。
取りあえず僕は、僕と久美の荷物を置くために、僕の部屋まで久美を案内した。案内した後、久美を部屋に残し、僕はお茶を出すためダイニングへと向かった。麦茶とクラッカーをおぼんに用意し、久美にドアを開けてもらい、更には部屋の隅にあった折れ脚テーブルを中央まで移動してもらい、その上にお盆を載せた。
遊ぶ用意は整った。
整ったんだけど、部屋に入ってみて部屋にちょっとした違和感がある。
なぜかカーテンが閉めてある。
「……あれ? 部屋に荷物を置きにきたときからカーテンなんて閉めてあったっけ?」
「閉めてあった閉めてあった。 最初からこんな風に部屋は薄暗かったよ」
久美が僕の何気ない呟きに解説を入れてくれた。
「まあいいか。取りあえずクラッカー食べよう。ほら、いいよ、久美も食べて」
「では、遠慮なく」
久美は片手でクラッカーを摘まむとポリポリと食べ始めた。
「でさ、由人」クラッカーを食べながら久美は言う。
「これから何するの?」
「あー、うん。まあ、これからゲームでも……僕の部屋、結構ゲーム機の種類は豊富だし」
「ゲーム……ゲーム……うーん、ゲーム、ゲームねえ……」
なぜか久美の歯切れが悪い。
「ねえ、由人。テレビゲームより楽しいゲームをやってみない?」
「テレビゲームより楽しいゲーム? なんだ? トランプか?」
「トランプは楽しいのは分かるよ。でも二人でトランプはスピードくらいしかできないでしょう。それよりも、もっとなんていうか、大人な遊びをしてみない?」
大人な遊び……? 大人……大人…………? ええっ⁉ まさかアレか⁉
「花札か」
「違う」
「カジノかな」
「確かにそれは大人の遊びだね」
うんうん、と腕組をして頷く久美。
「……って違うから。全然そうじゃないから」
久美は、はあ、っとため息をついた。
何か一瞬悟ったような、諦めたような顔をした。
そして急に久美は顔をぱたぱたと仰ぎ始めた。
「あ、暑いなーこの部屋。あーこんなに暑いと靴下なんか履いてられないよなあ」
と、左の紺のハイソックスをするするするっと脱ぎ出した。
なんか久美の声が上擦ってる。声だけでなく視線もまた上向いてる。
壁と天井の隙間辺りを久美の視線が泳いでる。
若干口まで開いちゃってるし。
そして何より、顔が滅茶苦茶赤くなってるし。ほっぺたが火照って言ってる感じ。
「ほ、ほ、ほ、ほんっと暑いなー、この部屋ー。み、右の靴下も脱いじゃおっかな―」
そしてするするすると右のハイソックスも下していく久美。
ま、まさか……、この展開は……。
親がいない自宅で若い男女が二人きり。
僕にも絶頂期が訪れたと、そういう意味を表してるのか⁉
「く、久美さん⁉ 久美さん⁉」
僕の声まで上擦った。というか最早裏返った。
「靴下脱いだだけですよー でもまあ、そんなに私のところに来たいなら」そう言って、両腕を真横に真っ直ぐに広げ、少し挑戦的な眼と少し口角を上げた微笑みを携えながら、「来ちゃっていいですよ」と続けた。
絶頂絶頂絶頂。
昨日のキスよりずっと絶頂。
絶頂を超えて最早頂点。
ここぞ最早青春の頂点。
僕は覚悟を決めた。
僕はロケットスタートで久美が待つ、そのブラウスの胸の中へと飛び込む覚悟を決めた。
まるで飼い主に懐く犬のように。
ワンワンっ! 僕は椿久美の犬だワン! 僕の名前はパトラッシュ―──
と。
飛び込みたい気分は山々で、最早気分が高まりすぎて自分が何を考えているか分からないけれど。
僕と久美の間にはクラッカーを乗せた折り畳み式テーブルがある。
まさか、麦茶をぶちまけて久美に飛びつくわけにもいかない。
「というか、久美も分かっててやってるでしょ。僕が結局飛び込めないの」
僕はテーブルを指差しながら久美に愚痴る。
「あれー。えー。あ、そうだ。だったら」
久美はふんふんっと鼻歌を鳴らしながらテーブルを横に横にとずらしていった。
え、マジ? マジだったのか?
テーブルをずらし終えた久美はペタンと、なぜか僕と反対方向を向いて床に座った。
久美は僕に背中を見せながら、
「ふー、やっぱりまだ暑いねー」と言い、ブラウスの裾をぱたぱたとし始めた。
裾? 上着?
それは早い! 早すぎるだろう!
というか、ぱたぱたする度に久美の腰辺りの素肌がちらちら見えている。
こいつ、キャミソールごと摘まんでやがるな……
確信犯だ。明らかに僕を落とそうとしている。
僕は紳士だよ。こういうときの順番はちゃんと守るよ。
いや、もしかしたら、僕がちゃんと久美をエスコートしないから久美が無理矢理にも僕に誘発を仕掛けてるのかもしれない。
「もう、脱いじゃおうか。えいっ」
久美はそう言うと、両手を身体の前でクロスさせるように、自分のブラウスの裾を握り、
上へ引き上げ、
上へ引き上げ、
上へ引き上げ、
ホックが見え……、
見え……、
……、
……、
ん?
んんんん?
「待った」
久美が裾を上へと引き上げ、ホックに到達する前、腹部と胸部の間に差し掛かったところで僕は反射的に久美を止めた。
久美のウエストは意外と括れていた。背が小さいので寸胴型の体型かと思ったが、いがいとほっそりとした腰回りだった。
僕が久美を止めたのは、もちろん久美の腰回りの解説を頭の中で反芻するためじゃない。
「これは……、なんだ?」
久美の腰のあたりに、人差し指の先端から第一関節くらいまでの大きさの黒い穴が空いていた。
久美がブラウスを更に脱がそうと、少し腰を屈めたときに、それはスカートの中から突然現れた。
久美の腰に、黒い穴が空いていた。
……。
「なあ、久美」
前を向いたままの久美の後頭部に話しかける。
「なに?」
久美は前を見たまま答えた。
「腰触っていいか?」
「由人にしては意外とせっかちだね」
久美はブラウスの裾を放し、頭を少し回し、目線だけこちらを向いて応えた。
「あ、いや、そうじゃなくてな。久美の腰に穴が空いてたんだけど」
「穴? いや、さすがに空いてないでしょ」
そう言って久美は手を後ろに回し、腰を擦る。
「うん、何もないよ」
「嘘だ。ちょっと待って僕が触る」
僕は久美の傍にすり寄り、「すまん」と言って久美の腰のあたりを擦った。
やっぱり空洞がある。
腰の下部辺りに、人差し指が入るか入らないかのへこみが感触として存在している。
「ほら、ここここ。久美も触ってみてよ」
僕は久美の右手を掴み、僕が感じたへこみのところを久美の指を滑らせる。
けれども。
久美の指は、まるでそこにへこみなど何もないように通過していった。
……。
これは、アレに関係しているな、と、直感的に僕は感じ取った。
僕にとってはそこにあるのに、久美にとってはまるでそこにないかのように通過していく。
物質移転装置。不定形。
色々なワードが僕の頭の中を回っていく。
このへこみは、僕にしか見えないのか。
久美には分からず、僕だけが感じ取れる理由。
僕だけが特別な理由。
…………。
そういえば、例えそれがウィズさんの命による振りだったとしても、久美だって当たり前のように学校生活を送ってきて、もちろんそこには体育や水泳があって、人目に着くところで着替えたりして、そしたら、腰の位置に、指の大きさほどの穴が空いていたら、誰かが指摘するはずで。
指摘しないと不自然なはずなのに。
不自然だったら、除外するのがウィズさんのやり方だろうに。
久美の腰に、穴は自然と空いている。つまりは、ウィズさんも、この穴のことは知らない。
僕だけが知っている、久美の秘密、ということになるのだろうか。
僕だけが知っていること。
…………。
僕は、自分のポケットに入っている。鍵を触った。
この鍵のこと、久美は知らなかった。
…………。
「久美、ブラウスの裾、さっきみたいにもう一度だけ上げてくれるかな」
「……変なことしないでよ」
久美はさっきみたいに、ブラウスの裾を脇腹辺りまで上げた。
僕はもう一度、久美に空いている穴を見る。
そして、手に取っていた鍵をその中に突き刺し、回した。
回した直後。
久美の左の掌が光に覆われた。
久美の右の掌が闇に覆われた。
「え、え、え?」
久美が動揺したように声を漏らした。僕も一体何が起きているのか分からない。
僕はすぐさま鍵を抜く。鍵を抜いても、久美の左手は輝き続け、久美の右手は暗がり続けた。
久美は左手を前に差し出した。左手を差し出すと、部屋の白いクロスの壁がスクリーンのようになり、光の先端が映りこんでいた。
その光はどうやらプロジェクターの役割を果たしているようだった。壁との距離が近いからなのか、カラフルな映像がピンボケして白い壁に映っている。
僕と久美は壁との距離を取るために、じりじりとと部屋の隅の方へと向かっていった。結局、一番焦点が的確だった場所はベッドの上だった。
ベッドの上に、二人並んで壁にもたれるように座り、久美の左手から放たれる光の先を見ると、そこにははっきりとした映像の中に白衣を着た吉良教授が座っていた。
二度と会うことはない、二度と会いたくはないと思っていた吉良教授の姿がそこにはあった。
それだけでも驚くべきことだったのに、その映像は、その驚きを超える驚異を僕に与えた。
吉良教授がサンタ帽をかぶって、パイプ椅子に座っていた。
吉良教授はあくまで真顔だった。
…………。
吉良教授の周囲には、吉良教授が座っている椅子以外にも、五脚パイプ椅子が用意されていた。
でも座っているのは吉良教授ただ一人。
吉良教授が、真顔で、サンタ帽を被って、こちらを見ている。
…………。
「ねえ、これ最初の役ホントに私でいいの?」画面の中の吉良教授が、自分のサンタ帽を指差しながら、画面に向かって不意に口を開いた。
画面を直視、というか、映像を取っている人を見ながら、訊いている様子だった。
「ああ、吉良教授! もう映像始ってますよ!」若い、女性の声が画面から聞こえてくる。
「ええ! もう始まってるの? じゃあ、さっそく始めちゃおうか。せーの」
吉良教授がポケットからクラッカーを出し、前に構えた。前に構えると同時に、吉良教授の周りに白衣姿の男性二人と、女性二人が一斉に集まってきた。皆それぞれの手には色とりどりのクラッカーが握られている。
そして。
「誕生日おめでとう! 白石由人くん!」
と、一斉にその人たちは声を上げたのだった。
033
僕は壁で活動する映像をただ見る。
茫然とただただ、目の前の喝采を見つめた。
その映像の中の、男性三人の中にその人はいた。
ずっと夢で見た、夢の中で出会ってきた、父の姿がそこにはあった。
あの、大正時代の日本人が掛けていたような丸い小さなフレームの眼鏡、首まで伸びる長髪、白衣。
あの父の姿が僕の眼前の映像に現れた。
僕はそのまま、映像を見る。
全てを受け入れるように、自分の感想など入れずに、自分の我儘など含まずに、一言も聞き逃さないように集中して、ただただ映像を見つめる。
以下映像。
034
「誕生日おめでとう! 白石由人くん」(全員)
「せーのっ」(吉良教授)
「ハッピバースデイ トゥユー
ハッピバースデイ トゥユー
ハッピバースデイ トゥユー
ハッピバースディ ディア ゆーと
ハッピバースデイ トゥユー」(全員合唱)
パンッ、パンッ、パパパンッ、パンッ(クラッカーの鳴る音)
「えー、改めまして、由人、八歳の誕生日おめでとう」(父さん)
「今、目の前にあるように、君に母さんに似せた養育用アンドロイドをプレゼントしようと思う」(父さん)
「白石くん。その言い方は失礼でしょう。だってあの人はそのまんま白石久美さんなんだから」(吉良教授、父さんを見ながら)
「うん? そうだな。だったら訂正しよう。いつも家で一人で寂しがっていた由人に、母さんをプレゼントしようと思います」(父さん)
「いえーい、パチパチパチパチ」(一同拍手)
「ところで白石くん、どうして一八歳時代の奥さんをモデルにしたの? 私てっきり三十歳位の彼女をモデルにすると思ったんだけど」(吉良教授、父さんを見ながら)
「え、いや、だってそっちの方が可愛いじゃん」(父さん)
「個人的趣味だったんですか!」(若い女性A)
「いやあ、十八歳の久美は本当に可愛かったよ。僕と久美は小学校からの付き合いだったんだけどね。僕が本格的に交際を申し込んだのは高校のときだったよ。いやあ、高校まで学校が同じだし、これはもう運命としか感じなくなって告白した……っておい、何で僕の身の上話になってんだよ」(父さん)
「はは……」(一同苦笑)
「とにかく、いいか由人! 久美に恋するんじゃねえぞ! 彼女は永遠に僕の奥さんだからな!」(父さん)
「相手は八歳になったばっかりですよ! 何自分の息子を恋敵にしてるんですか!」(若い女性A)
「いやあ、フロイト曰く自分の父親殺して、母親と関係を持つ少年の話があってだな……」(父さん、神妙な面持ちで)
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい、みんな。これ、由人くんの誕生日を祝うビデオレターだよ。ちゃ、ちゃんと由人くんにメッセージ送りましょうよ。これ……、これ由人くん画面の前で、ぜ、絶対置いてきぼり食らってますよ!」(若い女性B)
「じゃあ、それぞれのゼミ仲間からのメッセージコーナー! ではあたしから行きまーす。ごほん、由人くん誕生日おめでとう! また研究室に遊びに来てなあ、今度はごっつうすごいマシン扱わせてやるからな。楽しみに待っとれよー」(若い女性A)
「あー、えー、由人くん、誕生日おめでとうございます。八歳、おめでとうございます」(若い男性)
「あ、あ、あ、私? あ、いや、た、たん、あ、いや、由人くん、誕生日、お、お、おめでとう。また由人くんが、け、研究室に遊びにくれたら、お、お姉さん、とても嬉しいな。また、一緒に、FORCO辺りで、みんなで、け、ケーキでも、た、食べようね」(若い女性B)
「やあ、白石由人くん誕生日おめでとう。またお父さんに連れられて君の家でブランデーを頂くことになるかもしれないけど、そのときはまたよろしくな。はっはっはっ」(吉良教授)
「じゃあ、最後に僕から」(父さん)
「由人、誕生日おめでとう。研究が詰まっててなかなか家に帰れない時期が多くて済まない。由人が家で一人で出来るだけ寂しくならないようこのプレゼントを用意した。もう一度言うけど、由人、誕生日本当におめでとう。これからは、僕と由人と、新しく加わった、いや、戻ってきたと言った方がいいな。とにかく、この三人で、これからも頑張っていこうな。そして、ビデオレターに協力してくれた皆もありがとう!」(父さん)
「由人くんまたなー」(女性Aの声。一同手を振る)
プツンッ。
そこで映像は終わった。
後の部屋には薄暗がりの空間と、沈黙した二人の姿だけが残っていた。
「……」
「……」
「……由人」
久美が沈黙を破った。
沈黙を破って、前に進んだ。
「やっと、会えましたね。由人」




