【行動論:論考】書きたがる人は、なぜ書いてしまうのか?
「人には三つのタイプがいる。
聞くのが好きな人。
話すのが好きな人。
語るのが好きな人」
「そして、君は、語るのが好きな人だ。話すのが好きな人は、ただ、孤独に耐えきれないだけ。語るのが好きな人は、孤独になりたがり、知識を得て、そこから踏まえた教訓を、誰かに向けてスピーチしたがる人なのだよ」
「そして、語るのが好きな人は、議論をして最適解を求めるのが好きな人でもある。だから、聞くのが好きな人と間違えられやすいし、実際に、ほとんどの人からは、全く喋らない、話すのが嫌いな人、ないしは、語るのが嫌いな人として認識される」
「しかし、語るのが好きな人は、《《語る相手がいないから、沈黙をせざるを得ない》》だけなんだ。聞くのが好きな人がいれば、語り始める。しかし世の中に聞くのが好きな人は、そうそういない。だから、語るのが好きな人は『書く』という行動を始める。誰から言われるでも無し、書く」
「そして、語るのが好きな人は、知識をとにかく得たいという知識欲が旺盛にある。そして、《《悟る》》のさ。自分の中で知恵として結びつき、誰かに《《語りたくなる》》。その繰り返しの中で、書く、という行動に出らざるを得なくなる」
「漢字とは上手く出来ている。心に吾で悟。言に吾で語。話し合うのと、語り合うのとでは、行為はまるで違う。語り合う、それぞれの中には吾という、孤独が含まれている。孤独同士が言い合うことを語り合う、というのだ」
「残念ながら語る相手がいないときは、とにかく、本を読むなりして、知識を吸収して、知恵として結びつき悟り、書く。残しておいて、誰かが読んでくれて、吾が語った内容を、誰かが悟ってくれるように書き残してしまう、そういう人間が一定数存在するのだ」
「本を読んだら、また語りたくなるだろう。誰も信じてくれなくても、書きたくなる内容とかはあるだろう。例えば『地球誕生して46億年、実は北と南が反対だった時期がある』とか。今は大陸がある南極があるほうが寒いけれど、磁場が反対だったときにはどちらが寒かったんだろうね。信じる人は少ないかもしれないが、事実だ。こういうとき、一丁目一番地に否定をもってくる人に対しては、語りたくなくなるものだよ。そうしてまた、一人、書くという作業に没頭していくのさ」
「吾(孤独)は、心を持つ(考える)と悟り、語り出す(伝えたくなる)。そういう人間は、一定数いるんだよ。どうにか許容してほしいものだけどね」




