29話 その肉は救うに値するか
女神様と名乗るあの女が人類を害する存在であることは間違いないだろう。本来なら、例え無謀であったとしても、あの存在を何とか謀り、思惑通りにならないよう動くべきだろうが、今は状況が状況だ。私はエストリーを助けなければならない。現状、私には彼女が必要なのだ。
あの世界が何なのか、元の世界に帰るためにどうしたらいいのか、この存在を滅ぼすためには何が出来るのか、何一つわからない。今の私はとても無力で、無知な存在だ。目的を果たすためには協力者がいる。だが、私はあの世界では蔑まれる。無条件で協力者を得るのはとても難しい、いや恐らくは無理だ。相手にメリットを提示し、取引をしなければならない。アルセドさんだってそうだ。ドーレスさんと条件を取り決め、協力している。
ならば、あれだって、あの女だって、同じことだ。取引をしよう。私はエストリーを助けてもらう、その代わりにあれが望むことを為すのだ。今回、私の成功の最低ラインはここにある。あわよくばあれの正体についても情報を得たいが、今回はあくまでついでだ。
まあ、無条件で助けてくれるならありがたいが、恐らくそんなことにはならないだろう。あれに対して、私がどこまで交渉できるのか、そもそも、交渉の余地などあるのかはわからない。だが、取引を持ち掛けるしかないのだ。足元を見られると、中々不利な立場だが、やるしかない。
それにエストリーは無関係だったのだ。私には彼女が必要だが、そのために彼女が犠牲になるのは避けねばならないのだから。彼女もフィオナさんも出来る限りのことはしよう。
「少しは貴方になったのね?」
言葉は脳裏を刺激し、思考を惑わせようとしてくる。
「言葉の意味はわかりかねますが、貴方にお願いがあって来ました」
「何かしら?言ってみなさい」
「私はあの世界で私と恐らく貴方の存在も知る何かに襲われました。それはエストリーという女性の体を乗っ取り、私を殺そうとしてきたのです。しかし、結果的に私は助かりました。肉の塊が一方的に襲っている立場であった彼女を逆に襲ったからです」
「それで?」
「乗っ取られていたエストリーという女性も意識を戻し、私は彼女が助かったと思っていました。ですが、外にいる貴方に仕えている少女は私にこう言いました。『彼女は死ぬ』と。あの肉の塊に多く触れたものは死ぬのだと。あの肉は貴方か外の少女によるものではありませんか?」
「…………」
目の前の女は少し目を見開くと、そのまま黙る。
「どうかしましたか?」
「……ふ、ふふ……ふふふふふっ!」
女は堪えられなかったみたいに、笑い出した。
何だ、急に!?
「記憶を失っても、貴方は白痴ね。ふふ、ふふっ。貴方はそう、そうだわ。何も変わらない、前と一緒だわ!」
白痴とは結構な言われようである。しかし、彼女の言葉を信じるのであれば、私はやはり記憶を失っており、一度、この存在と会ったことがあるらしい。
まあ、何も思い出せない。前の私がどうだったかは覚えていないが、恐らくは今の私と同じく、18歳以前の記憶は持った状態であったと考えるのが妥当だろうな。
「貴方は記憶を失ったと言いますが、前に私と会ったことがあるのですか?私はやはり貴方のことを何一つ思い出せないのです」
私がそう言うと、彼女は即座に私に近づき、私の頬を両の手で掴んだ。彼女の手は細やかで柔らかく、そして冷たい。生気を感じさせないその手は確かな力を込めて、今、私を逃がすまいとつかんでいる。
彼女の顔が私のすぐ目の前にある。
「私は貴方が憎かったわ?私は私にこう言ったのよ?貴方に死の苦しみを与えろと。でも、私は裏切ったわ。だって、貴方を愛していたんですもの。私は貴方のことがとても憎かったけれど、私は貴方を愛していた。でも、貴方はすべてを拒絶して、すべてを忘れて、今、私の目の前にいる。なら、私は貴方に何をしてあげるべきかしら?今度こそ、貴方に死の苦しみを与えてあげようかしら?でも、それは失敗したわね?だって、貴方は死なないのだもの。代わりに私の大切なものを奪っていったわ。だから、貴方には滅ぼしてもらうことにしたの。私の代わりに、あの忌々しい人形どもを。私の手から離れた肉たちを」
彼女の機嫌を損ねてしまったか?迂闊に言うんじゃなかった。
いや、それよりも彼女は何を言っている?彼女は一度、私を殺そうとしたのか?それに彼女が彼女を裏切った?何を言っている?彼女は精神障害か何かなのか?それとも、二重人格とでもいうのだろうか?
それに私は彼女から何を奪ったというのだ。まるで記憶にない。何も思い出せない。どうすべきだ?謝るべきか?……うん、まあ、詳細がわからない以上、迂闊に非を認めたくはないが、とりあえずは謝っておこう。彼女にはエストリーを助けてもらわねばならない。
というか、顔近い、近い。正直、落ち着かない。
「……貴方の言う通り、私は記憶を失っているのでしょう。貴方のことも、それ以外のことも何も思い出せません。ですが、記憶を失う前の私が貴方に何かしてしまったというのであれば、申し訳ありません」
目の前の存在は狂っている。それは理解した。だが、それでも助けてもらわねばならない。
あと、顔が近い。
「今更、謝っても無駄よ。絶対に許しはしないわ。貴方は滅ぼすの、あの肉を。そしたら、今度こそ、従順な存在を作りましょう?子をなすのよ、私と貴方で」
はい?滅ぼす?子をなす?何を言っている。記憶を失う前の私はこの女性と恋仲であったとでもいうのか?確かに今まで出会った誰よりも、美しくはある。だが、それ以上に人格が破綻しているこんな存在を選んだとでもいうのか?うーん、確かに私の方にも何かしら問題はあったのかもしれない。まあ、過去の自分に恨みを抱いても現状が変わる訳ではない。とりあえず、頼んでみよう。
「貴方は私に滅ぼせとそう言いましたね?それはあの白い髪の人類のことを言っているのですか?」
「そうよ、貴方はひとつ残らず、根絶やしにするの。それは貴方だって望んでいることだわ」
いや、そんなことはない。まあ、もし、あの世界が、私のいた世界であり、彼らが侵略者だったらとかで、そんなことをちらっと考えもした。が、正直、そうだった場合は仕方ない。私はあの世界で、最後の人類として、ひっそりと死を迎える。滅んだ文明に対し、今更、どうこうしようとは思わない。
あー、でもどうだろうな。やっぱり、何とかしようとするかもしれない。まあ、そんなことは後でいい。それに面倒くさいな。だからといって、機嫌を損ねる訳にもいかない。エストリーの命がかかっているのだ。しかし、このままでは埒があかない。もう直球に頼むか。いや、先に手を離してもらうことを頼むか?
「望んでいるかどうかはわかりません。そして、この際なので、もうはっきり言いましょう。そのエストリーという女性を助けることは出来ませんか?」
「何故、肉を救わなければいけないのかしら?」
肉?まあ、多分エストリーのことだろう。本人に言ったら、間違いなくぶちぎれそうだが。
「貴方があの白い髪の人類を何かしらの理由で恨んでいることはわかりました。ですが、私にも私の目的があります。貴方がそれを為したいように、私にも為したいことがあります。貴方がそれを為したいというのであれば、ある程度は手伝いましょう。ですが、貴方にも私が為したいことを手伝っていただきたいのです」
私がそう言うと、彼女は漸く私の顔から手を離し、こう言った。
「貴方が為したいこと、当ててあげるわ。それは日本に帰り、平穏な日常に戻ることでしょう?」
うーん、やっぱり彼女とは記憶を失う前に会っていたのだろうな。しかし、それなら、話が早い。
「そうです。ですが、エストリーを助けることは貴方のためでもあります」
「肉を助けることが私に何の益になるというの?」
知らん、そんなものは今から適当に考える。とりあえず、今までのが、演技でないのなら、こいつには心を読む能力や未来を見る能力はない。なら、ここは出まかせいって、エストリーは助ける価値のある存在なのだと思わせよう。
「あの世界にはすでに貴方の存在を把握している人達がいます。そして、その対抗策も恐らく持ち合わせているでしょう。ならば、手数は多いに越したことはありません」
「何か企んでいるわね?」
うーん、まあ何か考えているぐらいばれるか。それは仕方のないことだし、心を直接読まれるよりはましだと考えよう。そっちの方が小細工しにくい
「いや、別にそんなことはありません。……まあ、強いて言うなら、私もどうせ滅ぼすなら、一人よりは二人の方が気楽なので、助けてもらえるとありがたいのですが。貴方のメリットとしてはそうですね、結果的にその方が早く滅ぼせるといったところでしょうか」
「……やっぱり、貴方は貴方ね。変わらないわ」
何だ、急に。
「そんなにその肉を助けたいというのなら、代わりの肉を用意しなさい」
代わりの肉って何だろうか、流石に牛豚鳥でもOKとかそういったことではないだろう。
「代わりとは?」
「貴方は彼女に襲われたのでしょう?あれは私にも因縁があるの。目障りだわ、とても。だから、貴方が彼女を差し出したのなら、その肉は救ってあげる」
「彼女とはエストリーの体を乗っ取った存在ということで合っていますか?」
「ええ」
「貴方とその女性には一体どんな関係が?」
「彼女は私の……私?違うわ、そうだわ、そうじゃないわ、関係がない。私は……」
彼女は頭を抱え、何かブツブツと呟いている。
彼女がおかしいのはわかったが、まともに会話できないというのは結構困るのだが。
とりあえず、互いに何かしらの関係があるのだろう。エストリーを乗っ取った存在は襲ってきたとはいえ、案外、向こうが正義だったりするのかもしれない。まあ、現時点では何もわからないのだが。今度会う機会が会ったら、一回、話す必要があるな。誤解を解く必要がある。
まあ、エストリーを救うためにはどのみち彼女に会い、そして、この女に差し出さなければならないらしい。しかし、それだと、あとから、やっぱり救わないと言われる可能性もあるしな。せめて、信頼できる第三者がいたらいいのだが。
「一つお願いがあるのですが」
私がそう言うと、女はぴたりと無言になり、私をじっと見つめている。
これ、大丈夫か?今すぐ逃げ出した方がいいのではないだろうか?いや、それをしたら、ここに来た意味がなくなってしまう。……続けよう。
「ええっと、取引をするのであれば、第三者がいる方が私としても、貴方にしても、反故にされずによいと思うのですが、いかがでしょうか?」
「そういうことであれば、この私の出番でしょう」
予想していなかった方向からの声に驚き、振り向くと、そこには勾玉を寄越したあのフードの男がいた。




