彼と私のそれからのこと
流産に関する生々しい表現がありますのでご注意下さい。
彼を見送ってから寝室で眠っていた私は、何となく感じていたじわじわした痛みが急激に強まりいきなりお腹を絞り上げられるような激痛に襲われた。声をあげようにもどうにもできない物凄い痛みでシーツを掴んで悶ることしかできなかった。どれ程の時間そうしていたのかは解らない。お腹が収縮する度に身体から何かが流れ出してくる。そして何かはどんどん量を増やしついには何かとは違うどろりとした塊が出て来たのを私は確かに感じていた。
痛みのせいでまともに息も吸えず頭が朦朧としていたけれど、私は咄嗟に手を伸ばしそれを掴むと胸に抱きしめた。
きっとこの小さな塊の中に、彼と私の赤ちゃんがいるのだ。
両手はガタガタと不自然に震えていた。大量に出血した事による痙攣だったのかも知れないが私にはよくわからない。痛みと苦しみの為に断片的にしか覚えていないのだ。駆け寄って来て息を呑んだマイヤの顔、『お医者様を』と叫んでいる声、『もう手の施しようが……』という医師の無念そうな呟き、『旦那様はまだか!』と窓に駆け寄ったのは誰だっただろう?
私の意識はどんどん暗さを増し、いつの間にか深い闇に落ちるように眠っていた。
……と思ったのに、響き渡る鐘の音にハッと我に返ったのだ。
そこは眩しい初夏の空の下だった。
一度目は夢を見たのだと思った。信じられない事だけれど、本当にここ数日忙しくてろくに眠れていなかったのだもの。ふっと眠気に襲われてうとうとしてしまったのだと。不思議とそんな時に見る夢は生々しいものだ。だから今見たものもきっと夢……。
私達はぎこちないながらも穏やかな毎日を送り始め、私は幸せになるのだと信じていた。
けれども私のお腹に小さな命が宿ったと知った彼は安静にするようにと言った。まるで命令するような厳しい口調で。朝の見送りすら止めるように言う彼に反論すると『お願いだ』とイライラした返事が返って来た。
ーーそうか……
と私は腑に落ちた。私のお腹に居るのはブレンドナー伯爵家の大事な跡取りなんだ。大好きな貴方と私の赤ちゃんなんかじゃないんだ。
私は泣き顔を見せたくなくて毛布を被り、猫のように丸まった。
仰せのままに殆どベッドから降りる事無く安静過ぎるほど安静にしていた筈なのに、私は夢で見たのと同じように突然お腹を絞り上げられるような激しい痛みに襲われた。それから先は夢をなぞったようにそっくりそのままだった。
違ったのは胸に抱いた塊にごめんなさいと謝った事だ。
ーー私、本当にあなたに逢いたかった。あなたを愛してやりたかった。あなたに愛されたかった……
震える私の腕の中で、塊はぐにゃりと形を失った。
三度目の鐘の彼は知らない人だった。いや、彼がマクシミリアン・ブレンドナーである事には変わりがないが、無口ながらも優しかった彼とは別人のように私を虐げたのだ。優しい彼しか知らなかった私は愕然とし、心を真冬の夜の海のなかに放り込まれたように胸が冷たく、そして息苦しかった。
それ以降は何度巻き戻っても彼は冷淡に『この結婚に愛は無い』と言った。あんまり巻き戻りを繰り返すものだから、今度こそ初めの優しい彼に出会えないかと思ったりもしたけれど、そんな彼はもう現れなかった。
どう云う訳か私は冬の終わりに死ぬ。懸想してきた騎士に殺されたり事故にあったり。中でも誘拐しようとした賊に殴られて頭を打ち、そのまま捨てられた時は辛かった。即死ならまだしも息があるのに冬の寒空の下鬱蒼とした森の中に置き去りにされたのだ。星を見上げながら意識を遠退かせたあの夜……あれが一番悲惨な死に方だったと思う。
でもどんな痛みを受けた死に方も子どもを亡くした二度とは比べ物にならなかった。身体の痛みも心に広がる絶望も。
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ーーええと、私はどうなったんだったかしら?
私は首を傾げて思い返した。
そうだ、最新の巻き戻りは何時にも増して酷かったんだ。『この結婚に……』宣言はいつも通りで客間行きも想定内、肉体関係が無いのもまた然り。
でも、だ。最新はいくらなんでも酷かった。だって夫は理由も言わずに私を客間に監禁したんだもの!
屋敷から出るな、でも驚くけれど、私は囚人のように客間に閉じ込められた。ご丁寧にドアの外に鍵まで付けて。
今までは何があっても耐えてきた。相当我慢強いと思っていたし、貴族の娘に生まれたからにはそうあるべきと信じていたからだ。それに私は何度も巻き戻りその度に虐げられているけれど、そんな事情とは無関係な夫に今迄積もり積もった怨念をぶつけるのは淑女として如何な物かと。もっともね、巻き戻りを繰り返す淑女なんて居るんだかどうだか知らないけれど、兎に角私の矜持として良しとしなかったのだ。
結局それが良くなかったのかも知れない。彼はその都度違う彼なんだろうけれど、私の心はどんなに巻き戻ろうとこの私のものなのだ。
私は錯乱したんだと思う。窓の外に春の気配を感じた私は空を飛ぶ小鳥に目を奪われた。
ーー小鳥のように空に羽ばたいていけば、私も自由になれるんじゃないかしら?
ふとそう思った私はバルコニーに出ると手摺の上に立ち、思いっきり高く飛び上がった。