僕らは歩き出した
いきなり走り出し螺旋階段を駆け上がって行ったフローラに、呆気に取られ思考を停止させていた僕はハッと我に返り慌てて追い掛けた。見上げた先には凄い勢いで階段を駆け上がって行くフローラのスカートの裾がふわふわと揺れている。
僕が追い付くよりも前に螺旋階段を登りきったフローラは、その先にある直角に近い梯子のような階段すらも一気に登り小さな戸を開けて外に飛び出した。
そこは聖堂の尖塔で見晴台のようになっており頭上にはあの鐘が見える。フローラは手を伸ばせば届きそうな距離で大した高さのない危なっかしい手摺を背にして強い風に吹かれて金色の髪を靡かせていた。
「フローラ、君は自由になれたんだ。もう愛していない僕から解放されるべきなんだよ……」
僕が一歩前に出るとフローラは柱に手を掛けて右足を手摺に乗せた。
「マックスは間違っているわ。私が居たいのはジェレミアの隣じゃない。私やっと解った。何度も何度も巻き戻ってその度に貴方に虐げられて惨めで哀しくて情けなくて……それでもどうして何度も巻き戻ってきたのか今やっと解ったの」
フローラは微笑んでいる。それは長い間求め続けていた答えを見出だしたかのような晴れ晴れとした顔だった。
「私、死にたくなかったんだわ。もっともっと貴方と一緒に居たかった。貴方に愛され……私も……貴方を愛したかった。そう、私も貴方を愛したかったの……だから戻って来たのよ!!」
「フローラ……」
「お腹に赤ちゃんが居るのが判った時『大好きな貴方と私の赤ちゃん』って言ったでしょう?私、貴方があんまり嬉しそうにしてくれたからつい言ってしまったんだと思っていた。でも違う、違ったのよ。私あの時はもう……」
声を詰まらせたフローラの目からは透き通った涙が次々と溢れていたが、それを拭いもせず満ち足りたように優しく笑った。
「貴方を好きになっていたの……」
その時、急に吹き付けた突風に煽られたフローラの身体が大きく揺らぎよろめいた。そこからは一瞬の出来事なのに小間送りの絵のようにゆっくりと、小刻みに止まりながら時が流れて行くようだった。
笑顔のまま夜空に投げ出されるように倒れていくフローラ、必死に伸ばした僕の右手。それはフローラの腕を捉えたがするりと滑り、けれども……
僕らの手は固く固く握られていた。
引き寄せたフローラの身体を抱き締めたとき、世界は時の流れを取り戻し消えていた音が甦った。
「ね?私は死なないわ。今度は……今度こそ死んだりしない。私はマックスと生きていきたいの!」
僕にしがみつくフローラからは柔らかな温もりが伝わって来る。それはまるで私は生きていると言葉ではない何かが身体中で叫び僕に訴えているかのようだった。
「マックスに愛され私もマックスを愛して、笑ったり泣いたり時には喧嘩したりして。生まれてきた子ども達を育て成長したその子達が親になり、私達はおじいちゃんとおばあちゃんになって。そうして本当の一生分貴方に愛されて貴方を愛して……それまで私は生き続ける。絶対によ」
僕の腕の中でこの先に待っている日々を予言するかのようにフローラは自信たっぷりに言い
「それでも私をジェレミアに押し付けるの?」
と唇を尖らせた。僕の心を掴んで離さないあの可愛らしい拗ねた顔で。
「いや……もう二度と離さない、離すもんか。フローラを失わない為にどうすれば良いのか判ったんだ。僕も君を愛する。そして君からも愛される。一生分愛して愛されて、それまで絶対に君を離したりしない!!」
フローラが僕を見上げ僕はフローラを見下ろした。そして僕らの視線は絡み合い僕はフローラの青磁色の揺らめく瞳に吸い込まれそうになった。僕はフローラの頬を両手で包みその愛らしい唇を掠めるように口付けた。きっと僕には無理矢理キスをしたあの日の罪悪感が残っていたんだと思う。でもそんなものは一瞬で消え、僕らは巻き戻りを繰り返した長い長い時の流れを埋めるように何度も唇を合わせた。
『リーンドーン……リンドーン……』
夜だというのに突然鳴り出した鐘の音に驚いて僕はフローラに覆い被さった。頭のすぐ上で鳴り響く鐘は耳をつんざくような大きな音を立ている。
しかし、頭をくらくらさせていたその音は、何故か次第に遠ざかり何時しか消えてしまっていた。
「マックス?」
フローラに呼ばれ恐る恐る顔を上げると僕らはいつの間にか静まり返った祭壇の前に居た。僕に抱かれたフローラが目を見張り見上げている先に視線を向けると、ステンドグラスが外から射し込む日の光を受けて柔らかく輝いている。その輝きはどんどん明るさを増して薄暗い聖堂の中を急激に照らしていった。
僕らは立ち上がり祭壇に背を向け手を繋いで通路を歩いた。永遠の愛を誓ったあの日のように。
ドアの隙間から明るい光が差し込んでいる。
「何が起きていると思う?」
ふわふわと笑いながらフローラが囁いた。
「何だろうな?フローラは怖い?」
「平気よ、怖くなんてないわ。だって……マックスと一緒だもの」
『リーンドーン……リンドーン……』
早く出ておいでと誘い掛けるようにあの鐘が鳴り響いている。僕はフローラに頷いてドアに手を掛け一気に開け放った。
途端に僕らは暖かな光に包まれた。目の前をヒラヒラと白い蝶が通り過ぎ微風が頬を撫で、頭上からは鳥の囀りが聞こえてくる。そして聖堂を囲むように植えられたエクラの木々は綿菓子みたいにこんもりと薄紅色の花が咲き乱れ花吹雪を散らしていた。
「春が……春が来ているわ……」
フローラは風に吹かれ雪のようにはらはらと降り積もるエクラの花弁を瞳を輝かせて見つめながら囁いた。
「そうだね。僕らが待っていた季節だ。春になったら二人でエクラの花を見に来よう、あの時フローラと約束したんだ」
僕はフローラに手を伸ばし指と指をしっかりと絡めた。もう二度と離さないように願いを込めて。そして僕らは舞散る薄紅色の花吹雪の中にゆっくりと歩みだして行った。
もう二度と離れないと互いの心に誓いながら。
終わり