私には時間がないのです
何だか良くわからないまま連れてこられたのは何故かアークライト邸だった。運び込まれた客間にはライラおばさまが待ち構えていたけれど、『可哀想に』と言ったきりもう言葉にならないようで私の頭を撫でながらずっと涙を流していた。
しばらくすると次々と私の身の回りの物が届けられ、ここで湯浴みをして休むように言われた。薬が残っていたら危ないからと私も知っているマーサが手伝ってくれて、ゆっくり湯船に浸かってから襟繰りに苺の刺繍がされている夜着を着て戻るとライラおばさまが泣き崩れている真っ最中だった。マーサはそれとなく私の身体に異変がないことを確認したのだろう。湯浴みの世話をしてくれていた間はあんなにちゃきちゃきと手際が良かったのに、よっぽど緊張したのかおばさまの横で幽霊のようにボーッと立ち尽くしている。
「フローレンス、良かったわ、本当に良かった……」
ライラおばさまは小さな子どもみたいに泣きじゃくりながら何度も何度もそう繰り返した。
「明日の朝貴女を連れて領地に向かうわ」
「……おばさま?私、聴取を受けなければ……」
「何を言うのっ!!」
久々のおばさまの雷は相変わらず特大だった。二人の腕白坊主の手綱を握るおばさまの叱り方は情け容赦なく悪さをすれば私だって手加減なしに叱られたものだったが、おばさまにとっては今も私は躾が必要な子どものようだ。
「良いこと?貴女はアークライトの領地で療養なさい」
「でもおばさま、私は、私にはやらなければならない事が……」
そこまで言った私は急に言葉を詰まらせた。どうしてなのか解らず息が苦しくて肩を上下させていたけれど、頬を伝った涙がパタパタと音を立てて膝を濡らし初めて泣いているのに気が付いた。
「だって、だって何人もの人が……殺されてしまったんです……だから私……」
私は平気だ……それは自分を奮い立たせるために強引に言い聞かせ思い込ませていただけだったみたいだ。だからこんなに呆気なく涙を流してしまうのだろう。ぐらぐら揺らぐ心の弱さがもどかしく悔しくて情けなくて堪らなかったが、流れる涙とこみ上げる嗚咽はどんなに頑張っても止めることができなかった。
「フローレンス、もう良いのよ。これ以上無理をしてはダメ、今は何も考えずゆっくり休む時だわ。辛いなら辛いと言えば良い、弱音を吐くのも人に甘えるのも決して悪い事ではないの。貴女は余りにも張り詰め過ぎている……このままでは破裂して壊れてしまうわ!」
おばさまの胸で私は泣いた。小さかったあの頃のように。家では感情のままに泣くことすらも許されなかった私が涙を流せる唯一の場所だったおばさまの胸で。
「ロレッタが亡くなった時に無理にでも引き取っておけば良かった。そうすれば貴女に辛い思いをさせずに済んだのに……それどころかこんなことになるなんて」
おばさまは声を詰まらせながらそう言うと私の背中をトントンと優しく叩き始めた。
「可愛いフローレンス、ゆっくりお休みなさい。大丈夫、もう大丈夫よ」
身体中から力が抜けていく。凍らせたようにガチガチに硬めて形を保っていた心までもが温まり解れていくようだ。それと共に私は今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに疲れていることに気が付いた。
「おばさま……ローレの側にいてね……」
『わたくしの可愛い可愛いローレちゃん』というおばさまの呟きを最後に、私は深い眠りに落ちていった。
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ジェレミアは毎週領地に顔を見せた。勤務のあとそのまま来るのだろう。夜中に到着し翌日は一日ゆっくりできるけれど、次の朝はまだ暗いうちに戻っていく。おばさまは呆れ返り私は体調を心配したが、ジェレミアは『ローレが大人しくしていられるか気が気じゃないから』と失礼なことを言うだけだった。
冷え込んではいるがよく晴れた風の無い朝だった。私はジェレミアに誘われて森を散歩していた。小道の先に池があると言われ手を引かれて歩いていると急にジェレミアに抱き上げられた。
「なあに?」
「ローレ、目を閉じて」
「目を?どうしてそんな?」
「良いから!」
私が渋々両手で目隠しをするとジェレミアはゆっくり歩き出す。枯れ葉を踏む足音が止まりそっと地面に降ろされ『もう良いぞ』というジェレミアの声が聞こえた。
首を傾げながら手を降ろして目を開けた私は目の前に現れた景色を前に息を呑んだ。そこは小さな池の畔で水面がキラキラと眩しく輝いている。そして池を取り囲むように真っ白い水仙の花が一面に咲いていた。言葉にしたいけれどどんな言葉なら相応しいのか思いつかない程の美しさに、私にはごくごく在り来たりでありふれた言葉で讃えるしか術がなかった。
「綺麗ね……」
けれどもジェレミアにはその一言で充分だったらしい。どこかほっとしたようで嬉しそうな、そして何時もよりもずっと優しい声が聞こえてきたのだから。
「そうだろう?いつかローレに見せたいと思っていたんだ。いつか二人でここに来ようと……」
私はふらふらと前に出ると崩れるようにしゃがみ込んだ。甘い香りに包まれた深い森の中にぽかんと空いた光溢れるその場所は神々しいほどの荘厳さを漂わせている。
まるで、もう春はすぐそこまで来ているのだと私に諭すように。
「ジェレミア……」
私は立ち上がり振り向いた。
「私にはやらなければならない事があるの。時間が無いわ。だからもう行かなきゃ」
「行くって何処に?」
「聴取を受けに……」
ジェレミアは大きく目を見開いて私の肩を掴むとブルブルと首を振った。
「駄目だ、今のローレには早い、まだ早過ぎる。まだ無理だ」
「それでも行かなきゃいけないの」
「ローレ、いいか?聴取を受ければあの日何があったかを全て話さなければならない、塞がりかけた傷口をわざと抉って広げることになるんだぞ」
ジェレミアはどうにか言い聞かせようとしているのか落ち着いた声でそう言ったけれど、小刻みに揺れる瞳が心の戸惑いを明かしている。不安なのだろう、私の心が壊れてしまうのが不安で堪らないのだろう。それでも私は行かなければならない。だってもうすぐその日はやってくるのだ。
この人生を断ち切られるその日が……。