私、わかっていたのです
薄暗い部屋の中にマリー君は居なかった。何故か代わりにソファに座っていたのは母とヘンリエッタだった。
「凄いわ!お薬って本当に効くのね!!」
ヘンリエッタがはしゃいだ声を上げて手を叩いて飛び跳ねると、母は『静かになさいな』と優しく窘めてから私に向かって不気味な笑顔を向けた。
「愛って尊いものなの。愛を貫く為ならどんな罪を犯したとしても赦されなきゃいけないくらいに。たとえ誰かの命を奪ったとしてもね」
母がボーイに顎をしゃくって指示をすると、彼は開いている大きな箱に私をドサリと降ろした。布張りの箱の内側にはいくつものポケットが有るのが見える。これは長旅をする為の大型トランクだ。いくら大型でもデイドレスを着ている私を詰め込むのは無理じゃないか?そう思ったけれど力の入らなくなった身体はボーイの思い通りに動かせたらしく安々と収まった。
「ヘンリはお義兄様を愛しているの。でもお姉様はそうじゃない、それなのにお姉様が妻だなんて間違っているわよ。ヘンリこそお義兄様の妻になるべきだわ」
オフィーリア様に聞いた通りマックスへのヘンリエッタの気持ちは本物みたいだ。離縁するように命令しろと癇癪を起こしたヘンリエッタとそれを窘めることもしなかった母。父を奪うためにお母様の命を奪うことも厭わなかったこの母は、今度はヘンリエッタの想いを叶える為に私を排除しようとしているのか。
「ヘンリね、お義兄様と結婚させてってお父様にお願いしたの。それなのにお父様は公爵様が絡んだ縁談だからお姉様は離縁させられないんだって言うのよ。お義兄様は一生愛情のないお姉様と夫婦でいなくちゃいけない、そんなのお義兄様が可哀想。だからお姉様には消えてもらうことにしたの。そうすればヘンリはお義兄様と結婚できるんだもの。お義兄様だってたっぷり愛情を注いでくれるヘンリを好きにならずにはいられないわ。私達、幸せになるわ。だからお姉様、悪く思わないでね」
ヘンリエッタが閉めかけたトランクから私を覗き込んでニコニコと笑った。その後ろからは母が見下ろしている。
「わたくしねぇ、お前の懐妊を楽しみにしていたのよ。だってほら」
そこまで言うと母は口元を手で覆いフフッと笑った。
「邪魔者はお腹の子どもがあの世へ道連れにしてくれるでしょう?だからお前の懐妊がわかったらお祝いの気持ちを込めてラベンダーを贈ろうと準備していたの。お前の母親と同じようにお腹の子諸共あの世へ行って貰おうとね」
薄れかけた意識がグッと引っ張られるように戻り、背筋を冷水が流れるような感覚に鳥肌が立った。私達の赤ちゃん、あの子達を身籠った私に届けられたマックスからのプレゼントはラベンダーのアロマオイルだった。けれども私はそれを直ぐに捨てた。直接手渡しすれば済むものをわざわざ私宛に送ってきた事への違和感だけじゃない。『お父様が下さった』と言うお母様の言葉、お母様に抱き締められた時のラベンダーの香り、その最後のお母様との思い出がまざまざと蘇り私に危険を訴えたのだ。
ーーこれを送ってきたのは母だ……
あの時私はそう直感した。そして今、それは確信になった。
「待てど暮らせど懐妊の兆しは無いしどうしたものかと思っていたら肺炎で死にかけているって知らせが来て……これは好都合だと思ったのに結局死に損なうなんて本当にお前はできの悪い娘ね。最後までこうやってわたくしの手を煩わせるのだもの。だからお父様も今度ばかりは仕方がないと仰ったわ」
「…………お……父…様が…………」
ーーどうしてかな?お父様もこの企みに荷担している事なんて初めから予想がついていたのに……
それなのに私の目から涙が溢れるのは何故なんだろう?こんなに……どうにもならないくらいに悲しくて淋しくてたまらないのはどうしてなんだろう?
もう私の身体は指一本すら動かない。拭うことすらできずにこぼれ落ちた涙は次々と頬を伝い髪を濡らした。わかっていたのに、私は血の繋がったお父様にとってさえ利益を生み出す雌鳥だとしか思われていなかった事なんて、ずっと前から気が付いていたのに……。
「婚家からの援助も受けられないなんて実に情けないわ。お前が大事にされていない証拠だものね。ロートレッセ公爵家からは出入りを断られるし、結局お前はただの役立たずでしかなかったかと思ったけれどこうして高値で売り払えたのだもの、これで良しとしましょう」
母の嘲笑う声を聞きながら私の目蓋が落ちるのとトランクの蓋が完全に閉められるのはどちらが先だったのか?どちらにしても私は闇に包まれその後の事は何もわからない。
再び目を開いた時はオレンジ色の光の中だった。