僕は時間を止められた
『そうそう、もうヘンリエッタのお相手探しをロートレッセ公爵家に頼んでも無駄でしょう。お諦めになった方が良い』
『そ、そんな!何故だ?フローレンスは公爵夫人に目をかけられたんだろう?それならわたしたちにだって』
『普通の家族ならね』
僕は思わずせせら笑った。
『目を掛けたからこそ貴方方を赦せないのが解りませんか?それにねぇ、いくら苦手だといっても目の前を横切っただけの猫を母娘揃って足蹴にするとは!』
『なんだと?!……ま、まさか公爵家の猫を……』
蒼白な顔で目を見開く義父の瞳は青磁色だ。母親に生き写しだというフローラが唯一父から譲り受けたのはこの瞳の色なのだろう。しかしそれはフローラの清らかな輝きを放つ瞳とは違いどんよりと濁ってなんとも言えぬ醜さを感じさせる。
『そのまさかですよ。ですが、ご夫妻がお怒りになられたのはご自分達が可愛がっている猫だったからではありません。結婚相手が見つからない事への腹立ち紛れに猫に八つ当たりをする、その底意地の悪さに怒りを通り越して飽きて果てておいででした。あれでも公爵夫人は我慢強く付き合っていらしたのですよ。義母上にヘンリエッタの教育を見直すべきだと再三仰っていらしたでしょう?先ずはそこから見直さなければ相手など見つからないからです。でも貴方方は一向に聞き入れようとはなさらなかった』
ワナワナと震えている義父を残し立ち去ろうとしたが、ふと脚を止め振り返り『そう言えば』と言添えた。
『義母上もヘンリエッタも公爵家を訪問するには不相応な豪勢な出で立ちだったそうです。援助を求めるよりも前にやるべきこともできることも沢山あるはずだ。もう一度良く考えてみてはどうでしょう?』
もう僕は振り向かなかった。あの男にはフローラの父である資格などないのだ。いや、フローラはかつて一度たりともあの男を父だと思いはしていなかっただろう。母を裏切り自分を苛んだあの男を。
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「でもどうしてなのかしら?侯爵家の家令も執事も侍女長も皆私が生まれる前から仕えて来てくれた人達なのよ?どうして急に……だってこうなることが良く判っている人達なのに」
「フローラが居ない侯爵家に残る理由なんて無いからだよ」
フローラは顔を曇らせ首を傾げた。
「容態が厳しかった時に三人が揃って訪ねてきた。熱が高くて意識が混濁していたから覚えていないだろうけれど」
「そうなの?」
「あぁ、フローラの手を握って必死に励ましてくれてね」
彼らは涙ながらに言っていた。『フローレンスお嬢様の為だけに侯爵家に仕えて参りました』と。いつかあの家を引き継ぐ為に努力を惜しまなかったフローラに相応しい侯爵家であるようにとそれだけを願い、無能な主に愛想を尽かしつつ耐え忍んでくれていた。しかしフローラは嫁ぎ侯爵家はヘンリエッタの物になると知り、もうこれ以上仕える理由を失ってしまったのだ。そんな彼らと共に侯爵家を支えてきた者達も思うところは同じだったのだろう。彼らに続くように次々と侯爵家を去って行った。
「そう……皆、尊敬できる素晴らしい人達だったわ。そうじゃなければあの家はとっくに傾いていたに違いないもの。皆が私の為に、そんな風に思ってくれていたなんて……」
フローラはぷいと顔を背け立ち上がって窓際に行くと降り始めた粉雪を眺めた。僕も隣に立って手にしたショールを微かに震えている肩に掛け、こっそりと涙を拭ったのには気が付かない振りをした。
「私は人でなしね」
「フローラが?どうして?」
「だってそんなに大切にされているなんて思いもせずに、自分はひとりぼっちだと決めつけていたもの。温かい気持ちに応えることもなくお礼だって言っていないわ」
思わすフローラを抱き寄せようとした僕は既のところで我に返り伸ばしていた手を小さな肩に置くだけにした。じっと何かを想っているフローラは気が付いていないのか黙って窓の外に視線を向けたままだ。
「大丈夫、フローラが彼等を大切に思っていた事はちゃんと伝わっている。だからこそ大事な君が重篤な状況だと聞いて、いてもたっても居られずに駆け付けて来たんだ」
「……そう。それなら私、もうあの家がどうなっても構わないわ。お父様は父親なんだと自分で自分に言い聞かせるのも止める。マックス、貴方ホントは気が咎めているんでしょう?勝手に私の父娘の縁を切ってしまったって」
僕は気まずさに思わず口元を掌で覆い顔を背けた。
「心配しなくても良いの。心から感謝している。他の生き方を知らない私にはできなかったから」
フローラは表の冷え込みを確かめるように窓ガラスに手を当て呟いた。
「冬が来たのね……」
「フローラ?」
「ありがとう」
振り向いたフローラの金色の髪が揺らぎ両腕が僕の首にまわされる。そして呆然として身動ぎも出来ず息を詰めた置物みたいな僕の頬に、温かく柔らかな唇をほんの一瞬だけ押し当てすぐに離れていった。
僕の時間を完全に止めて……。