僕はフローラの髪を撫でた
「それなら一体誰が……」
荒い呼吸と共に唇を微かに震わせている僕にフローラは『さぁ?』とだけ答えた。それでも無意識なままに毛布を握り締めているその両手が胸に抱えるものの重さを表しているように見えた。
「まさか……愛人か?」
「あれはね、どんな悪意が込められていたとしてもあくまでも嫌がらせでしかないの。罪に問われるような事じゃない。だから否定されてしまえばそれ以上追求するのは不可能なのよ」
僕に向けたフローラは絶望の闇に引きずり込まれたような虚脱感を滲ませている。追い詰められた母親が死に、母親を追い詰め排除してその椅子に座った女が母になった。更にはその母によって自由を奪われ責め苛まれて来たフローラは、ただ耐え忍ぶ事しかできずにいたのだ。
「私が社交界に出る時にジェレミアのお母様にご挨拶に伺って、その時にジェレミアのお母様……ライラおば様が洗いざらい話して下さったんだけれど……」
フローラは躊躇いながら口を開いた。
「お父様はね、結婚前から優秀だったお母様に劣等感を持っていたんですって。だから家庭は安らげる場所じゃなくて私がお腹にいた頃から愛人の家に入り浸るようになったらしい……でもある日突然戻って来て悪かったって謝ったの。もう君以外を想わないって。どうやら他の女にまで手を出したのが愛人にばれて、修羅場になって逃げ出したってことだったみたい」
フローラは軽蔑するように冷たく笑い大きく息を吸った。
「ある日愛人がお父様を訪ねて来たの。大きなお腹を抱えて『貴方無しには生きていけない』って大騒ぎしたらしいわ。私は機転を効かせた乳母が連れ出してくれたから何も見ていないけれど、結局お父様は愛人と手に手を取って出て行ったの。そして一人残されたお母様はその後直ぐに妊娠しているのに気が付いたのよ」
「義父上には知らされなかったのか?」
「いつ出産になるかわからないのに一人にしないでって愛人が騒ぐから側を離れる訳にはいかない、そう答えたらしいわよ。実際愛人はお母様の懐妊を知って相当取り乱したみたい。お父様はお母様が流産した時ですらも戻っては来なかった。それどころか感染症を起こして危篤になっているお母様よりも産気づいた愛人に寄り添うことを選んだの。お母様はお父様に看取られることなく亡くなり、同じ日に生まれたのがヘンリエッタ。お母様の葬儀の翌日にはもう愛人とヘンリエッタは屋敷にいたわ。私の母と妹としてね」
僕は爆発するような憤りで大声を上げるのを必死に堪えた。だがフローラは風の無い日の水面のように僅かな心の揺らぎも見せず落ち着き払っている。きっとフローラはそうやって端然と振る舞い平然として見せる事で胸に抱く苦しみを隠してきたのだ。
「ねぇ知っていて?愛ってね、何よりも尊いものなのですって。愛を貫く為ならどんな犠牲も厭わないくらいにね」
「どんな犠牲も……?」
「そう。愛し合う二人を邪魔する事こそが罪だ、ライラおば様はそう言われたそうよ。『ラベンダーを送ったのか?』って聞かれた母からその返事の代わりに。それから『愛されてもいないのに妻の座に縋り付くなんて愚かだ』ともね」
「なんて女だ!!」
「けれどもお父様が愛したのはその人なの。お母様じゃなくてね」
フローラはふわりと笑顔を浮かべて僕を見ると直ぐに視線を逸した。僕は幸せだったはずの初めの日々でも不意に見せていたフローラの、何もかもを諦めたかのような淋しそうなその横顔の理由にようやく辿り着いた気がした。
僕は思わず立ち上がりベッドに乗り上げ、フローラを抱き寄せた。
「反省したんじゃなかったの?」
冷たく言い放たれたけれど僕の肩は預けられたフローラの頭の重みを感じている。
「疲れさせてしまったからね。ちょっと支えているだけだよ」
瞼を閉じ、腕の中でくったりと身体の力を抜いたフローラの呼吸が少しずつ深くなって行く。それでも眠りに抗おうとするかのようにフローラは口を開いた。
「愛なんていらない…誰かを傷付けて……それが赦される…赦さなきゃいけないなんて…そんな恐ろしいものは……私は…いらないの……」
たどたどしくそう言うとフローラは口の端を吸い込むように閉じる。そして僕は眠ってしまったフローラの頭に頬を寄せながら金色の髪をゆっくりと撫でた。
今の僕にできるのは寄り添う事だけなのだから。