僕は最低だ
言い逃れなどできはしない。僕は最低だ。
僕は衝動的にフローラを抱き締めて強引に唇を奪ったのだ。
腕の中でもがいていたフローラが必死に拳で僕の胸を叩いても僕はフローラを放さなかった。フローラの頬が溢れた涙で濡れていることに気が付いた時には、頑なに抵抗していたフローラの身体は力を失くしぐったりとしていた。
ハッとして腕を解くとフローラはふらりと一歩後退り僕を睨む。僕らの視線が絡み合いもう一度手を伸ばそうとした僕からまた一歩後退ったフローラは、フイっと踵を返し部屋を飛び出して行った。
その後ろ姿を目で追った僕は力が抜けたようにソファに崩れ落ち、そんな情けない僕の膝目掛けて仔猫達がぴょんぴょんと駆け寄って跳び乗って来る。僕は肩によじ登ったヒルルンデに力なく笑い掛けた。
「やぁ、見られたかな?どうも僕はフローラからすっかり嫌われてしまったね……」
ヒルルンデは艶やかな身体をするんと僕の頬に擦り付けるとやれやれと言うように『みゃーお』と鳴いた。
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夕食の時間になってもフローラはダイニングに来なかった。呼びに行ったマイヤに何処にも見当たらないのだと言われ直ぐに自分でも屋敷を探したがフローラは居ない。リジーやメアリが出掛けた様子は無いのにと不安そうに話すのを聞いた僕の脳裏を何度目かの時に誰にも告げずに屋敷を抜け出し暴れ馬にはねられたあの出来事が過り、冷や汗がツーっと背中を流れるのを感じた。ひょっとして、今度のフローラも一人で飛び出して行ったのか?追いかけなければと走り出そうとした時だった。
「旦那様、庭園です、庭園にいらっしゃいます!」
廊下から聞こえたマイヤの悲鳴のような声を耳にした僕は夜の庭園にに飛び出した。少し前から降り出した冷たい雨は本降りになっている。まさかと思いながら辺りを見回すと、スモモの木の側に置かれたガーデンテーブルに突っ伏しているずぶ濡れのフローラが目に入った。
「フローラ!!」
肩を揺すったが返事は無く、腕がテーブルからだらんとぶら下がる。
僕が巻き戻るたびに何度も目にしたその光景に、身体中の血液が一瞬で凍り付いた。
だがその時、掌が捉えたフローラの小刻みな震えに、僕は悪夢から目覚めたように心が解け勢い良く血が巡って行くのを感じた。
「フローラ、どうした?!」
抱きかかえたフローラは荒く苦しげな呼吸を繰り返すだけだ。それでもまだフローラは僕の腕の中で生きている。僕は思わず雨が降り注ぐ夜空を見上げた。
「とにかく中にお連れください。早く!」
追いかけてきたマイヤに言われ、僕はフローラを抱き上げて走り出した。
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僕には何も言わなかったけれど、ここ数日フローラは喉の痛みの為に食欲が落ちていたらしい。丁度仕事が忙しかった僕は連日帰りが遅くなり、夕食を共にしてはいなかったので気が付かなかったのだ。
『お前、すぐに喉を腫らすんだから』と言ったジェレミアの言葉が今更ながら耳の奥で繰り返し聞こえてくる。医師が呼ばれ薬が処方されたけれど、フローラの容態は良くなるどころか悪化し遂には肺炎を起こして医師の表情を厳しいものに変えていた。
「ラベンダーは……危ないわ……」
ベッドの横でうつらうつらしていた僕は慌ててフローラの手を取った。目を覚ましたのかと思ったがフローラの瞳はぼんやりして僕を見てはいない。高熱のせいでかなり朦朧としているようだった。
「ラベンダーは…処分して……危ないのよ……お母様は…知らなかったんだわ……だから……」
口を閉ざしたフローラは言葉の代わりにボロボロと涙を溢し声を上げて泣いている。僕はフローラを抱き起こし熱で火照った背中を繰り返し撫でた。
「ラベンダーは捨てた。もう大丈夫だよ」
「お茶もポプリも……駄目よ。……それから…香油に……気を付けて……危ない…とっても危ないの……」
たどたどしく、けれど必死に言葉を紡ぐフローラは涙を流すだけではなく何時しかしゃくり上げながら僕にしがみついていたが、やがて大丈夫だと繰り返す僕のシャツを握り締めたまま眠りに落ちて行った。
「まぁ、どうなさいました?」
身体を拭きに来たマイヤが驚いて目を丸くしている。
「どうも夢を見て魘されたようだ。今眠ったばかりだから後でも良いかな?」
「えぇ、そういたしますわね」
「そうだ……ちょっと聞きたいんだが」
マイヤは何事かと不思議そうに僕を見ている。僕はフローラがすうすうと寝息を立てるのを確かめてからマイヤに尋ねた。
「ラベンダーが危険だなんて話、聞いたことはある?」
「ラベンダーって、ハーブの事ですか?」
「そうだろうな。お茶もポプリも駄目、それから香油がとっても危ないって」
マイヤは何かにピンと来たようで大きく頷いた。
「妊娠初期は避けた方が良いとされているようです。子が流れる原因になるとかで。ですが余程大量に使わない限り影響は無いという説もあるみたいですわ。まぁそれでも避けるに越したことはないのでしょうが」
マイヤは相変わらず僕にしがみついたまま眠るフローラに視線を移し思い返すように人差し指を顎先に当てた。
「そう言えば奥様はラベンダーがお好きではありませんわね」
「そうなのか?」
「えぇ、こちらにいらした時に用意してあったラベンダーの香油やポプリを全部処分するように頼まれましたから」
それだけ言うとマイヤは頭を下げて出ていった。
お母様は知らなかった……フローラはそう言ってまるで小さな子どもに戻ったように泣いていた。
「フローラ、君は一体何に苦しんでいるんだ?」
僕の呟きに答える事なくフローラはすやすやと眠り続けた。