僕は何も考えられなくなった
「駄目だ」
反対されるなんて思っても見なかったのか、ヒルルンデを抱き上げようとしたフローラはそのまま動きを止め見開いた目だけを僕に向けた。
「……ほら、フローラはちょっと頑張り過ぎだと思うよ。両親が隠居するのなんてまだまだずっと先なんだ。今から根を詰めなくても良いだろう?」
「頑張り過ぎなんてことはないけれど?」
「まだ結婚したばかりなんだ。領地のことはそのうちゆっくり取り組んでいけば良い。父上達だってそのつもりだったんだし……」
ヒルルンデが何しているんだとみゃーと鳴いて催促している。フローラはごめんねと言いながらヒルルンデを抱き上げ頬をくっつけて目を細めた。
「私もどうしてもと言う訳じゃないのよ。ただここで任された仕事は皆が協力してくれるから順調でしょう?特に断る理由はないと思っただけで……だからそんなに怖い顔なんてしないで」
フローラに言われた通り僕の顔は強張っていたんだろう。膝で顔を洗っていたガルトートがさっさと逃げて行き自分も抱き上げろとはかりにフローラのスカートに纏わりついている。
「ごめん、怒ってなんかいないんだよ……」
両手で仔猫達を抱いてソファに座ったフローラは優しい手つきで喉をくすぐりながら『そう?』と興味なさげに言った。フローラは僕の反対に驚いただけで気分を損ねたのではないみたいだ。隣に腰掛ける僕にはお構いなしだけどそれはいつもの事でフローラの横顔は穏やかだ。
「領地に行ったら両親はきっと一月はフローラを返してくれないと思う」
「まぁそうでしょうね。先ずはあちこち視察に回ることになるでしょうし」
「僕はフローラと離れたくないんだ」
フローラの肩に額を乗せるとフローラはピクリと身体を竦ませた。それに驚いて仔猫達は膝から跳び下りて走って行き、部屋の隅に置かれたかごにすぽんと入った。
僕は直ぐに身体を起こしたけれど、フローラは何かじっと考えるように俯いている。
「それなら……そのままお義父様に手紙で伝えたら良いわ。きっと私が行くよりも喜ばれるでしょうから」
「どういうこと?」
フローラは顔をあげるとストンと座り直して僕から距離を取った。
「手元から離したくないほど仲が良いなら敢えて離すこともないって思うでしょう?今は何より早く孫の顔が見たいはずだもの」
フローラはただひたすら無表情だった。フローラは僕を責めてはいない。怒っても悲しんでもいない、良好な夫婦仲が孫を欲しがる両親を満足させる言い訳には最適だという事実を共犯者として淡々と語っているだけだ。
今度もまた僕はフローラを蔑ろにしようとし、今度のフローラは自らも僕を拒絶した。僕達の関係は歪んでいる。それなのに僕はフローラに愛情を注ぎ、受け止められないフローラはそれを溢し続けている。もしかしたらフローラはそんな不自然な関係に疲れているのかも知れない。
「マックス……貴方好きな人はいないの?」
夫に向けたとは思えないくらいに突拍子も無い質問をしながら、フローラにはなんの戸惑いもなかった。趣味は何だとか乗物酔いはしやすいかとか、或いはもう食事は済ませたのかとかいうどうでも良い質問のようにあっさりと。
僕は激しく暴れ回る心臓のせいで掻きむしりたいくらい胸が苦しいというのに。
「マックスもそろそろこの先のことを考えた方が良いんじゃない?お飾りの私にはできない事もあるもの」
フローラは胸を突かれたように言葉を失い愕然としている僕をなだめるように『平気よ?』と言った。
「私、愛なんて求めていない。私には愛なんて必要ないの。あんなものどうでも良いし尊いとも素晴らしいとも思わない。むしろ恐ろしいと思うわ。だから私は平気。でもマックスはそうじゃ無いでしょう?私は愛を欲しがる誰かを頭ごなしに否定したりしないわ」
「何があった?」
思わず鋭い口調になったがフローラは怯むことなく僕を見ている。
「別に?初めから何も変わっていないわ。結婚式の夜、マックスは私を拒んだし私もマックスを拒否した。あの時にそう決めたはずよ」
僕は黙って唇を噛んだ。あの夜僕は今までと同じようにフローラを虐げようとしていた。フローラの言う通りだ。僕に言い返す言葉なんてなにもない。それなのに僕の唇は何かに取り憑かれたかのように勝手に言葉を紡ぎだした。
「それでも僕にはフローラしかいない、フローラしか愛せない。今の僕には……それしか言えない。でもフローラへの想いを封じ込めるのは無理なんだ」
フローラは不機嫌そうに眉をしかめて首を傾げている。
「意味が判らない……どうしてそんなことを言うの?どうして私を振り回そうとするの?」
フローラの声は静かで落ち着いていた。けれどもそれは本気で怒っていたせいだ。すくっと立ち上がり僕を見下ろしたフローラの表情は声と同じように静かで凪いでいるけれど、青磁色の瞳だけが僕への苛立ちで火花を散らすような輝きを放っていた。
美しかった。堪らなく愛しかった。そして何も考えられなくなった僕はフローラの手首を掴みグッと引き寄せた。