私、わからないのです
「そうだ。でもな、母上にとってはヘンリエッタが生まれたのは大切な親友が夫から看取られる事なく死んだ日だ。憎い仇とすら思っていたホルトン夫妻と付き合うのを決めたのは、残されたお前のことが気掛かりでならなかったからだ。できることならお前を引き取りたいとすら願った母上に、夫妻は婿養子の話を持ち掛けた。『そうなれば娘も同然でしょう』って。確かにな、俺にとって義理の姉になるなら娘も同然と言えなくもない。でもアークライトは当然相手はお前だとしか思わないだろう?」
ジェレミアのお母様、ライラおばさまは亡くなった私の母の親友で、娘のいないご夫婦は私をとても可愛がって下さった。それなのにそんな方達にあの二人は何ということをしたのだ。永きに渡って騙し続けたのだもの、アークライト家の受けた衝撃はどれだけ大きかっただろうか。
「俺の両親は俺がホルトン家の家督を継ぐのが狙いだった訳じゃない。相手がお前だと信じていたから結婚させたいと考えたんだ。それに俺だってそうだ。お前だから、お前を守りたいから結婚したいと思っていた。ヘンリエッタとなんて冗談じゃない」
あー、ジェレミアもお兄様も子どもの頃からヘンリエッタの事が苦手ではあったけど。冗談じゃないって言い切るくらいだもの、今でもそれは変わらないんだろう。
「でもあの子はまだ15だし……成人する頃にはもう少しは……」
「まともになるか?あのヘンリエッタが?益々酷くなる一方らしいじゃないか!」
私は何も言い返せなかった。あんなに甘やかされて育ったのだ、我儘になるのは当たり前だ。世の中何でも自分の思い通りになると勘違いもするだろう。
「両親だってお前のいないホルトン家と付き合うつもりなんかさらさらない。だから白紙にと言ったらぽかんとしていたそうだ。あいつらには侯爵になれるチャンスをみすみす手放すなんて信じられない愚行なんだろうな」
「ごめんなさい。本当に申し訳なく思うわ」
俯いた私の頭にジェレミアの大きな手がぽすっと乗せられた。
「お前が謝る事じゃないだろう?」
「でも……両親がしたことでアークライト家に大変なご迷惑をお掛けしてしまったわ。おじさまやおばさまにはあんなに可愛がって頂いたのに」
「あのなぁローレ、お前、いつになったらあの家から自由になれるんだ?」
ジェレミアは私の頭に乗せた手をぽんぽんと弾ませてからそっと下ろしそのまま頬に添えた。
「もう良いだろう?家の為に愛してもいない男と結婚までさせられて……それでもまだあいつらに縛られて生きていくのか?」
「私……わからないのよ。だって、他の生き方を知らないんだもの……私は家の利益を生む雌鳥なの。私にはそれ以外の価値なんて無いのよ」
何故か急にジェレミアの手の温もりからじわじわとした痛みが生まれた。咄嗟に身を引いた私をジェレミアは哀しげな瞳で見つめている。宙ぶらりんになった手に視線を移しそれからもう一度私に戻したジェレミアは強ばった顔をしていた。
「ローレは……好きなのか?」「誰が?」
被せるように聞き返した私にジェレミアはあんぐりと口を開けた。
「誰がってローレの夫になった奴だろうが!」
「あぁ。……別に?」
『別にって……』とブツブツ言いながらジェレミアは髪をガシガシと掻き乱した。
「じぁ、そいつはローレを愛してくれているのか?」
「さぁ?」
『今度はさぁ?かよっ』と忌々しそうに言ってジェレミアは一層髪をぐちゃぐちゃにした。それでも撫で付ければ元通りになるんだもの、男性って便利よね。
「何か言われて無いのか?愛してるとか好きだとか綺麗だとか可愛いとか?」
「その辺りの一連の語句は全部言われてるわよ。もう耳にタコができちゃうくらい。でも夫の胸の内は夫にしかわからないもの、私には何とも言えないわ。そんなに知りたきゃ本人に聞いて頂いても構わないけれど、ジェレミアだって夫の心を読むことなんてできないんだから同じことよ。止めはしないけど?」
今マックスが何を思っているか、結婚式の夜何を思っていたのか、どちらも私にはわからない。甘い言葉を躊躇無く吐き出しているマックスは、あの夜確かに今までのマックスと同じように残酷な宣言をするつもりだったのだから。でもそんなことはもうどうでも良い、愛されるなんて期待は初めからしていないのだ。ホルトン家の娘として家のためにと足枷を嵌められたように生きてきたのだから、もう虐げられるのには耐えたくないと思っているだけ。
「でも毎日が楽しいの。沢山笑ってる、本当よ。だから私は十分満足しているわ」
「楽しい……ね。ローレが満足だって言うなら良いけど」
良いけどと言いつつジェレミアは不満そうに顔を歪めた。
「ついでに聞くけど、俺はどうだ?」
「どうって何が?」
「好きかどうかだろうが!」
「随分ついで過ぎない?何でそんなこと聞くのよ?」
チッと舌打ちして『いいから返事しろ!』と小声で催促したジェレミアはまた私の頬に硬い掌を当てながら口を開いた。
「ローレは俺が好きか?」
「えぇ、ジェレミアが好きよ?」
何を言わせるんだかと呆れる私に今度は耳に顔を近付けて『じゃあ兄貴はどうだ?』とさっきよりも更に小さな声で囁いた。
「大好きよ」
時々張り合ってきたり意地悪したりする二つ上のジェレミアと違って、私とは八歳も離れているバーナードお兄様は私を妹のように可愛がってくれたし小さなレディとして丁寧に扱ってくれた。当然評価はジェレミアよりもずっと上だ。
そんな意味不明な質問をしておきながらジェレミアはいきなり背を向けぼんやりと灯りの点る庭園に視線を落とし突き放すような冷たい声で言った。
「風が冷たくなってきたな。もう戻った方が良い、お前すぐ喉を腫らすんだから」
「……そうね、そうするわ」
私はバルコニーから廊下に戻り掛けたがくるりと振り向いた。背中を向けたままのジェレミアはそれに気がついたのか早く行けとばかりに手をひらひらと振っている。それでも私は足を止めジェレミアの肩を落とすように丸められた背中を見つめた。
「……謝って赦されることではないけれど、本当にごめんなさい。それから……今までありがとう。じぁね」
目が霞んでよく見えなかったけれど、ジェレミアの背中は微かに震えているように見えた。