私、ゼーハーしています
「ジェレミア!」
やっとの思いで声を掛けるとジェレミアはピタリと立ち止まり訝しげに振り向いた。
「ローレ、どうしたんだ?そんなに息を切らせて!」
そう言うけれど背の高い男性を、しかも日々鍛練を欠かさない近衛騎士の男性を追い掛けたのだもの、ゼーハーするのは不可抗力だ。
立ち止まったら余計に呼吸が苦しくなる。走って追いかけた方が楽だった気がするけれどそれはできないし、……なんてぼんやり考えていたら目の前が暗くなってふわっと身体が揺らいだ。
「ローレ!大丈夫か?」
「……ごめんね、平気。多分酸欠だわ」
「全くお前は……外の空気を吸った方が良い、歩けるか?」
がっちりと肩を掴んで捕獲されていた私は背筋をしゃんと伸ばして見せた。ジェレミアは黙って私の肩から手を離し今度はゆっくりとバルコニーを目指して歩き出した。
「珍しいのね、夜会に来るなんて」
「あぁ、兄上の名代だよ。悪阻で臥せっている義姉上についていたいからってな」
「えっ、じゃあバーナードお兄様はお父様になるのね!」
「そういうこと」
ジェレミアは嬉しそうににんまりした。バーナードお兄様が結婚したのは確か3年程前だったから、ジェレミアにとっても待ちに待った甥っ子か姪っ子なのだろう。
「おめでとうございますとお伝えしてね。それからどうぞご自愛下さいって」
『あぁ』とぶっきらぼうに返事をしたジェレミアはそれきり何も言わずに私を見下ろしていたが、手持ち無沙汰に掌に出来たマメを撫で始めた。私とジェレミアが最後に会ったのは、騎士団に入り屋敷を離れた彼が初めての休暇で戻って来た日だった。あの時ジェレミアの手は皮が剥けあちこち血が滲んで痛々しかったのに、今はもう硬いマメで覆われ逞しい騎士のそれになっていた。
「それで、お前はどうなんだ?幸せになれたのか?」
何だかやたらと言い辛そうにジェレミアは口籠りながらそう言った。
ーーつまり我々は形骸化した夫婦で私がお飾りの妻だって見抜かれているのよね?じゃないと新婚さんにそんな事聞かないよ!
慌てた私はわざとらしいほどにっこりと笑い幸せな若奥様です、という雰囲気を醸し出そうと試みた。
「えっと、毎日楽しいわ。充実した楽しい毎日なのよ」
嘘じゃない。嫁いで来てからの毎日は本当に楽しくて充実している。但し幸せな結婚という意味ではハイそうですとは言えないのが辛いところだ。何しろ私はお飾りの妻なので、胸を張って幸せになりました!と答えるのはちょっと後ろめたいのよね。
「楽しい、ね。まぁ取りあえず元気そうだな」
ジェレミアは掌を眺めまたマメを撫で始めた。
「あのねジェレミア……両親がヘンリエッタの婿探しをしているってそう聞いたんだけれど……本当なの?」
「さあな?それについては知らない。でもローレが心配しているのはお前の両親が俺を婿養子にするって話を一方的に反故にしたんじゃないかって、そういう事だろう?安心しろ、断ったのはアークライト側だ。お前が婚約した直後にな」
私はほっと胸を撫で下ろした。口約束だし正式な婚約はしていなかったものの、いずれアークライト侯爵家の次男であるジェレミアをホルトン侯爵家の婿として迎えるというのは暗黙の了解だったはずなのに。それが無かった事になったのは私の婚姻でロートレッセ公爵家にコネの出来た両親がもっと条件の良い縁談を狙ってジェレミアを切り捨てたのではないか?あの二人なら平気でやりかねないが、それではジェレミアはどんなに傷ついただろうかと心配していたのだ。
「でも……どうして急に?」
「あのなぁ」
ジェレミアは呆れたように大きなため息ついてから眉尻を下げて私の顔を覗き込んだ。
「お前、何も気が付いていなかったのか?違和感とか話が噛み合わない感じとか、何も無かったのか?」
違和感て何?と首を傾げるとジェレミアは顔をしかめながら私の頬に手を当てて真っ直ぐに立て直してから咳払いをした。
「アークライト家はお前の両親にまんまと騙されていたんだよ。だってそうだろう?長女のお前を嫁に出して妹に婿養子を取ろうとしているなんて誰が思う?端からそのつもりだったくせにひと言もそんな事は聞かされていなかったんだから。それがどうだ、いつの間にかお前は婚約していてどういう事かと尋ねたら、どういう事もなにも初めからホルトン侯爵家を継ぐのはヘンリエッタとその婿だと決めておりましたからと、悪びれもせずにそう言ったんだ」
せっかく立て直して貰ったけれど、私はもう一度首を傾げた。だって両親はずっと前からそう考えていたのだ。溺愛するヘンリエッタを手元に残し、私は侯爵家にとって利益をもたらす家に嫁に出すって。
「お前にこんなこと言うのもどうかとは思うが、ホルトン夫妻は実に巧妙だったんだよ。上手いこと相手はお前だと思い込ませながら決して明言はしない。それでアークライトはまんまと騙された。真実を知った母上はショックで十日も寝込んだが、それは騙されたのが悔しかっただけじゃない。俺がヘンリエッタと結婚するなんて有り得ないだろう?ヘンリエッタが生まれた日、ロレッタおばさまに何があった?」
「でも、少なくともそれはヘンリエッタには関係ないことよ」
ジェレミアはもう一度手元に目をやりぐっと拳を握りしめた。