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巻き戻り妻は堪忍袋の緒が切れた もう我慢の限界です  作者: 碧りいな
僕は何度も君を失った
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僕は彼女を失った

流産に関する生々しい表現がありますのでご注意下さい


 あの日の朝……。


 「寝ても寝ても寝足りなくて困るわ。大袈裟じゃなくて本当に一日中眠っているのに」


 僕はしかめっ面で呆れるように言いながら、それでも抗えない眠気に勝てず欠伸を噛み殺している彼女の髪を撫でた。


 「気にせずに眠った方がいい。この先悪阻が酷くなると気分が悪くて眠れないこともあるそうだよ。赤ん坊が大きくなればお腹が苦しくて眠れないし、それに生まれたら昼夜なしに乳を飲ませるんだろう?こうやってゆっくり休めるのも今のうちらしいからね」

 「まぁ、随分と勉強熱心なのね」


 僕は嬉しそうに目を細めて微笑む彼女の額にキスをして、彼女はいってらっしゃいませと見送ってくれる。そんないつも通りの朝。僕の乗る馬車が門を出るまで手を振っていた彼女は眠くなったと寝室に行ったそうだ。『世界で一番優しい旦那様と結婚できたなんて、私は幸せね』とマイヤに言いながら。


 一時間ほどして様子を見に行ったマイヤはドアを開けるなり異変を感じてベッドに駆け寄った。血塗れで身を捩りガタガタと震える彼女を目の当たりにしたマイヤは転がるように寝室を飛び出し助けを呼んだ。直ぐに医者が駆けつけ処置をされたものの、既に手の施しようが無い状態だったそうだ。


 「特にこれという原因は無くとも妊娠初期に御子が流れる事は珍しくはございません。しかし奥様はその際に大出血を起こしてしまわれたのです。何が悪かった訳ではない、言うなれば運が悪かったのです」


 医者からそんな説明をされている僕が見下ろしている彼女は客間のベッドに横たわっていた。


 「フローレンス、嘘だろう?君は眠っているんだよね?」


 ふんわりとしている可愛らしい頬に手を伸ばした僕は、痛みすら感じるほどの冷たさに彼女がもうこの世の者ではなくなってしまった事を急激に思い知らされた。


 僕は客間を飛び出し寝室に駆け込み、追ってきたマイヤを振り払って部屋の奥に進みベッドの前で足を止めた。


 いや違う。痛みのあまり助けすら呼べずに悶え苦しんでいた彼女が流した血液でじっとりと赤黒く染まったベッドを見て、僕は動けなくなったんだ。


 僕は崩れ落ちるように踞った。彼女は僕の宝物だった、希望だった、光だった。僕の全てだった。可愛らしい笑顔も目を丸くして驚く顔も、眉間を寄せて考え込む顔も唇を尖らせて拗ねる顔さえも愛しくて堪らなかった。そんな彼女を僕は永遠に失ってしまったんだ。


 僕の心はただひたすらに空っぽで痛みも苦しみも悲しさも寂しさもなく、大きな大きな暗闇だけが広がっていた。




 彼女の葬儀はあの聖堂で執り行われた。光輝くように美しい花嫁だった彼女が一年も経たずに変わり果てた姿になってしまうなんてと誰もが涙を流し、そしてすっかり窶れ虚ろな瞳をさ迷わせる僕に憐れみの視線を送っていた。


 

 『リーンドーン……リンドーン……』


 あの日と同じ鐘の音が鳴り響く。祝福の音色だったあの鐘の音が、今は憐憫の音色となって胸に染み込んでくる。僕は足元をふらつかせながらドアを開け、陽の光の眩しさに顔をしかめ目を閉じた。




 ∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗


 ゆっくりと目を開けた僕の視界には色とりどりの花弁が舞い散っていた。


 「っ…………!?」


 何が何だか解らず息を飲む僕の顔をにっこりと微笑む彼女が覗き込んでいる。ウエディングドレスを纏う彼女はあの日と同じように神々しいほどに美しい。


 僕は思わず空を見上げた。そこに広がっていたのは抜けるような初夏の青空だ。


 僕の背中をツーっと冷や汗が流れ落ちた。


 ーーこんなに長い幻覚をみるなんて、疲れていたのか?


 長い長い夢を見ていたつもりでも一瞬に過ぎないと聞いたことがある。休みに備える為にかなり無理をしてしまったのだ。きっとボーッとしたせいでこんな物を見てしまったのだろう。


 僕はようやく安堵して深く息を吐き出した。そうだ、現実の僕は幸せなんだ。そしてこれからもっと幸せになるんだ。


 僕はふるりと首を振り彼女に微笑み掛けた。僕を見上げた彼女も優し気な笑顔を浮かべている。そして僕らは舞い散る花弁の中を手を取り合って歩き出した。



 あんなに生々しい幻覚だったのに、幸せな僕はそれきり気に留めることもせずにいた。むしろ早く忘れてしまおうと記憶の奥底に埋めてしまったのかも知れない。そして季節は秋から冬になり、やがて春の訪れを感じるようになっていた。


 「フローレンスは?」


 帰宅するといつも出迎えてくれる彼女がいない。どうしたのかと聞かれたマイヤは不安そうに顔を曇らせた。


 「急に胃の調子が悪くなったと申されて、先にお休みになられました」


 僕は一瞬で身体中の血液が凍ってしまったかのように冷え切ったのを感じた。


 あの時もこんな春の気配を感じ始めた頃だった。まさか、まさかそんな事が……。


 息苦しさに痺れる手で寝室のドアを開ける。眠っていた彼女は気配を感じたのか目を開けた。


 「ごめんなさいね。昼間乗った馬車で酔ったのかしら?急にムカムカしてきて……それからずっと気持ちが悪いの」

 「…………」


 僕は胸を抉られるような激しい動悸と共に目の前が真っ暗になった。


 

 


 



 




 


 


 


 

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