あの日僕は世界一幸せだった
『リーンドーン……リンドーン……』
式を終え鐘の音に送り出されるように聖堂のドアから外に出た僕らの頭上には、抜けるような初夏の青空が広がっていた。輝くようなその眩しい空の青さに僕らは目を眩ませ、そして見つめ合い微笑み合った。
外には参列者達が待ち構え僕らが姿を見せると色とりどりの祝福の花びらを舞い散らせている。
「ねぇ、知っていて?ここにあるのは全部エクラの木なのよ」
彼女は聖堂を囲むように植えられた青々と葉を茂らせる木々を見上げた。エクラは春の訪れを告げる花だ。冬の寒さが緩み柔らかな春の日差しに変わった頃薄紅色の花を一斉に綻ばせ一週間ほどで満開を迎える。そして今のこの姿とは違い豊かに広げた枝を花で覆い尽くし、花の盛りと共に美しい花吹雪となって散って行く。
僕も辺りを見回した。
「凄いな、ここ一面エクラの花で埋め尽くされるのか!そうだ、春になったら二人でエクラの花を見に来よう!」
「えぇ、約束よ?」
彼女は僕を見上げて嬉しそうに笑った。
僕らは幸福だった。
結婚を期に両親は領地に移り、僕らは屋敷で二人だけの暮らしをスタートさせた。時には小さな喧嘩もしたけれど僕らは仲睦まじく暮らしていた。
季節は秋から冬へと移り、小さな春の気配を感じるようになったある日、僕は侍女のマイヤから彼女の体調不良を知らされた。
「急に胃の調子が悪くなったと申されて、先にお休みになられました」
「どうしたんだ?朝は普通に食事が出来ていたのに……」
心配になり様子を見に行くと気配を感じたのか眠っていた彼女が目を開けた。
「ごめんなさいね。昼間乗った馬車で酔ったのかしら?急にムカムカしてきて……それからずっと気持ちが悪いの」
「乗り物酔い?一度もそんな事は無かったのに?」
僕は不安を覚えながらそっと彼女の髪を撫でた。
次の日もその次の日も彼女の体調は戻らず医者の診察を受けると僕は直ぐに呼び出された。
「奥様はご懐妊なさっておいでです」
医者の言葉がどうにも腑に落ちなくて僕は尋ねた。
「でも先生、妻は馬車に乗っていたら突然気分が悪くなったと言って寝込んでしまったんです。こういう体調の変化はそのように突然始まったりするのですか?」
医者はカラカラと笑い首を振る。
「ご安心なさい。奥様のようにある日突然悪阻が始まるという場合も珍しくはないのですよ」
なるほどと頷いた僕はふとある事に気が付き暫し思考を止めた。と言うよりも頭の中が真っ白になってしまったのだ。そして身体の動きを封じられたかのように瞬きもせず医者の顔をじっと見つめた。
「懐妊……?悪阻……?」
医者は何を今更というような怪訝な顔で僕を見返している。
「おめでとうございます。旦那様はお父様になられるのですよ」
笑いを堪えながらマイヤに言われた僕は、弾かれたように慌てふためいて彼女の元に走った。
積み重ねたクッションに背中を預けた彼女は青白い顔を僕に向けた。
「どうしたの?そんなに慌てて」
僕は彼女をふんわりと抱いて額にキスをした。
「さっきまで僕は世界で一番幸福だと思っていたんだ。でも僕は大馬鹿者だった。世界一の幸せ者は今の僕だ。フローレンス、ありがとう。本当にありがとう」
僕は涙を浮かべながら彼女の手を取り頬を寄せ、彼女はそんな僕を楽しそうに見つめていた。
「貴方がそんなに喜んでくださるなんて意外だったわ。赤ちゃんが欲しいなんて、これまで一言も仰らなかったのに」
「いや、まだ結婚したばかりだし直ぐにとは思っていなかったんだ。いずれそんな日が来ればとしか……でもフローレンス、僕はどうしょうもない程嬉しいんだ。嬉しくてたまらないんだよ」
彼女はクックと喉を鳴らして笑った。
「私も嬉しいわ。大好きな貴方と私の赤ちゃんですもの」
さらりと言った彼女の言に僕は再び僕は何か言わなければと思ったけれど何の言葉も口に出来ず、ただ口を開け目を見開いていた。
「大好き……だって?」
どうにか振り絞るように声を上げると彼女はケラケラと笑った。
「変な人ね、そんなに驚くなんて。今まで気が付かなかったの?」
僕は身体の震えを抑えることができなかった。世界一幸せなのは今の僕だ。今までの何倍も何十倍も、いや、何百倍も。
彼女の白い手の甲を僕の涙が濡らしていく。彼女は僕の肩に頭をもたせ掛け小さく笑った。『困ったお父様ね』とまだ平らなお腹に手を当てながら。
やがて世界で一番幸せな僕の元にもっともっと大きな幸せがやってくる。そして僕らは世界で一番幸せな家族になるんだと、僕は疑いの一欠片すら抱くことなく信じていた。
だからそれが幻のように消え去ってしまった時、僕はただ呆然と立ち尽くした。泣くことも彼女の手を取ることも抱きしめる事もできずに、透き通るような青白い頬をした彼女を黙って見下ろしていた。
だって、ほんの数時間前にいつもと同じようにいってらっしゃいませと笑顔で送り出してくれた彼女が、二度と目を覚まさないなんてどうしても信じられなかったから。
それは僕が彼女の手を幸せの涙で濡らした日から僅か十日目の事だった。