新しい私の暮らし
『グェっ?』っという不思議な返事をしたマイヤはパチパチパチと瞬きをしてから声を小さくした。
「お疲れなのは旦那様なのですか?『フローレンスには客間を使わせる』ってあんなにいやーな感じに仰ったのに?」
「マイヤ、あなたって旦那様のモノマネがホントに上手ね!」
褒められたマイヤは嬉しそうに破顔したが直ぐにふるふると首を振って真面目な表情に戻した。
「ではあのクッションは何らかの補助としてご用意なさったのですね。それならば何よりでした」
「補助?」
「ほら、角度を変える……ですとか色んな事にお使いになるのでしょう?旦那様を足腰立たない程疲れされるなんて、きっと奥様はそりゃもう素晴らしい技術をお持ちなのですねぇ。それならば安心ですわ。もう旦那様は奥様の虜、メロメロに違いありません!」
マイヤは何かしらのとんでもない勘違いをして浮かれているみたいだけど、このままそっとしておこうと思う。今までのマイヤは私を客間に案内しながらいつもいつも泣いていたんだもの。
昨夜湯浴みの手伝いを断った事で初めてマイヤ達が何を思っていたのかが解った。私達の円満な結婚生活の為にあんなに張り切ってくれていたのに寝室を追い出されるなんて、マイヤは毎回どんなにいたたまれない気持ちだっただろう。今のマイヤはなんかこう……物凄く満足そうだし嬉しそうだ。これ思ってたのと違う……なんて言いながら、夕べの耳年増三人娘でヒソヒソと親指を立て合うんだろうな。まぁ良いわ。たとえ勘違いだとしても喜んで頂けるなら光栄ですもの。
私はダイニングでのんびりと一人の朝食を楽しんだ。同じ一人の食事でも客間に追い立てられる訳じゃ無いだけでこんなに気分が良いなんてびっくりだ。だって私を虐げていたマクシミリアンは衣食住に関しては満たしてくれていたから出てくるものは同じ。こんなに美味しいのに気分が鬱いでいた為に食欲が無く残してばかりで、料理人達には申し訳ないことをしたものだ。
「お口に合いましたか?」
食後のお茶を頂いているところに料理長のアーサーが挨拶に来た。初期の私は昼過ぎまで寝室に籠っていたし、その後は客間に追放されてここで食事をしたことなんてなかったから挨拶を受けるなんて初めて。私がにこにこしながら美味しかったと答えるとアーサーも嬉しそうに笑った。
「それはよろしゅうございました。夕食のデザートはタルトにしようと思いますが、果物は何を使いましょうか?」
「庭園にスモモの木があるでしょう?丁度食べ頃じゃないかしら?」
アーサーは顎に手を当てしばらく思案してから表情を和らげて頷いた。
「あれはそのまま食べるには些か酸味が強いのですが、確かにタルトには丁度良いかも知れませんね。普段は果実酒にしてしまうだけなのですよ。庭師に収穫するように頼んでおきましょう」
「私が行ってくるわ!」
はしゃいだ声を上げた私をアーサーは目尻を下げて見ている。『こりゃスモモが大好物なんだな』って思われているに違いない。
私はダイニングを後にして自分の部屋に戻りモスグリーンの綿のワンピースに着替えた。襟回りにレースがついているだけのシンプルなデザインだけれど、スカートはたっぷりとしたフレアーで丈も少し短め。これなら足捌きもしやすいはずだ。
大きな麦わら帽子を被り庭に出ると作業中の庭師に声を掛ける。そして話を聞いた親方以下三人の庭師達は目を点にしていた。
「……奥様がスモモをお採りになられるんで?奥様、スモモは梯子に登らないと取れねぇですが……」
「えぇ、だから動きやすい服に着替えて来たわ。梯子ったって、スモモの木の高さなんてたかが知れてるじゃない。もみの木のてっぺんにお星様を付けにいく訳じゃないもの、大丈夫よ」
庭師達は不安そうに顔を見合わせ首を振ったが、構わずに梯子を登り始めた私を見てこれならイケる!と確信したらしい。職人だもの、一目見ただけで能力の有無を見抜き私はデキるコと分類されたみたいだ。黙って少し離れた所まで下がり、あっちにあるとかその枝のが赤いとか指示を出し始めたので、私は夢中になってスモモを摘み取っていった。
楽しい!凄く楽しいじゃない!自由ってこんなに楽しいのね!
物心付いた頃から貴族の品格貴族の品格、品格品格品格品格……。淑女らしく貴婦人らしくってそればっかりを求められていた私はちっちゃな型に押し込められたような人間で、そこからはみ出すのに大きな恐怖心を持っていた。だから使用人と気安く言葉を交わした事なんて無かったし、ましてや指図をされながら一緒に作業なんてとんでもない。でも私の押し込められた胸の奥底には案外人懐こい一面があったのだと思う。こうして皆と和気藹々笑顔を交わしたいという気持ちが。
左手にぶら下げている籠はどんどん重たくなっていったが、私は夢中で右手を伸ばしスモモをもぎ取り至福の時間を楽しんでいたのに……。
熟したスモモが粗方無くなった頃突然後ろからお腹に回された腕をギュッと引かれ、思わず上げた『うぉっぷ!』という言葉にならない叫び声と共に至福の時間は終わりを告げた。