(1/2)何がなんでも結婚します。
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乳ぶおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き
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詠み手は与謝野晶子。歌集『みだれ髪』の一首だ。
鏑木紫陽は男の腕に閉じ込められて1人、その歌を思い出していた。
頭上で婚約者になったばかりの高橋是也が寝息をたてている。髪の毛が布団に落ちて、呼吸のたびに影が揺れた。
彼の頬に右手で触れる。もう5年も好きな人。近い将来に夫になる人。
「先生。ありがとう」
お礼を言った。気絶するように寝てしまったのは朝から緊張し通しだったからだ。そうは見えなかったが。
◇
「プロポーズするの人生で初めてだったんだ」
そう言ってタカハシはちょっと恥ずかしそうに笑った。昨日はほとんど眠れなかったのだという。
帰りの電車の中でだった。東京駅から在来線に乗り換える。
その日は長野の日帰り旅行で、彼女はタカハシからプロポーズをうけたのだった。
「私はプロポーズされるの2回目です!」紫陽が元気に答える。
タカハシ満面の苦笑い。
「サトルにはいつも先を越されるよ」
「でも『YES』と言うのは先生だけですよ!」
ふふ。「ありがとう」
5年前。高橋是也と鏑木紫陽は知り合った。片方は国語の教師で、片方は生徒。高校3年のときには担任だった。
20歳の誕生日に鏑木紫陽はタカハシの勤務先まで押しかけて『結婚を前提に交際しろ』と迫ったのである。
タカハシにニベもなく断られた。
彼女は執念深……じゃなかった『夢追い人』なのでそっからもう迫って! 迫って! 迫り倒して!!! プロポーズを勝ち取ったのである。夢を諦めてはいけないのだ。
◇
高橋是也は大変な男だった。
まず女生徒どもにつけられたあだ名が
『得体の知れない鬼太郎』
『スカした鬼太郎』
『友達のいないスナフキン』
なのであり「あんな得体の知れない男に嫁の来てなどあるわけがない。だから37まで独身」とボッッッロクソに陰口を叩かれていた。
つまり極端な秘密主義。極端に感情の振り幅が狭い。極端に孤高なのであった。
そのタカハシを振り向かせるのがどれ程難儀だったか!!!
語ろうと思えば原稿用紙286枚分ほどになるが今はその余白がない。
なんやかんやあって今日の午後。旅行先の長野でプロポーズをしてくれたのだ。
紫陽はプロポーズリングを電車の蛍光灯に反射させてニマニマした。
「なんで緊張なんかするんですか? 『結婚しません』なんて言うわけないじゃないですか! 4年ですよ! 4年! 片思い。そっから付き合うのに7ヶ月もかかって! さらに3ヶ月も抱いてもらえなくて! 今日が『初夜』なんですからね!!!」
「シーッ! カブラギッ 声が大きいよ!」とタカハシに超小声で叱られた。
電車内でよりにもよってよりにもよった内容をわりと大声で言ってしまった婚約者の口を塞いだ。
「ふみまふぇん」
紫陽は口を塞がれたまま謝った。純粋なのはいいのだがイチイチ突飛。ありていに言えば『何をするのかわからない女』なのである。時と場合を選ばないのである。
周囲を見渡すと男どもの嫉妬にイラついた視線が注がれていた。
無理もない。
鏑木紫陽ときたら清楚なイエローのワンピースに隠しきれない爆乳をボイーンとさせていた。走ると『ユサユサ』揺れるタイプのやつね。牧場で走ったら牛に間違われるね。
さらに大きくてきらめく黒い目。豊かな髪を2つ、お団子ヘアにしていた。
耳にはやはり薄黄色の花びら型ピアスをしている。
アイドルみたいに可愛い。
そんな子が! 今夜! このしょぼくれたオッサンと!?
しょぼくれているのは自分が一番わかってますぅ〜。
タカハシはギューッと目をつぶって明後日の方向に向いた。
殺伐とする車内。『早く乗り換え駅に着いてくれ』と祈るしかない。
◇
そんな紫陽だって緊張していたのだ。
交際経験が無いわけではないが、中学2年が最後。ボーリングとカラオケの『グループ交際』であった。せいぜいが土手で手を繋いでお散歩止まり。
高校の入学式で恋をして以来タカハシ一筋! プルップルのボディを誰にも触らせずにきたのだ。
そのボイーンのプルップルのムッチムチを今からタカハシにさらすわけで、いつも以上にはしゃいでいた。そうしないと気が遠くなりそうだった。
タカハシはあまり表情を動かさなかった。いつも通り静かで、静か過ぎて淋しいくらいで、どこか遠い人なのだった。
この人は夏目漱石の『こころ』に出てくる『先生』に似ている。
紫陽はつい数時間前に婚約した恋人の横顔を見つめた。
その日は4月2日で。暖かさと涼しさの真ん中にあるような日だった。電車の中も半袖と長袖が入り混じっている。
まだ春休み。電車は結構すいていた。並んで座ったものの両脇とも空いている。
ついさっきわかったのだが高橋是也は鏑木紫陽の隣の駅に住んでいた(判明するのに4年かかった!)自転車だと15分でお互いの家なのだという。どうして今まで会わなかったのか、紫陽は不思議でならない。
紫陽の自宅最寄駅についたときだ。
ギュッとタカハシに左手をつかまれた。前をむいたまま見たことない程真剣な目をしている。
タカハシの視線はたった今開いたばかりの電車のドアに注がれていた。
ーー降りないでーー
そう言っているのだ。
ーー降りませんよーー
返事の代わりにタカハシの手を握り返す。
◇
タカハシの家は駅から割と遠かった。25分くらい歩いた。思えばこの駅にほとんど降りたことがない。
紫陽の自宅最寄駅の真隣にはあるが、繁華街という訳でもない。電車でいつも素通りしてきたのであった。
『ここが高橋先生の生活圏内かぁ〜』
思わずキョロキョロしてしまう。
小さな商店街がこまごま続くだけの、わりとひっそりした駅前通りを抜けると、後は何回か道を曲がる。
住宅街を抜けると突然その家は現れた。
「ここ」タカハシに小さく指さされる。
『広そうだな〜』というのが第一印象だ。2階屋のある一戸建てで、玄関の前に車1台ほどの庭があった。
玄関は引き戸。『ガラガラ〜』と横にスライドさせて開ける。磨りガラスが木枠で6分割されていた。
かなり古い。
「先生ここ。何平米なんですか?」
「うん。100平米だよ」
広っ。
「建物が160平米(80平米×2階)。庭が20平米ある」
「ここに1人で住んでいるんですか!?」
「うん。生まれたときからいるね」
タカハシはもうすぐ38歳。建物も古いわけだ。
こんな家にたった1人で20年もいたのか。
タカハシは16の時に父親を、18のときに母親を亡くしていた。それからずっと1人。
広すぎて淋しいくらいだ。
「はいどうぞ」
荷物を隅に置くと台所に招かれた。4人がけのダイニングテーブルがシンクから30センチくらいのところに置かれている。
日本茶を出してくれた。紫陽は会釈してそれを受け取った。
ホカホカした湯気にお茶っ葉のいい香り。
長旅だったからなぁ。癒されるわ〜。
テーブルを挟んで温かいお茶を飲むと急に嬉しさが込み上げてくる。
◇
ここ! 私の家になるんだ!!
台所も古いけど、シンクの幅が広くて何でも置けそう。
タカハシにねだって食洗機を買ってもらおう。
新婚生活! これからタカハシと夫婦になるんだ!!
「先生っ。お部屋! 見てもいいですか!」
「どうぞ」タカハシにニッコリされる。
紫陽は探検気分で台所出てすぐの左のフスマを開けた。
寝室だ! すぐわかった。布団が敷いてあったからだ。
バーン!!!!!!!
音を立ててカブラギはフスマを閉めた。和室か。和室でタカハシは寝ているのか。恥ずかしさで気が遠くなりそう。
どうしてたたんでないんだ。もしかしてやる気満々なのか!
『見なかったこと』にして廊下右手のドアを開けた。
トイレだった〜〜。
その隣が『コの字』に空いていて洗面所や洗濯機が見えた。さらにお風呂場……。
見なかったことにした!!!!
恥ずかしい。恥ずかしい。近々にタカハシとお風呂に入っちゃったりするのかな〜〜〜。
キャー! キャー! キャァァァァァァ!!!
妄想を振り払って更に隣の部屋のドアを開けると衣装部屋のようだった。
ウォーキングクローゼットに服がたくさんかかっていて、大きな鏡がある。
ここで身支度してるのか〜〜〜。
何せタカハシ『あいつ学校1歩出たら何してるかわからない』と言われているのだ。謎の男なのだ。紫陽だけが急に『タカハシというナゾのパズル』を埋めている気分だった。
で。
更に廊下を進むと棒立ちになってしまった。
◇
そこは『リビングルーム』だった。3人がけのソファの横に1人用のソファがあって、そこそこ大きなテレビが置いてあった。
異様なのは壁面だ。
本……本……本。
壁一面に本棚が備え付けられていて(倒れないようにだろう突っ張り棒で天井に固定されていた)びっしり本が並べられていた。
本の前段に文庫本がさらに立てられている。間違いなく『数千冊』はある。
本棚。縁側に続くガラス窓。さらに本棚。
ポカーンと首を回した。なんだここ。図書館か?
「びっくりした?」
笑みを含んだ声がした。振り向くとタカハシが後ろに立っていた。
「……これ? 全部読んだんですか?」
「うん。読んだよ」
いやあ……ちょっと……紫陽も割と本を読む方ではあるけどちょっと……。
ソファ前のテーブルに図書館から借りたらしい本が3冊置いてある。
さらに借りているんかい!
「道楽でねぇ……。遊びに来る人みんなに驚かれちゃうんだよね……」
そら驚くわ。
◇
一瞬驚いた紫陽だが、次の瞬間爆発的な喜びが込み上げてきた!
ドーーーンと来た!!!
この何千冊の本。全部読んでいい。一生この図書館にいていい。
紫陽には夢があった。書店に泊まることだ。たまにそういうイベントがあるので応募するのだが、抽選に外れてしまっていた。
でもこの私設図書館は『応募』すらいらないのだ!!! ていうかもう紫陽のものなのだ!!!
まさかタカハシとの結婚にこんなオプションが付いてくるとは〜。
ヨダレ垂れそう〜。
紫陽は首を忙しく動かした。
夏目漱石がある。森鴎外がある。吉行淳之介がある。谷崎潤一郎がある。川端康成がある。
江戸川乱歩も、芥川龍之介も、吉野弘も、佐藤春夫も三好達治も、ああそれに与謝野晶子がある!!!
与謝野晶子が! 全集で!! このうち天国すぎ!
鏑木紫陽は与謝野晶子の大ファン。4年の片思いを彼女の詩集『みだれ髪』とともに過ごしたのであった。
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后の位も何にかわせむ!
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藤原孝標女にでもなった気分だ。
◇
「気に入った?」
振り向く前に背中ごと抱きしめられた。
「一生入り浸ってていいよ」
耳元でタカハシの甘く湿った声がした。
足の裏から頭のてっぺんまで痺れるような感覚。体が固まって。何も言い返せない。
背中全体にタカハシの匂いや体温を感じる。
タカハシにゆっくり首筋をキスされた。思わず目をつぶってしまう。呼吸が早くなる。肩にキスが落ちて左の指を持ち上げられてキスされた。
左の薬指にはプロポーズリングが光っている。
「はい……」ようやく声が出た。
「せんせい……」
「うん」
「やる気満々なんですか?」
「えっ!?」
「和室に布団が敷いてありましたけど」
いやっ。そういうことじゃなくてっ。明け方まで眠れなかったからたたむ余裕がなくてっ。緊張したんだっ。
「先生なのに緊張するんですか?」
「先生だって……プロポーズのときは緊張します……」
「今もしてるんですか?」
「ちょっと……」
振り向いてタカハシに抱きついた。もうどうなったっていい。
◇
高橋是也は教職について15年になる。
紫陽の代で273名の女生徒がいた。3で割ると1学年91名。91名を15年で掛ければ1365名になる。
その誰一人、見せてもらえないタカハシをその夜紫陽は見た。それだけで十分だった。
タカハシと手を繋いで寝室に向かいながら紫陽はニンマリした。
今日の彼女はシルクスリップの下に真っ赤なブラとショーツをつけて、胸のところに黒いリボンを結んでいた。
『スタンダールの「赤と黒」です。先生』
部屋についたら是也に思い切り抱きついて言うのだ。
『私今から、先生と「革命」を起こすんです』
タカハシ笑ってくれるかな?
『きれいだよ』
って、言ってくれるかな?
◇
眠ってしまったタカハシの髪を撫でる。生え際の白髪や目尻の細かいシワが愛しかった。
少し硬い張りのある唇に人差し指と中指でそっと触れた。
32歳からのこの人しかわからなくて。17歳も歳が離れてて。これからもずっと歳の差が縮まることはないけれど。
38歳も、48歳も、58歳もずっと一緒にいれたらいいな。
与謝野晶子みたいに、夫の鉄幹に恋して生きたいな。
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細きわがうなじにあまる御手のべてささへたまへな帰る夜の神
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紫陽は先程までのことを回想していた。タカハシは彼女を見つめて何回も『きれいだよ』って言ってくれたのだ。
あんなに輝いた彼の笑顔を見たことがなかった。
紫陽にはタカハシが神のように思えた。彼の首に抱きついて与謝野晶子の歌を復唱した。
「ささえたまえな。かえるよのかみ」
◇
トントントントン……という音で目が覚めた。
いい匂いがする。お味噌汁の匂いだ。ネギを刻んでいるのかな。ネギのお味噌汁かな。嬉しいな。
ガバッと跳ね起きる。
あ! ここタカハシの家じゃん!!
慌ててパジャマのまま台所にいくと、タカハシがネギを味噌汁の鍋に入れるところだった。
「おはよう。紫陽」
「おはようございますっ」
うっわ。名前呼びじゃん名前呼びじゃん!! 彼女的ポジションじゃん!!!
彼女っていうか、婚約者でした〜。
左手をひらひらさせてしまう。プロポーズリングがまぶしいぜっ。
「あっ。先生私も何かっ」
「座ってて」
ストンッと椅子に腰を落とした。
いや、ちょっともうタカハシお手製の朝食ですかぁ〜〜〜!?
サトルがさぁ! 月2回も食べていやがるタカハシの朝食っ。死ぬほど羨ましかったゴハンが今私の目の前にっ。
炊き立てご飯に♡ ネギの味噌汁にっ♡ 大根おろしつきの卵焼きじゃん♡♡♡
「こんなものしかないけど。召し上がれ」
「も〜〜♡ 写真撮りた〜〜い♡」
「それほどでも」
タカハシが吹き出した。
「美味し〜〜♡ 卵焼きフワッフワ〜♡♡」
「マヨネーズを入れるのがポイントなんだ」
見たか! 1365名の女子高生どもっ。タカハシお手製の朝食だぞ〜〜。
女子高の前で拡声器使ってアジりたい気分だ。
『得体の知れない鬼太郎』のゴハン美味いぞ〜〜〜。
◇
朝ご飯の後日本茶を湯飲みで出して、タカハシは急に真面目な顔をした。
「それでね。紫陽」
「はい」
「来週。お母さんにご挨拶に行きたいんだ」
「(2022年4月)9日の土曜日ですか?」
「そう」
確か紫陽の母親はその日非番のはずだ。
「母に聞いてみます」
「うん」
「……もう挨拶に来てくださるんですか」
「うん。婚約したこともご報告しないといけないしそれにね」
「はい」
「……これから毎週うちに泊まるでしょ?」
ちょっと恥ずかしそうに自分のお茶に目を落としたタカハシの両手を、ガッとつかんだ。
「泊まります!! なんなら帰りませんっっ」
『それは帰らないと駄目だよ』と注意された。
◇
母親のアゴを外してしまった。
自宅で「お母さん。話があります」と紫陽は改まった。
「なになに〜!? どうしたの〜?」
母親がニヤニヤしちゃってる。今回の旅行だって『本当は女友達じゃないんでしょ〜』と思っているのだ。
「私、結婚しようと思うんだけど」
「おめでと〜〜!!!しよう〜〜〜」
ガバッと母親に抱きつかれる。
「とうとうサトルが息子になるのね〜〜〜♡」
「違います」
「はっ!?」
「久保悟先生ではなく、高橋是也先生です」
「……はぁ!?」
母親がすごい勢いで体を離した。
「たかっ。タカハシ!? 高橋先生!? え? あの『真面目一本やり』みたいな!? はっ!? 今まで全く話に出てこなかったじゃないの!? なんでタカハシ!?」
無理もない。
何せ毎週のように紫陽の家でご飯食べてたのはサトル。
日曜日に紫陽を玄関まで迎えに来るのはサトル。
ズケズケ女の子の部屋まで上がり込んでくるのはサトル。
タカハシなんぞ……1度も見かけたことないのだ。
紫陽も母親になんと説明したら良いか困った。『久保先生は高橋先生の親友で。私と高橋先生をくっつけるために家に来てた』と説明するのだが、母親の顔にずーーっと
?????
という疑問符が張り付いてしまってた。
「だっ。だってサトル、紫陽にプロポーズしてたじゃない!? 『お前俺の嫁に来い』っておかーさんの承諾も取ってたじゃない!?」
取ってました〜〜〜。
サトル〜〜〜。
ややこしいことになったじゃないか〜〜〜。
もう面倒になってその場でサトルに電話した。
母親に渡すとスマホの向こうでサトルが爆笑した。
「お母さんごめんねー。オレフラれたのよー。お宅の娘さん、あのクッソ真面目しか取り柄のねー男の方がいいって言うからさー。あっ! なんならお母さんがオレと結婚する!?」
慌てて電話切ったよ! バカサトルがっっ!!!!
◇
4月9日土曜日。
紫陽はタカハシを玄関に迎え驚いてしまった。
あの! タカハシが! シャツのボタンを1番上までキチッ止めてネクタイをしていたのだ。
スーツもいつものヨレヨレしたやつじゃないよ! まともだ! ブランドもんだこれっ!!!
紫陽は見惚れた。この人。ちゃんとするとすごいカッコイイじゃん。
元々端正な顔立ちで、『どっかの裕福なお坊ちゃま』的男なのだ。
それがまあ第一ボタンを常に外しネクタイ緩めて手をズボンのポケットに突っ込んでいるせいで
新宿朝7時をトボトボ歩く売れないホスト
にしか見えないのである。
「馬子にも衣装ですねっ」と言うと「褒めてないよ」と返された。
何より驚いたのが前髪を切り揃えていたことだった。トレードマークの『鬼太郎』カットじゃない! もう『得体の知れない鬼太郎』じゃないっ。
嘘でしょ〜〜〜!?
タカハシの本気具合が見てとれた。
◇
タカハシは客間に通されると、両手を畳につけて深々とお辞儀をした。
「紫陽さんと結婚させてください」
真っ直ぐな姿勢で、両眼を見せて、俳優のようないい声で言った。
母親に反対する隙なんかなかった。
反射的に「いえっ。こちらこそ娘をよろしくお願いします」と紫陽の母も頭を下げたのだった。
◇
結婚の具体的な日程の話になった。
タカハシが「紫陽さんもまだ学生ですし、あまり焦らず……」と言った瞬間に「4月29日に籍を入れますっっ」と紫陽が横槍を入れたのである。
慌てるタカハシと母親。
「29日って? え? 今年の!? 紫陽っあと2週間しかないけどっ!?」
「カブラギ……。それじゃあ結婚指輪も間に合わないし、まだ大学3年だろう」
出ました。鏑木紫陽の『突飛』おまけに彼女は頑固であった。
「籍入れるだけです。指輪はその後でいい。とにかくっ。私は是也さんと29日に結婚するんですっっ」
タカハシと母親は顔を見合わせた。鏑木紫陽という女は一度『こう』と決めるとテコでも引かないのだ。その『目標達成力』で名門女子高に入り、大学も現役合格、逃げまくるタカハシを落としたのである。
どんなに説得してもダメだということは2人ともわかっていた。
それにタカハシは知っている。
なぜ紫陽がその日にこだわっているかを。
2022年4月29日は高橋是也38回目の誕生日である。
3年と少し前。34歳のときタカハシは当時付き合っていた彼女にプロポーズする予定だった。
しかし元カノはタカハシ含め3人の男と付き合った挙句、オーディションのように3人を審査した。タカハシは『オーディション』に落ちた。
そして最後まで本当のことは何一つ言わずタカハシと別れ、よりにもよって4月29日に結婚式を挙げたのである。
タカハシにとって自身の誕生日は何より辛い記憶の日になった。
紫陽が今左手にはめてる『プロポーズリング』だって元はといえばタカハシが元カノのために購入したものだ。
鏑木紫陽はそんなタカハシの辛い人生を『幸せ』に上書きしようとしている。
それは彼女の『革命』だった。
渡せなかったプロポーズリングを紫陽がはめる。できなかったプロポーズを長野で受ける。
4月29日を紫陽との結婚記念日にする。
そうやって辛い記憶を幸せで塗り替えてしまおうとしている。だから他の日ではダメなのだった。
膝の上でぎゅうっと両手拳を握りしめる紫陽をタカハシはしばらく無言で見た。
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二十とせの我が世の幸はうすかりきせめて今も見る夢やすかれな
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与謝野晶子の歌を1人心の中で密かに反すうすると、母親の前で再度手をついた。
「急で申し訳ありませんが、29日に籍だけ入れさせてください……」
頭を下げるタカハシの横で紫陽も慌てて母親に頭を下げた。
「わかりました。わかりましたからお顔を上げて……」と言われるまで2人微動だにしなかった。
◇
こうして『鏑木紫陽』は2022年4月29日『髙橋紫陽』になった!
婚姻届の証人欄には久保悟と紫陽の母親が名前を書いた。
サトルにこっそり耳打ちされる。
「よー。カブラギィ。これ。『夫となる人』と『証人欄』の名前。逆じゃね?」
「馬鹿っっ」
サトルは悪戯をする子供のように笑った。
役所に『婚姻届』を出しにいくとき。タカハシはあのスーツを着ていた。生真面目に第一ボタンも止めてる。
こうすると本当堂々としててかっこいいなぁ。
これなら女子高生たちに『得体の知れない鬼太郎』なんて陰口叩かれずにすむのに。
紫陽はプロポーズを受けた時に着ていた薄黄色のワンピースだ。
「是也さん」
「うん」
「そのスーツ。サトルが選んだんじゃないですか?」
ふふふふ。「わかる?」
紫陽がタカハシの腕をぎゅっと握る。
「わかりますよ」
「サトル張り切っちゃって大変だったよ」
そういう2人なのだ。
無事役所に届けを出した。
カブラギの家に向かう。
ゴールデンウィークの初日。街は輝いていた。役所は大きな公園に臨している。地面から直接噴射された水が高く上がり、子供達は水滴を飛ばして水の輪をくぐり抜けた。
芝生の上をポメラニアンが転がる。あちこちにテントが建てられて大きなシャボン玉が空を舞った。
この光景、一生覚えていたい。
紫陽の家に着いて、母親にお茶を出されると。一礼して結婚の報告をした。
「おめでとう」と言ってくれたので2人同時に頭を下げる。「「今後ともよろしくお願い致します」」
是也が紫陽を見た。
「紫陽」
「はい」
「これ」
ジャラッと音がしてキーホルダー付きの鍵をテーブルに置かれる。
「あ! ピーポくん!……じゃない」
そっくりだけど、頭の触覚? に赤いリボンをつけてる。
「ピーポくんの妹の『ピー子』ちゃんだよ」
へええええ〜。
「母の形見だけど、受け取ってくれる?」
「はいっ。喜んでっっ」
紫陽は鍵を『離すまい』と胸に抱いた。
テレレレッテレ〜!
『タカハシの家の鍵を手に入れた!!』
紫陽のレベルが上がった!!!
『うわぁぁぁ。ついにサトルに並んだぁぁ』と思うと紫陽はキラキラした。
『なんで30歳の男と本妻が張り合わなきゃならないねん』ということだが、何せ久保悟、難敵なのである。
なんかアレだ。すでに愛人のいる男の所に嫁に行った気分だ。どっかの王室か。
しかもその『愛人』に紫陽はプロポーズされたことがある。訳がわからない関係だ。
色がほとんど抜けた茶色の髪をフワフワさせている数学教師。
タカハシのためなら何でもやる久保悟。
◇
紫陽の家を出てから、もう一方の『家族』に挨拶に行った。
その墓所はタカハシの家から歩いて30分のところにあった。
階段脇に8センチくらいの緑の葉がたくさん繁っていた。「紫陽花だよ」と教えてくれる。同じ形の葉がどこまでも続いている。
「6月になったら見事でしょうねぇ!」
「見に行く?」
「はい!」
階段を20段。タカハシに手を取られて昇り、石畳を進んでさらにまた20段昇った。
1番奥の、黒い四角い墓標。それがタカハシの『家族』だった。
線香に火をつけて百合の花を飾る。手を合わせると与謝野晶子の歌が脳裏をよぎった。
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人にそひて樒ささぐるこもり妻母なる君を御墓に泣きぬ
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是也さんは私が幸せにします。お父さんとお母さんの分も。必ず。必ず。
◇
20代も後半になって『結婚ラッシュ』が来た。
紫陽の『新婚旅行』の話をするたび友達に爆笑される。
「え!? 旦那の家が新婚旅行先!」
「それ『旅行』じゃない! 単なる同居!!」
みなフィジーだ、フランスだ、ハワイだ行く中で紫陽は結婚のその日からゴールデンウィークが終わるまでタカハシの家にいた。
それを笑われているのである。
紫陽は不思議でならなかった。
『あんな楽しかった日々はないのに』と。
3年も見つめるだけだった人。1年は会うことすら叶わなかった人。告白したけど、何度もフラれて。やっと受け入れてくれて。それなのにけして家には上げてくれなくて。
そのタカハシと24時間一緒なのである。何もかもが輝いていた。
目が覚めるとタカハシが朝ごはんを作ってくれた。ご飯の時もあったしパンのときもあった。
野菜スープや。ウインナーや。バターを塗ったトーストにカフェラテを添えてくれた。
2人でスーパーに買い物に行った。お気に入りのピーナッツバターを知ってまた『タカハシという謎のパズル』を1ピースはめた。
夕方キャベツをはがしながら紫陽は詩を暗唱する。
「私の頭の中には、いつの頃からか、薄命そうなピエロがひとり棲んでいて、それは、紗の服なんかを着込んで、そして、月光を浴びているのでした」
「中原中也?」夫が紫陽の顔をのぞきこんで笑ってくれる。
「はいっ『在りし日の歌』の『幻影』ですっ」
「うん」
タカハシが紫陽からはがしたキャベツを受け取って水洗いし続きを詠んでくれた。
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私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。
ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。
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「味噌汁?」
「はい」
タカハシがキャベツを刻んでくれたので、紫陽は鍋に水を400CC測って入れた。出汁はパックのものを使っているそうで、ガラス瓶から取り出して1つ入れた。
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手真似につれては、唇も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやうーー
音はちっともしないのですし、
何を云ってるのかは 分りませんでした。
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「油揚げもいれますか?」
「いいね」
冷蔵庫から揚げを取るついでに味噌も出してくれる。
揚げは紫陽が刻む。
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しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。
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味噌をといて、出来上がり。
詩を一つ暗唱するうちに味噌汁が完成した。
◇
タカハシの家のお風呂場は豪華だった。
タイル張りだったのだ。
1人湯船に身を沈めてよく見えない目で周りを見渡した。
ぼんやりとした赤と黒のものがあって。それは眼鏡をかけると『錦鯉』の形になった。
『祖父が。つまり母の父親がタイル職人でね』
『へぇ〜』
『娘が結婚するというので張り切って家を改装したんだよ』
『お風呂屋さんに来てるみたいですよ!』
ふふふ『「お風呂屋さん」を目指したらしいんだ』
もし今この『レトロ風、風呂場』を作るならどんだけお金がかかるかと思うと嘆息するしかない。
タカハシは1人で20年もこのお風呂場を独り占めしたのか。
まてよ。サトル! あいつは入ったことあるんじゃないの!? 図々しく『タカハシ。風呂に入りたいからお湯わかせよ』ぐらいは言う! 間違いない! あいつはそういう男!!
嫉妬で湯船にぶくぶく〜と口を沈めてしまう。
しかもさ! 歴代の彼女!! ホラ、あの『最低オーディションの女』とか! タカハシもう38歳だし女の1人や2人や3人や4人この錦鯉眺めたんじゃないの〜。『レトロね〜』とか言っちゃって!!!
が〜〜〜〜〜〜〜〜っムカつく!
ムカつくっ!
タカハシの歴代の女ムカつくっ!!!
「鬼太郎にそんなに何人も女がいるわけないわ〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
と悋気の火の玉になって唸ると、その鬼太郎が顔をひょいっとのぞかせた。
「呼んだ?」
「うわっ。なんでもありませんっ。呼んでませんっ。『女むかつく』とか言ってませんっ」
湯面をバシャバシャしてしまった。
「女むかつく?」
一瞬不思議そうな顔をしたタカハシが石鹸を差し出した「はいこれ」
「え? 石鹸ですか?」
「もう無いでしょ」
そうだった。この間も『ボディソープじゃないんだ』と思ったのだった。いや。全体的に緊張してたので、全体的に記憶がおぼろ気だ。
「ありがとうございます……」受け取る。
ふふ。「『ゆあみする』だね」
「え?」
「与謝野晶子」
ああ!
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ゆあみする泉の底の小百合花二十の夏をうつくしと見ぬ
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急に『歴代の女』とかどうでもよくなって機嫌を直してしまう。
「ごゆっくり」
と言ってタカハシは消えた。
体を洗いながら『この石鹸いい匂いだな〜』と思った。
あ! これ! 知ってる!!
タカハシに自転車の後ろに乗せてもらったとき!初めて背中に抱きついたときの匂いだ!
タカハシの体からは石鹸と汗が混じった匂いがした。
この石鹸でタカハシと同じ匂いになるんだ。
夫婦ってだんだん似てくるって本当かな?
同じ石鹸を使って、同じ物を食べて、同じテレビ見て、枕を並べて眠ったら、どんどん『夫婦』になっていくのかな。
嬉しくてたまらない。手で石鹸をこすりあげて泡だらけにした。