033話 都市騒乱その7
───噂話。
人が集まれば、いつの時代も、どこであっても、話は転がり・膨れ上がり・移ろってゆく。
ここ探窟都市ディゴールの大通りの陰にも、人は魔を見出す。その魔は《魔界》の魔に非ず、己の心のうちに在る淀み。陰を見て、それに怯え、怯えたことに恥じ、理由をつけて他者を引きずり込む。
盛んな噂といえば“二人の《信業遣い》”の噂だが、それに次ぐのは。
“闇に浮かぶ瞳”。
ディゴールの夜は暗い。街灯の整備されていない路地というものは無数にあり、妖属ならざる人族には闇を見通す眼はない。必然、蠢く何かを視認することは容易くないのだ。暗がりに何かがいると気づけても、それが何かまで判別するには光が必要となる。
だが、闇の低いところにふっと光が二つ瞬けば。そして「にゃあん」と甘えるような鳴き声を聞けば。
ああ、猫かと気が緩む。誰であっても。
その男もそうだった。酒場で一杯ひっかけて、ほろ酔いで友人と共に家路を千鳥足で進む彼は、闇に浮かぶ瞳に、呂律も回らないまま「おお、なんだお前、こっち来い」と言った。
隣を歩いていた友人が、彼の声を聞いたのはそれが最後だった。
暗がりに近づいていく男にやれやれと思い、「もう帰るぞ」と声をかけて、返事がないことに訝しんで、
振り向けば誰もいない。───跡形もなく消えている。
友人は息を呑んだ。あの酔っ払いが、目を離した刹那にどこかに行けるはずがない。つまり消えたのではなく消された。悲鳴も上げずに。ならば次は? ───当然、俺の番だ。
真の黒の中に、ふっ、と光が二つ瞬いて。
「にゃあん」
友人は、一目散に逃げ帰った。
◇◇◇
「───って話なんだって」
「ちょっと、レッサ! 私が怖い話が苦手だって知ってるでしょ!」
大袈裟に怖がってみせるカリエに、レッサは悪戯っぽく笑った。元来、悪ガキにカテゴライズされる少女である。バスティ誘拐なんて暴挙に踏み切ったのも、日常的にスリ行為くらいには手を染めていたから。犯罪行為の一線を越えている以上、あとは程度の問題だったのだ。
とはいえ、彼女らが夜道を二人で歩いているのは悪事のためではない。転がり込んだ寄付金を孤児院の設備投資に充てるため、カリエが商会の人間と会った帰り道だ。レッサはその迎えにきた。
ユヴォーシュが都市政庁の遣いに誘われて会食に赴いた話や、カリエが導入した新しい設備の話、あれやこれやと雑談をする中で、流れでそれの話題になった。
つまり、“闇に浮かぶ瞳”の怪談話。
「おっかしーんだよ、この話が広まったせいでね、夜道で猫を見るだけで腰をぬかしちゃう人とかいたんだって。三毛のかわいー仔だったのに」
くすくすと笑うレッサに、カリエはしかし浮かない顔だ。自分も同じシチュエーションになれば足腰が立たなくなりそうだったから。ついつい、周囲の暗がりに気を配ってしまう。
「カリエ姉、怖いのぉ?」
「悪い? 大の大人があっという間もなく消えるなんて、怖いに決まってるから」
「えぇ~。なんかガッカリ。カリエ姉、じゃあ孤児院ではどうしてるの? あそこも夜中とか真っ暗でしょ」
「だから今度、永続灯をつけることにしたの」
「うわ、シテキ利用! そういうのどうかと思いまーす」
「いいのよ、私の孤児院なんだから!」
「にゃあん」
二人、弾かれたように振り返る。
一瞬前まで何でもなかった路地の暗がりが、《魔界》へ通ずる《経》と同質のように見える。もちろんディゴールから出たことのない二人が、禁域で厳重に監視される《魔界》への《経》など見たことはないけれど、つまり惹起されるのは混じりっけなしの感情だ。
何かに腕を掴まれて「ひっ」と声を上げるカリエ。掴んできたのはレッサの手だった。どっちも同じくらい震えていて、血が通っていないのかと疑いたくなる冷たさをしている。
闇に浮かぶ二つの瞳。
「にゃあん」
レッサとカリエは、踵を返して逃げ出した。




