傭兵団の包囲網
追跡の気配が半減したことに、オリオンは眉をしかめた。
おかげで脱出は容易になるが、どう考えてもオリオンの代わりに別の誰かが追われていることになる。
そして、このギルド本部にいて追われる身の人間はカーシュナーしかいなかった。
この時点でリタが作戦を無視し、自分を追いかけてギルド本部に潜入したことをオリオンは知らない。
一瞬、カーシュナーの援護に向かおうかと考えたが、それは二分された敵兵力を、再び一つにまとめるだけにしかならないと判断したオリオンはその考えを捨てた。
当初の計画通りに動く方が、カーシュナーも自分の動きを読みやすいはずだ。
だが、このまま敵兵を撒いてしまうと全兵力がカーシュナーの方に向かう可能性がある。
オリオンは今自分を捜索している半数の兵力を確実に引きつけつつ撒くことにした。
簡単に言えば、ギルドの兵士たちが自分を見失わないようにするために、適度に暴れることにしたのだ。
兵力が二分したことで、気配の密度にかなりのばらつきが感じられるようになった。
オリオンは気配の薄い個所に忍び寄ると一気に襲い掛かった。
指摘されればオリオンは否定しただろうが、その行為はまぎれもなく、ギルドマスターゼムを取り逃がしたことに対する苛立ちをぶつける八つ当たりであった。
当たられた方はたまったものではない。
三百年の歴史を誇る盗賊ギルドの歴代暗殺者の中でも、飛び抜けた実力を持つオリオンの攻撃である。所詮は急場しのぎで雇い入れられたならず者たちでは抗しようもなかった。
小部隊に分かれて捜索に当たったことが完全に裏目に出た。
実力差を人海戦術で補いきれなくなった時点で、兵士たちはただの生贄に過ぎない。
来た道を引き返すオリオンの速度は尋常ではなかった。当然足音も、衣擦れの音も立てない。それも完全な暗闇の中でだ。
五感に優れたオリオンは、障害物のない広大な空間にいるより、この地下水路のように閉塞された空間の方が、視覚を閉ざされた条件下では空間認識能力が高まるのだ。
かすかな音で距離を測り、わずかな空気の流れで脳内に見えないはずの通路を描き出す。水路から立ち上る臭い。壁の湿った臭い。すべての情報がオリオンの脳内図をより鮮明にしていった。
水路の先にいる兵士はおろか、壁を隔てたその先にる兵士たちの位置、人数まで正確に描き出される。
そして、どう移動し、どう殺すことが最も効率がいいか、その予測まで描き加えられる。
オリオンは音もなく忍び寄ると、描き出された最も効率の良い殺害方法を、1ミリの狂いもなくなぞり始めた。
どれほど激しく動こうと、物音一つ立てないオリオンの存在に兵士たちが気がつくのは、それまで一緒に賊を探していたはずの同僚が、突然糸の切れた人形のように倒れ込む、けたたましい音を耳にしてからだった。
音に驚き反射的に仲間の方を振り向く。だが、振り向いたときにはすでに、背後に回り込まれた後なのだ。何が起きているのか理解することすら出来ない。
そして、次の瞬間、不意に視界が下降する。
痛みすら感じる間もなく斬りおとされた首が、落下する瞬間に見る光景だ。
仲間の暗殺者たちがしたように、オリオンは兵士たちから光を奪わない。奪う必要すらないのだ。
松明が照らし出す光の輪のぎりぎり外側を移動し、揺れる影の中に身を潜ませて一気に近づき、兵士たちを仕留めて行く。
死ぬその瞬間も、自分がどこを誰から斬られて死ぬのか、それすら知ることも出来ずに兵士たちは倒れて行った。
十人前後の小隊では恐怖の悲鳴すら上げられずにあっという間に全滅させられてしまう。
そうやって瞬く間に百人ほど殺した時、不意に包囲の気配が崩れた。
ならず者と言えども馬鹿ではない。さすがに百人もの人間が音もなく殺害されれば、追っている対象が自分たちなどの手には負えない化け物であると気付く。
オリオンの鋭い五感に、兵士たちがそれぞれに自分を納得させる言い訳を口にしながら職務を放棄して逃げ出していく様が伝わる。
「いかん。やり過ぎた」
不機嫌そうな顔をさらに不機嫌そうに歪めて、オリオンはつぶやいた。
自分の存在を明らかにし、引きつけるはずだったのが、圧倒的な実力差を見せつけ、結果として追い返してしまったのだ。
一瞬、次回の襲撃のために敵戦力をさらに削いでおこうと、逃げる兵士たちを追おうかと考えた。だが、こういった類の人間など、腐肉に湧く蛆虫のように簡単に補充出来る。これから何人殺そうと、それは意味のない殺戮にしかならない。オリオンは無益な殺生はやめて計画通り脱出することにした。
裏切り者による被害がどれほどのものになったかわからない。その確認も必要だが、自分が早く仲間たちと合流出来れば、仲間のために出来ることが何かあるかもしれない。
オリオンは自分同様裏切りによって敵兵に追われているであろうカーシュナーの無事を願いつつ、再び闇と同化した――。
◆
「奇跡が起きて、盗賊ギルドが仕留めでもしない限りは来るでしょ」
軽い口調でそう言って肩をすくめたのはヘリッドだった。
そこは地下水路の一角――。
オリオンたちが脱出先に考えていた水路だ。
「そんな奇跡は起きない。起きるなら俺はとうの昔に死んでいる」
ヘリッドの言葉に、薄く微笑みながら答えたのはアイメリックであった。
傭兵稼業を少年のころから続け、時に味方からも命を狙われながら今日まで生き延びている。
あの男が数を頼りの力押しで倒れるのなら、自分も初めて二つ名を得た戦で死んでいたはずだ。
「ええ、残念ながら奇跡は起きないでしょうね」
先程の自分の言葉を、ヘリッドはあっさりと否定してみせた。
「ゼムはオリオンを人の範疇に納めて考えている。まあ、いくらギルドで一番の切れ者とは言え、当人が並の身体能力しか持ち合わせていませんからね。わかれと言う方が無理でしょう。ゼムが布いたオリオン討伐の布陣は、貧乏人のズボンのケツよろしくあっさり破れるでしょう。オリオンは人としての境を大きく越えている。俺はそう思っています。まともな人間に、あいつは殺せません」
その顔は、いかにもいい加減な男よろしくニヤけているが、瞳の奥が笑っていないことにアイメリックは気がついていた。
「それほどの男を裏切るというのか?」
アイメリックが微笑を浮かべたまま問いかけてくる。
ヘリッドはその問いに苦笑を返す。
「俺には旦那みたいな知名度も、宰相閣下の後ろ盾みたいなコネもないんでね。最大の利益を得るために、一番高く売れるものを売るしかないんですよ」
「それが仲間ってわけか」
それまで口を挟まず聞いていたバルブロが、鼻で笑う。
「笑いたければご自由にどうぞ。俺はこの終わらない冬を甘く見ちゃいないんでね。打てる手は、ここで確実に打つんですよ。さらに一年冬が続くようなら、ヴォオスは終わる。宰相閣下が世界一の金持ちだとしても、天気を金の力で変えることは出来ませんからね。今のうちにギルドで稼げるだけ稼いで、年が明けたらゾンあたりに避難して、悠悠自適に暮らしたいんですよ」
人を食ったような物言いではあるが、ヘリッドの言ったことは間違いではない。
アイメリックがどういうつもりでいるかはまったくわからないが、バルブロも状況次第ではヴォオスに見切りをつける腹積もりでいる。
ヴォオスが潰れるときは、ヴォオス以北の国も皆潰れる。
そうなればおびただしい数の難民が、ゾンのような大陸南方に位置し、終わらない冬の影響が少ない国々に流れ込むはずだ。
ゾンの人間は奴隷が向うからやって来ると能天気なことを考えているようだが、故郷を捨て、引き返す土地のない人間の津波は、ゾンを呑み込もうとするだろう。
この先の人生を、食うに困らず生きて行こうと考えたら、バルブロは目の前の優男を笑えなくなっていた。
自分はアイメリックの敵にならないためにその下についた。
人によっては腑抜けた行動に映るかもしれない。
だが、それを笑っていた人間はことごとく死んでいった。
バルブロはアイメリックを敵と認識した人間が一人も生き残っていないことを知っている。
自分だけは例外で、アイメリックと敵対しても生き延びられるなどとは想像することすら出来ない。
かつて一度だけ試してみたことがある。
アイメリックの前に立ち、目を閉じる。
アイメリックと対峙しつつ、自由に思考を働かせる。その結果、脳裏に映し出された映像は、幾通りもの自身の死だった。
細胞が本能的に死を受け入れたのだ。
自分は生きるためにアイメリックの側に立つことを選択した。
目の前の優男は、生き残るために、オリオンと言う男を売り渡すことを選択した。
恐怖のかたわらに場を定めるということは、肉体的に安らぐ時間はあっても、精神的な安らぎは決して訪れない。
それは、死という逃れようのない大穴の淵を、どこまでも歩き続けるということなのだ。一歩踏み外せばいきなり死に呑み込まれる。
もし、アイメリックを殺せる者が現れたとしたら、自分はどうするだろうか?
売ることによって一生涯を支えられるだけの富を得られるとしたら?
売るだろう。
そこまで考えて、バルブロは自分自身を笑った。
あり得ないことを仮定として妄想を膨らませることに意味はない。
そんなことをするのは、地下競売場で禁制品をしこたまキメ込んで、脳みその芯までラリっている馬鹿貴族どもだけで十分だ。
傭兵に妄想は必要ない。
現実を生きるだけだ。
自分にとっては妄想に過ぎないことが、目の前の男には現実として訪れたのだ。
人の境を越えたと言い切るほどの男を殺せる男が、目の前に現れた。
死の淵を覗き込み続けた男が、死神を崇めてすがる気持ちは理解出来た。正直うらやましいとさえ思える。
自分はこれから先もずっと、アイメリックという死の淵を覗き込み続けなくてはならないのだ。
淵から足を滑らせるのが先か、気が狂うのが先か、どちらに転んだところで、ろくな終わり方ではない。
だからこそ、自分は現実を楽しんでいるのだ。
美味い飯を食い、高い酒を飲み、極上の女を抱く。
馬鹿が真っ先に考えそうな幸せな生き方。
そこには崇高な意志も、志もなく、ただ、刹那の享楽だけがある。
それの何が悪い。
惨めに生きて、惨めな死にかたしか出来ない人間が、この世にはごまんといる。
力がないばかりに惨めに死ぬしかない連中の分も、自分は楽しんで生きるつもりだ。
ヘリッドと名乗った優男は、案外自分とよく似ているのかもしれない。
そう思ってもう一度裏切り者の顔を見る。
全然似ていない。
世の中は不公平だ。
何とも言えずいら立たって来たバルブロは、つまらない思考をいじくり回すことをやめ、身体を動かすことにした。
「こんなジメジメした地下水路でジッと待ってるのも飽きたし、その優男の話を信じて囲い込みに行ってくるわ」
バルブロはアイメリックにそう告げると、壁に立てかけておいた棍棒を手に取った。
<巨人>の二つ名に良く似合う、単純にして恐ろしい破壊力を持った武器だ。
「腕の立つ幹部連中に気をつけろよ」
アイメリックが薄っすら笑って警告する。本気で心配などしていないことが伝わってくる。
「例の水路の交差路に追い込むから、後は上手くやれよ。逃げられても次は手伝わんからな」
アイメリックの警告には答えず、並の人間では持ち上げることすら一苦労する棍棒を小枝のように振りながらバルブロは言った。
アイメリックが心配していない以上に、自分自身、死ぬことなどかけらも考えてはいない。たとえ元暗殺者だろうと、人の境の内側にいる人間に、自分が負けるなどあり得ないからだ。
「ああ、一つ報告するの忘れてた。例の二人、制御出来んかった。勝手に先行しちまったから、うっかりオリオンとかいう暗殺者討ち取っちまったら勘弁してくれ」
アイメリックから十分な距離離れてからバルブロが報告する。
「忘れていた割にはしっかりと距離を取ったな」
アイメリックはすべてを見抜いたうえで皮肉る。
水路の壁にごまかし笑いを反響させながら、バルブロはアイメリックがオリオンと一騎打ちするための舞台を整えるために去って行った。
ヘリッドと二人きりになったアイメリックが、視線を向けずに問いかける。
「予定通りか?」
どういう意図で発せられた言葉なのか測りかねたヘリッドが、一瞬言葉に詰まる。
「……あ~、これまで人生が予定通り運んだ試しがないんでね。まだわかりませんよ」
ヘリッドは肩をすくめて答えた。
「そうか。それで、貴様はこれからどうする?」
「旦那がオリオンを確実に仕留めてくれるのを、安全な場所で待たせてもらいます。万が一討ち漏らされたら、途端に俺の命が危うくなるんでね」
「好きにしろ。俺はそのオリオンという男と戦えれば、それ以外はどうでもいい」
「じゃあ、お言葉に甘えて好きにさせてもらいます」
そう言うとヘリッドも去って行った。
その背中にアイメリックの視線が注がれている重圧を完全に無視して――。
一人残されたアイメリックは、好奇心とも満足ともつかない笑みを浮かべながら、オリオンが追い込まれてくるであろう地点へと向かった――。




