脱出
盗賊ギルド本部の地下空間が慌ただしい空気に満たされていくのを、カーシュナーは仮面越しに感じていた。
本部の奥深くに潜入しているオリオンよりも、本部と表の地下競売場との中間点付近で待機していたカーシュナーの方が、盗賊ギルド本部を外周からぐるりと取り囲み、内側へと袋の口を閉じるように兵士たちが移動していく気配をより早く察知することが出来た。
例のメダルをちらつかせ、傲慢な態度で隊長とおぼしい人物を捕まえ情報を聞き出す。
暗殺者が潜入していること。幹部がすでに何人も殺害されていることを話してくれた隊長に、乱暴に懐から金貨をつかみ出して握らせると、カーシュナーは慌てて逃げ出した。
その無様な背中に冷笑を浴びせつつも、隊長は気前だけはいい貴族に安全な通路を教えてくれた。
ようやく裏切り者が動いてくれたか。
教えられた通路を無様に逃げ出す貴族を演じながら、カーシュナーは仮面の下でニヤリと笑った。
裏切り者の当てはついているが、その意図までは読み切れていない。
最終的に望んでいるのがギルドマスターの椅子なのか、はたまた、まったく違う目的を持って動いているのか、現段階では判断が難しい。
だが、大きく荒らしてくれた方が、アイメリックに対する牽制になると考えたカーシュナーは、裏切り者を泳がせていた。おそらく、当の本人も、カーシュナーの意図を読んだ上で動いているに違いない。
根拠はないが、今回の襲撃に合わせてアイメリックが動くとカーシュナーは考えていた。
あの男の勘働きはもはや異常だ。人の業ではない。
今回の襲撃に対して、カーシュナーは自身でアイメリックに情報を流すつもりでいた。それも正しい情報だ。
下手に偽情報を流そうものなら、おそらく見抜かれてしまうだろう。そうなればアイメリックは独自の判断で行動を開始する。
だが、正しい情報を渡せばアイメリックはその情報に基づいて行動する。理にかなった行動であれば、カーシュナーは相手がアイメリックであろうと、その動きを読むことが出来るのだ。
念のため、ダーンにはアイメリックの動静と、クロクスの動きを監視してもらっている。
アイメリック自身に見張りを付けることは出来ないが、その右腕的存在であるバルブロや、オリオンを追い詰めるために動かすであろう傭兵たちの動きを探ることは出来る。
手間を省いてくれてありがとう。と言いたいところだが、向うは向こうでこっちをいいように働かせたいのだろう。こちらに利がある限りは乗るだけだ。
カーシュナー自身のギルド本部区画からの脱出は問題ない。
オリオンもこの程度の質の兵士の包囲網など、造作もなく突破するはずだ。
気がかりは戦闘力の低い盗賊たちだ。
こちらの動きは明らかにオリオンを狙ってのものだが、脱出路の確保に動いていた盗賊たちと、競売場区画での暗殺を終えて盗賊たちと合流しようとしている他の暗殺者たちの元にも、同様の包囲網が敷かれているはずだ。
オリオンたちが離反してから半年以上が経っているが、いまだにギルドはその拠点を探し出すことが出来ていない。
そうこうしている内に盗賊たちのさらなる離反を許している。
ゼムからすればのこのこと巣穴から出て来た裏切り者たちを一網打尽にし、箍のゆるんでしまった盗賊ギルドをもう一度締めつけたいはずだ。
今回の襲撃を見逃すはずがない。
「まあ、リタがいるから大丈夫だろう」
そう独り言ちたカーシュナーだったが、まさかそのリタが当初の計画を無視してこのギルド本部に潜入しているとは知らなかった。
「いたぞっ!!」
兵士たちの怒声が思いのほか近くで聞こえ、カーシュナーはぎくりとする。だが、見つかったのは自分ではない。兵士一人追いかけてこないのだから間違いない。
一瞬、オリオンがカーシュナーの身を案じ、打ち合わせた脱出路を無視してこちらに合流しようとしているのではないかと考えた。だが、そんな考えは即座に捨てる。仮にそうだとしたら、これほどあっさりと発見されるはずがない。それではまるでカーシュナーのもとに敵兵士をおびき寄せているようなものだ。
「女だっ!!」
「侵入者は女だぞっ!!」
その言葉でカーシュナーはすべてを理解した。
人目につきやすい貴族の装束を素早く脱ぎ、裏返して再び身にまとう。先程までのきらびやかな装いが一転地味な色合いのものに変わる。
こんな状況で発見されればさすがのカーシュナーも言い逃れようがなかったが、兵士は来ないと割り切り、思い切りよく行動する。
最後に仮面を上下逆さにして身に着けると、闇に溶け込む装束と相まって、仮面だけが宙に浮いているように見えた。
頭の中でギルド本部の図面を広げて精査する。
ギルド本部は以前から外敵対策として迷路のような構造をしていたが、この辺りは特に構造が複雑になっている。
発見された人物がその辺りを見込んで逃走しているのであれば、通路を埋め尽くす規模の兵士相手でもやりようがある。
カーシュナーは馬鹿正直に通路を駆けていく兵士たちを影の中から見送ると、不意に壁の中へと消えて行った。
隠し扉の存在を知らない兵士たちを出し抜いて、カーシュナーは一瞬で通路を先回りする。
全身を耳にして進みながら、カーシュナーは頭の中の図面を兵士たちで塗りつぶし、残った通路から合理的な逃走路を導き出す。
この時点でカーシュナーの頭の中にはほぼ正確に逃走者の位置が描き出される。
位置を特定すると、カーシュナーは真逆の方向に走り出す。
その表情には不測の事態に追い込まれているにもかかわらず、いたずら小僧の様な笑みが浮かんでいる。
「こっちの準備が終わるまで、上手く逃げ回っていてくれよ……」
カーシュナーは独り言をつぶやくと、さっそく何もないように見える壁を操作し、再び走り出した――。
◆
「……勝手に計画を変更すると、こういうことになるわけね」
いまだに麻痺したまま感覚の戻らない左腕を抱えながら、リタは自嘲気味につぶやいた。
ギルド本部に潜入後、リタは仕掛けられた罠にかかり、麻痺系の毒を受けてしまった。このままの状態でオリオンと合流しても、助けになるどころか単なる足手まといにしかならないと判断したリタは、解毒薬を持つカーシュナーと合流しようと、盗賊ギルド本部を奥へと進むのではなく、入り口方向へと移動していた。
だが、程なく周囲に人の気配があふれ出し、状況を理解した時には偶然のいたずらにより完全に包囲されてしまっていた。
加えて、包囲された場所も悪かった。
盗賊ギルド本部には、いくつもの罠が設置されている。
覚えられてしまっては何の意味もないので、罠の多くが定期的に交換されるが、中には常設型のものもある。
リタの頭には常設型の罠の位置と使用方法が入っていたし、道を知らなければギルドの構成員でも迷ってしまう迷宮部分の正確な図面も入っていた。
だが、リタが敵兵士に包囲された場所は、本当に何もないただの水路の組み合わせでしかなかった。
状況を覆すのに利用出来るものが何一つない状況で窮地に陥ってしまったのだ。
毒はまだ体中に広がらずにすんでいるが、内側から身を縛る鎖となっている。
左腕も使えないため、リタの戦闘力は通常の半分以下にまで低下していた。
身体が万全であれば強行突破も可能だが、今の状態では難しい。
リタは懐から油紙の包みを取り出すと、中から玉のようなものと火打石を取り出した。
素早く球を砕くとほぐしていく。それは何かの植物を乾燥させたものを圧縮して丸めてあったもので、ほぐしただけで目と鼻を強烈に刺激する臭いを放った。
見つからずにこの状況を突破することは不可能と判断したリタは、自ら存在を示すかのように火打石を短刀の柄で打ち、ほぐした植物に火種を落としていった。
闇の中で火を使えば一目瞭然である。
水路の両側から誰何する鋭い声が掛けられた。
途端に水路を全力で駆ける足音が満たす。
迫る精神的重圧を完全に無視して、リタは生まれた火種に息を吹きかけ育てていった。
兵士たちの手にしたランタンがリタの姿を捉える寸前に、火種はようやく炎へと成長し、ほぐした植物を盛大に燃やし始めた。
とても手の平に納まる程度の乾燥植物から発生したとは思えないほどの大量の煙が周囲へと広がる。
煙に巻かれた兵士たちは、突然襲い掛かって来た目と喉の強烈な痛みに激しくせき込みながら、涙を流して逃げ出す。
リタはその隙に音もなく水路の水の中に身を沈め、流れに乗ってその場から逃れる。
誰かが発した「これは毒煙だ!」の一言に、兵士たちは大混乱に陥り、水路の水底をゆっくりと逃げて行くリタに目を向ける者は一人もいなかった。
突然の窮地から無事逃げおおせたかと思った次の瞬間、リタの身体を何かがからめ取る。
今リタがしているように、水路の水の底を伝って侵入者が脱出出来ないようにと、水路に網が仕掛けられていたのだ。
網を水路の両側に走る通路から引いていた兵士たちが、突然の手ごたえに驚きの声を上げる。
ここまで不運の連続で窮地に追い込まれていたリタに、一つだけ幸運が訪れる。
煙に巻かれた兵士たちが、何とか煙から逃れようとまとっていた外套を脱ぎ、煙を扇いだのだ。
外套が起こした風に乗って、網を持っていた兵士たちに煙が襲い掛かる。
突然の目と喉の激痛に加え、息が出来ないという恐怖から兵士たちは一瞬ではあるが、リタが引っかかった網を離してしまった。
慌ててつかみ直した時にはすでに遅く、リタは網が弛んだ隙に短刀で切り裂き、何とか脱出することが出来た。
この幸運がなければ、リタはここで終わっていただろう。
リタは水中から跳躍すると水を投げつけ、手近な松明を次々と消していった。
あたりが闇に呑まれたのはわずかな時間だけだったが、その間にリタは何とか兵士たちの包囲網を突破した。
だが、存在そのものが知られてしまったため、オリオンを囲い込もうとしていた兵士の約半数がリタの追跡に回った。
いまだにその存在をつかませてくれない未知の敵と、一度は網に掛けた獲物とでは、狩り出す側の意気込みが違う。
リタは数を頼りに再び追い詰められていった。
地上よりはいくらかましとは言え、終わらない冬のただ中である。全身ずぶ濡れになてしまったリタの身体は、冷たい空気によって急速に体力を奪われていった。
また、滴る水滴がリタの追跡を容易にするためなかなか振り切ることが出来ない。逃げながら極力衣服の水をしぼるが、完全に水を切るのは不可能だった。
逃げ足が鈍るのが自分でもわかる。
体力の低下が毒に対する抵抗力を弱めてしまったのだろう。
麻痺してしまった左腕を押さえる右手も、通路の石床を蹴る両足も、いよいよ感覚がなくなってくる。
暗くなりかけた視界に、不意に淡い光の矢印が現れた。
警戒しつつ近づくと、床下近くの壁に描かれたその矢印の光に照らされて、通路を一度奥まで進み、引き返してきたような水滴の痕跡があるのがわかった。
矢印の指し示す先は確か袋小路になっていたはずだ。
罠かと思い立ち去りかけた足が止まる。
矢印のすぐわきに、石壁に刻み込まれた「ドジっ子か!!」の文字を発見したからだ。
こんな馬鹿馬鹿しい書置きをする人間は一人しかいない。
リタは素早く光の矢印を拭い去ると、矢印が指し示した袋小路へと走った。
本来通路を塞いでいるべきはずの壁が半開きになっている。
迷わず隠し扉を潜ると、リタは素早く通路を塞ぎ、壁に耳を当てて状況を探った。
「ここに水滴の跡がある!」
「向うは行き止まりだ。慌てて引き返して来たに違いない。向こうとこっちで落ちている水滴の量が違う。侵入者は近いぞ、追え!」
先程光の矢印があったと思われるあたりから、兵士の会話が聞こえてくる。
「いたぞっ!」
そんな兵士たちの会話に応えるように、通路の奥から声が上がる。
聞き覚えがあり過ぎるその声に、リタは思わず苦笑いした。
その声に誘われるように、兵士たちはリタの居る場所とは正反対の方へと駆けて行く。
合流するつもりでいたが、状況的にそれはまだ難しいだろう。
リタは少しずつ毒が回り始めた身体をごまかしつつ、再び走り出した。
「借りが増えていく一方だね。まったく……」
そう言うとリタはもう一度苦笑いした。
ドジを踏んだ自分を情けなく思いつつも、カーシュナーに再び窮地を救われたことが無性に嬉しい自分を笑わずにはいられなかったのだ――。
◆
突然一人の兵士が蹴躓いて倒れたかと思うと、全身を釣り上げられた魚のようにのたうち回らせながら、血の泡を吹いて死ぬ。
兵士の足には爪楊枝ほどの針が刺さっている。
それまで狐狩りを楽しむ猟犬のように嬉々として走り回っていた兵士たちに、いきなり不安と恐怖が襲い掛かってくる。
回り込もうとしていた別部隊の方からも、驚愕の声が聞こえてくる。
状況がわかっていない後続部隊が苛立たしげに追いついてくると、立ち止まる兵士たちを押し退けて前に出てくる。そして、押された兵士の一人が不用意に壁に手をついた瞬間、石壁の隙間から毒霧が噴射された。
吸い込んでしまった兵士たちが激しく痙攣しながら次々と倒れていく。
光源は手にしている松明のみで視界が悪く、その上毒霧は無色透明であったため、その効果範囲を免れた者たちの目には、まるで呪いにでもかけられたようにしか映らなかった。
「う、動くな!」
隊長らしき兵士が声を裏返しながら命令する。
言われなくても誰も動くつもりはない。
狐を追い込んでいたつもりが、いつのまにか化け狐の巣穴に迷い込んでしまったのだ。
狩る側であったはずが、今や完全に狩られる立場だ。
そして、兵士たちを追い詰めるのは、捕らえるための罠ではなく、殺すための罠である。
もしこの場に旧体制からの盗賊が一人でもいれば、状況は違っていただろうが、この場にいるのは荒事慣れした新参者たちばかりである。
盗賊ギルドが大改築される際に潜入したクライツベルヘン家の密偵ペテルが仕掛けていった罠を、ならず者の集まりに過ぎない兵士たちに見破れるはずがなかった。
普段この場所は、迷宮部分につながるだけの何の変哲もない通路なのだが、兵士たちをこの場に引き込む前に、カーシュナーは罠を作動させていた。
いつ、どこで、どんな罠が作動するかわからない恐怖から身動き出来なくなってしまった兵士たちに、松明の光の届かない闇の奥から、カーシュナーが猛毒の塗られた三角形のガラス片を投げつける。
音もなく飛来したガラス片を受けた兵士たちがさらに痙攣しつつ血の泡を吹きながら倒れていく。
暗視能力のない兵士たちは、侵入者を捜索するには掲げた松明の明かりに頼るしかない。だが、それは敵にとっては格好の的以外の何ものでもなかった。
「あ、明かりだ! 明かりを消せ! 狙い撃ちにされるぞ!」
誰かが叫び、慌てて松明が水路に突っ込まれる。
ジュッ! という一瞬だけ水面を沸騰させる音が響き、水路に暗闇が訪れる。
カーシュナーはすかさず円盤状のオカリナのようなものを、いくつの投げつけた。
それらは小石を投げて水の上を跳ねさせる水切り遊びの要領で水面を走る。
ただ、小石と違うのは、内部が空洞になっているため、まるで<嘆きの妖精>の叫び声のような音を発する点だった。
暗闇の中、魔物の叫び声としか思えない気味の悪い音が自分のすぐ近くを通り抜けて行く。
恐怖は頂点に達し、ぷつりと切れた。
仲間の死と、次は自分の番なのではないかと言う恐怖にさらされていた兵士たちは、腹の底から悲鳴を上げ、統率も隊列もなく、蜘蛛の子を散らすように暗闇の中を逃げ惑う。
さらに未発動だった罠が発動して死を量産したため、混乱はさらに深まり、恐慌状態に陥った兵士の一人が狂ったように剣を振り回し始める。
味方の剣がさらなる流血を生み出し、たった一人の敵を追い回していたはずの兵士たちは、周囲に湧く気配のことごとくを敵と判断し、壮絶な同士討ちを始めた。
「人間だけだ。間抜けな同士討ちを演じる獣はな」
自身の施した罠で同士討ちを引き起こしておいて、まるで他人事のようにカーシュナーは皮肉った。
水路の各所で発動させた罠にかかり、兵士たちがひどく動揺し、混乱していることがわかる。
カーシュナーは満足そうにニヤリと笑うと、先へ行かせたリタの後を追った――。




