クライツベルヘン家本邸
王都に構えられたクライツベルヘン家の別邸を、オリオンは直に見たことはない。だが、リタやヘリッドから話を聞き、おおよその外観は理解していた。
質実剛健――。
リタが何度も他の馬鹿貴族どもはもっと見習えと言うほど、気品と落ち着きのある重厚な構えの屋敷だったという。
カーシュナー、アインノルトと共に、クライツベルヘン家の本邸を訪れたオリオンは、予想を裏切る光景に思わず目を見張った。
大きさ、規模ともに、大貴族の名に恥じない見事な作りの屋敷である。それをぐるりと囲む城壁も、ヴォオスの各国境線に建設された城塞に劣らない堅牢な造りだ。
華美な装飾を嫌い、どこまでも現実的なその造りは、クライツベルヘン家の家柄を表している。
大貴族の屋敷と言うより、少しだけ居住性の良い城塞と言った方が近いかもしれない。
だが、それは予想の内だった。
オリオンを驚かせたのは、その屋敷の周囲だった。
そこかしこにかまくらが作られ、中では老人たちが暖を取りながら語り合い、その周りでは子供たちが歓声を上げて遊びまわっている。
ヴォオス最大の貴族の屋敷周りが、領民たちの憩いの場になっているのだ。
貴族に限らず、上流階級に属する人々の常識では考えられない光景だった。
それだけでなく、城門は大きく開け放たれ、時折子供たちが駆け込み、遊び道具を抱えて戻ってくる。
領主の屋敷に出入り自由なのだ。
さすがに汚してはいけないという遠慮から、建物にまで入ろうとはしないが、敷地内へ気軽に入っていくこと自体がありえないことであった。
「領主と領民。互いの信頼関係が深ければ深いほど、その距離は近くなる」
オリオンの驚きを察したアインノルトが、自慢げに説明する。
「子供たちもね、好き勝手しているようで、ちゃんとしてはいけないことはわきまえているから、問題になるようなことは起こらないんだ」
「問題を起こすのはどちらかと言うと、クライツベルヘン家の人間の方だからな」
カーシュナーの説明に、アインノルトが苦い顔で補足する。
「ヴァールーフ兄さんは?」
カーシュナーが二番目の兄についてたずねる。その下の三男であるセインデルトは、現在ヴォオス南の国境線を守護する、ミデンブルク城塞の復旧工事の援助のため、工兵部隊を率いて出払っていた。
「ハウデンの近海に、また海賊どもが姿を見せ始めてな。そちらの討伐に出向いている」
ハウデンとはクライツベルヘン領で唯一の港町である。
「またですか。懲りないですね」
「この終わらない冬の影響だろう。まともに生きていたのでは飢えて死ぬしかないからな」
「ヴァールーフ兄さんが出るなら、飢えて死ぬ前に溺れて死にますよ」
「違いない」
アインノルトとカーシュナーは、全く似ていない面立ちにもかかわらず、よく似た悪い顔で笑った。
「あっ! アインノルト様だ! おかえり~!」
一人の子供が三人を発見すると、いったいどこにいたのかと言うほどの数の子供たちが集まって来る。
「カーシュナー様もいる! 珍し~!」
「でも、なんかフラフラだぞ!」
「ほんとだ!」
「何拾って食べたの~!」
アインノルトの陰に隠れていたカーシュナーに気がつくと、子供たちの興味の対象が一瞬でカーシュナーに移る。
何気に扱いが軽い。
「この子供たちは何なのだ?」
オリオンがアインノルトにたずねる。カーシュナーは子供たちがかますボケにいちいちツッコミを入れているため話しかける隙間がない。
「クライツベルヘン領は広い。場所によっては雪で世間から切り離されてしまう土地もある。そんな孤立した状況で病人などが出ても満足な対応は出来ん。だから、そう言った土地から老人と子供を一時的に避難させている。今はその避難民に加えて、近隣の町村から子供や老人たちが集まり、避難してきた人々を助けているのだ」
「……遊んでいるようにしか見えんが?」
「それだって立派な助けだ。住み慣れた土地を離れ、この先どうなるかわからない不安をそれぞれが抱えている。どんなに楽しそうに笑っていても、ふとした瞬間暗い表情で故郷の方を見つめていたりする。お年寄りたちは特にそうだ。どうせ死ぬなら家で死にたいとよくこぼす」
「なるほどな。俺はどうも力ない人々の心情を汲むのが下手でいかんな。どうしても自分基準で考えてしまう」
「君のことは何も聞いていないから、君がどういう人生を歩んできたのかは知らん。だが、君が卓越した技量の持ち主だということはわかる。であれば、君にしかわからない事、君にしか出来ないことが必ずあるはずだ。君はそれを成せばいい。そして、君には出来ないことは、出来る人間に頼ればいい。君がすべきことは、頼るということを覚えることだ」
そう言ってアインノルトは笑った。それは、見る人を安心させる包容力を持った笑顔だった。
「二度とはない機会だ。すべてを学ばせてもらおう」
人の器と言うものを改めて意識しながら、オリオンは答えた。
自分では自分の器は測れない。他者からどう評価されるかはどうでもいいが、せめて仲間たちには、今自分がアインノルトに対して感じているような安心感を与えてやれるようになろうと思う。
「一つだけ忠告だ」
アインノルトが真顔に戻る。
「忠告?」
「クライツベルヘン家の者に関わると、例外なく悪い影響も受ける。それには気をつけろ」
そう言ってアインノルトはニヤリと笑った。
「もう手遅れかもしれん」
オリオンの答えに、アインノルトは大笑いした――。
◆
重厚で堅実な外観によく似合う調度品で統一されたクライツベルヘン家の屋敷は、まるで初夏の森林にでもいるかのように快適な空間を造り出していた。
貴族の屋敷は、来る者を迎えるためのようでいて、実は自らの権力と財力を誇示し、見る者を威圧することを目的に飾り立てられている。
オリオンは仕事でいくつかの貴族の邸宅を詳しく知る機会があったが、どこもこれ見よがしに、壁に名画、家具調度には、ルオ・リシタ製の高級品と、馬鹿の一つ覚えのような内装ばかりだった。
住む人。迎えられる人。クライツベルヘン家の屋敷には、どちらにも快適な癒しの空間を提供しようという設計者の意図があふれていた。
人生のほぼすべての時間を地下で過ごしてきたオリオンは、思いやりを基礎として設計されたクライツベルヘン家の屋敷に、素直に感動していた。
ふらつくカーシュナーに手を貸しながら、当主であるヴァウレルの執務室に向かう。
途中で会う使用人たちは、礼儀正しく三人が通り過ぎるまでは壁際に並んで控えていたが、通り過ぎると慌てて駆けだしていく。
並の人間であればそんな様子は感じ取れないが、五感に優れたオリオンには、使用人たちが共通して口にした「とにかく食べさせないと……」というつぶやきまで聞き取っていた。
誰もがカーシュナーの容態を、心底心配しているのだ。
(この男の周りにいる人間は、誰もがこの男のために何かしてやりたいと考えている。きっと、この男が見返りを求めずに行動するからなのだろうな)
その背中を支えながら、オリオンはそう思った。自分もこの男には返しきれないほどの恩がある。カーシュナーがいなければ、自分はスタインの秘策で陥った窮地を脱するために、仲間たちを手にかけなければならなかっただろう。救い出した子供たちに関してもそうだ。カーシュナーがいなければ、子供たちは今もスタインが使用した魔毒による禁断症状で苦しみ続けていたはずだ。
借りは今後も増え続けていくだろうし、とんでもなく優秀なこの男にしてやれることが、果たして自分にあるのかと思う。
おそらくカーシュナーに関わるすべての人が、同じような思いに駆られるに違いない。それがこの男が作り上げる組織の大きさと堅固さにつながっているのだ。
そんな思いにふけっていると、カーシュナーが目顔で、「どうかしたのか?」と、問いかけてくる。
体力的には無理やりにでもベットに押し込んでおかなければいけない状態のはずだ。それを気力で動かしている。そんなギリギリの状態にもかかわらず、周りに対する気配りがおろそかになることがない。
「なんでもない。お前は階段から転げ落ちない事だけ考えていろ」
そう言ってオリオンは苦笑した。こちらが気遣われたのではあべこべだ。
「転げ落ちる心配なんかしてないよ。ひっくり返ったら受け止めてくれるんだろ?」
そう言ってカーシュナーは無邪気に笑う。
オリオンは再度苦笑するしかなった。この男は元暗殺者である自分をかけらも疑っていないのだ。
「けがをさせて帰ったら、レノあたりに怒られそうだからな」
「違いない。レノはちょっと過保護だからな。しかも怒ると怖い」
そうなった状況を想像して、二人は吹き出した。
そんな二人の様子を、アインノルトが温かい目で眺める。
執務室の前にたどり着くと、何も言わないうちに、扉の両側に控えていた衛兵の一人が扉を開ける。事前にカーシュナーたちが到着したら通すように言われていたのだろう。
執務室に入る前に、カーシュナーは衛兵二人と軽くこぶしを合わせる。二人とも心底嬉しそうに笑った。
「父上、ただいま戻りました」
アインノルトが報告する。
報告を受けたヴァウレルは、目を通していた書類から目を離さずに返事だけ返すと、片手を上げて待つようにと指示してくる。
最後まで目を通し、サインをして決裁を済ませると、ヴァウレルはようやく顔を上げた。
「すまん。待たせたな」
「領民からの陳情の方が大事です。いくらでも待ちますよ」
カーシュナーが笑顔で答える。
嫡男のアインノルトが均整の取れた見事な体格をしているのに対して、その父親であるヴァウレルは、いかにも骨の太そうな、ぶ厚い胸板に広い背中、衣服を通してもよくわかる、筋肉の発達した太い手足をしている。身長も180センチ以上あり、存在感と言う意味では、2メートルの長身だが引き締まって細身に見えるカーシュナーよりもはるかに優っている。髪には白髪がかなり混じり、六十代と言う年齢を感じさせるが、皮膚にたるみはなく、深いしわが幾本か刻まれているだけで、年齢による衰えをまったく感じさせない。
落ち着きのある雰囲気もあり、壁か岩のような存在感だ。
「ずいぶんフラフラだな」
顔を上げ、カーシュナーの様子を見て取ったヴァウレルが眉をひそめる。
「子供たちに魔毒が使用されまして、治療のために血を使いすぎました」
「魔毒だと!」
ヴァウレルの表情が一気に険しくなる。
「入手経路は残念ながら追えませんが、発見された以上の量が、まだどこかに隠されている可能性はありません」
「その子供たちはどうした? お前が生きてわしの目の前にいる以上、無事であることはわかるが、王都はそれほどに荒れているのか? バルトアルトからはそのような報告は受けてはおらんぞ?」
「王都は徐々に腐るように荒廃を続けておりますが、父上が懸念するような状況にはまだ陥ってはおりません。クロクスは野心家ではありますが、無能とは程遠い男です。自身の地位と財産を守るためにも、王都が極端に腐敗することはないでしょう。ですが、子供たちが安心して大人になれるような状況でもありません。子供たちは開拓村の方に連れて行きました」
「そうか」
カーシュナーの報告に、ヴァウレルはうなるように答えた。
「そちらの御仁の紹介がまだだが?」
ヴァウレルがオリオンを品定めするように視線を向ける。その目が驚きに揺れるのを、カーシュナーは見逃さなかった。
「こちらはオリオン。クロクスと手を組んだ盗賊ギルドに異を唱え、離反した者たちの代表です」
紹介されたオリオンは一歩前に出て深く頭を下げた。
「子供たちを受け入れていただき、感謝しております」
「感謝するのはこちらの方だ。カーシュナーが見込む人材は、こちらが頭を下げてでも来てもらいたいところだからな。挨拶が遅れてすまない。クライツベルヘン家の当主ヴァウレルだ」
ヴァウレルはそう言うと、オリオンの前まで行き、手を差し出した。
オリオンも反射的に差し出された手を握り返す。
両者はそれだけで、互いの戦士としての力量を計り合った。
「世界は広いな。これほどの男が、名も知られずにまだ存在しているとはな。まだまだもうろくは出来んな、テオドール」
ヴァウレルが豊かな口ひげを揺らして大笑いする。家系なのだろう。笑うと岩から彫り出したかのように厳しかった顔が、愛嬌のある顔に変わる。
話を振られたテオドールと言う男は、先程から一言も口を利かず、ヴァウレルをいつでも補佐出来るようにと控えていた男だ。
テオドールと呼ばれた男は、おそらくヴァウレルと同世代だろう。白髪はないが、額の生え際がだいぶ怪しい状況にある。
体格はヴァウレルを若干細身にした感じではあるが、身じろぎ一つしないその身体からは、体幹の強さがうかがい知れる。初対面のはずだが、どういうわけか知っているような気になる。その隙のないたたずまいに、オリオンは覚えがあった。
「まことに。領地にこもっていてはわからないことが、世界にはまだまだあるようでございますな」
答える声にも聞き覚えがある。だが、それはもっと若さにあふれた声音だった気もする。
「ダーンの父親だよ。剣の師匠でもある」
カーシュナーがオリオンの内心を読み取り説明する。
それで合点がいった。顔は全く似ていないが醸し出される雰囲気が瓜二つだ。
「クライツベルヘン家の人間の下で苦労すると、皆同じような空気をまとうのだ」
アインノルトが補足する。
つまり、ダーンがカーシュナーの下で苦労しているように、目の前のテオドールと言う男も、若いころからヴァウレルの下で苦労して来たということだ。カーシュナーの父親であることを思えば納得のいく話だ。
「カーシュナー様。愚息の姿が見えないようですが?」
「悪いね、テオ。ダーンには従者以上の仕事をしてもらっているよ。やっぱり会いたかったかい?」
「いえ。お役に立っているのでしたら十分です。使えなくてくびにでもなったのかと思いまして」
「相変わらずダーンには厳しいね」
カーシュナーが思わず苦笑する。
「自ら買って出た従者の務めです。半端や甘えを許すつもりはありません。お戻りになられましたら、愚息にそうお伝えください」
「わかった。伝えておくよ」
カーシュナーは苦笑したまま頭をかいた。
「それで、どういった用向きでたずねて来たのだ。単に挨拶のために来たのではあるまい。その体調を押してまでわしに話さなければならんことがあるのであろう?」
ヴァウレルが単刀直入にたずねる。
カーシュナーはふらつく身体を気合で真っ直ぐにすると、ニヤリを笑った。
「父上。当主の座から退いてください」
それは、ヴォオス最大の貴族に対する引退要求であった――。




